墓の穴

坂入

墓の穴

 隣町の火葬場はもう使えないので村の墓地に埋葬するしかなかった。

 しかし埋葬すると言ってもそんな力仕事が出来そうなのは村で僕一人しかいない。老人と病人しかいないような村なので仕方がないと諦めるとスコップと老人の死体をリヤカーに載せ、村はずれにある墓地を目指した。

 直射日光の下、舗装されていないあぜ道を黙々と進む。荒れた道ではリヤカーがガタゴトと揺れるため運ぶのが酷く大変で、道のくぼみに車輪がはまったときは抜け出すまで三十分ほどかかった。そんな苦労もあり墓地に着く頃には汗だくになっていた。

 大きく息を吐き、額の汗をぬぐい、スコップを手に取る。墓石の近くは別の死体が埋まっているかもしれないから適当に離れた場所を掘れと言われていた。なので僕は墓地と墓地の隣にある森の中間あたりを適当に掘り始める。

 小柄な老人とは言え人一人を埋めるための穴を掘るのにどれくらい時間がかかるのか、それがどれくらい大変な作業なのか、僕は知らない。ただ、まあ、どうでも良かった。

 山間にある寂れた村で周りは年寄りばかり。テレビも映らなければスマホも使えないのだからもうすることなんて何もない。だから穴を掘る時間はいくらでもある。疲れたら休めばいい。死体は文句を言わないのだから、どれだけ時間がかかってもいいのだ。

 そうやって僕が穴を掘り、疲れたら休み、また堀り、休み、を繰り返していると森の方からガソゴソと音が聞こえた。

 タヌキかイタチか、はたまた熊か。そんなことを考えながら顔を上げ、音のした方を見ると少し離れた場所に女の子がいた。

 僕と同年代か、少し下くらいの女の子だ。背は僕より頭一つ分くらい低く、腕と足と胴と首は僕より一回りぐらい細かった。黒い瞳は目を引くぐらい大きく、瞳と同じ色をした長い髪はふともものあたりまである。着ている白く無地のワンピースは汚れ一つなく清廉で、幻のようだった。

 女の子は僕のことをじっと見つめていたけれど、やがて小首をかしげ、かしげていた首を元に戻し、にっこりと笑った。

 僕はその場に倒れそうになった。

 あんな笑顔は初めてだった。あんな風に笑いかけてくれる女の子に会ったのは生まれて初めてだった。

 若い女性を見たこと自体が数ヶ月ぶりだったけれどそんなことは関係ない。彼女は他の人にはない何か特別なオーラを身にまとっていた。キラキラと輝く、後光のような。細く長い手足は美しさを醸し出すことはあっても不健康さは微塵も感じさせず、深く黒い瞳は夜と星の輝きを放っていた。彼女の長い黒髪は肌とワンピースの白さと組み合わさることでコントラストを産み出し、まるで絵画のような情景を創りあげている。

 僕は、挨拶がしたかった。「こんにちは」と、ただそれだけの短い挨拶をしたかった。どんな形でもいいから彼女と言葉を交わしたかった。しかしその短い言葉を吐こうとしても僕の唇は緊張で石のように固まってしまい「こんにちは」の「こ」の字すら出てこない。

 僕は口を開くこともできずバカみたいに棒立ちのまま彼女のことを見ていた。見ているうちに涙が出てきた。人生で、こんな女の子に出会えるなんて思いもしなかったのだ。

 ふと、何も喋らずに涙目で突っ立っている自分のことを彼女はどう思うのだろうかと考え、恐怖に駆られた。気持ち悪いとか思われていたらどうしよう。そう想像しただけで胸が重くなり、血液の流れが乱れ、心臓が痛くなった。やはり挨拶だ。挨拶だけでもしなくてはあまりにも不審だ。そうわかっているのに、わかっているはずなのに僕の口は未だ緊張でぴくりとも動かない。

 挨拶ができないならどうすればいいか。僕は必死に考え、考え、考えて──穴を掘ることを再開した。

 体重をかけてスコップを地面に突き刺し、土をすくい、外にかき出す。それを繰り返し、穴を掘る。

 自分で自分を殴ってやりたかった。何をやっているんだ、彼女に挨拶もせず穴を掘るだなんて。それはただの現実逃避だ。そんなことより早くその手のスコップを捨てて彼女に「こんにちは」と挨拶をするんだ!

 そんな葛藤とは裏腹に僕は順調に穴を掘り進めていった。この分だと思っていたよりも早く穴を掘り終わるだろう。しかしその代償はあまりにも重い。きっと彼女はもう何処かに行ってしまった。挨拶もしなかったのだからそうなるのは当然だ。あんなに素敵な彼女だったのに、あんなに素晴らしい彼女だったのに、挨拶の一つもできなかっただなんて。

 もうそこに彼女はいないという現実を見るのが嫌でずっとうつむいたまま穴を掘り続け、休みなく掘り続け、そして掘り終わった。掘ったばかりの穴に死体を入れるため穴の外に出るとすぐ傍に彼女がいた。

「────」

 彼女は穴のすぐ近くにまで来ていて僕のことを見ていた。もしかしたら穴を掘っている間中、ずっと僕のことを見てくれていたのかもしれない。

 彼女がすぐ傍に、ほんの二、三歩近づいて手を伸ばすだけでふれられる距離に彼女がいる。その事実だけで僕の心臓は早鐘を打ち胸が苦しくなりこのまま死んでしまいそうになる。だから僕はなるべく彼女のことを意識しないようにしながら──無駄な努力だったが──死体を穴にいれ、スコップで穴を埋め始めた。

 ぎこちない動作でスコップを使い、老人の死体を埋めていく。だが僕の頭は彼女のことでいっぱいだ。こうしている間も彼女の視線を感じる。彼女がスコップを持つ僕の手を見ているのがわかる。彼女の瞳から放射された熱量が僕に伝わり、それが僕と彼女の絆になっている。僕は彼女と繋がっているのだ!

 だけどその繋がりも穴を埋め終わるとなくなってしまう。穴が埋まったのを見届けると彼女はくるりと僕に背を向け森へと歩いて行き、そのまま森に入り、森の奥へと姿を消した。

 僕は適当な石を墓石代わりに置くとリヤカーを引いて村に帰った。


    ///


「こんにちは」

 僕は記憶の中の彼女に向かってそう挨拶をする。次に彼女と会えたとき今度こそちゃんと挨拶をするための練習だ。僕は誰もいない空間に向かって繰り返し練習をする。「こんにちは」。「こんにちは」。そうやって挨拶をすると妄想の中の彼女はにっこり笑って挨拶を返してくれる。その笑顔がたまらなくキュートだったのでそれが現実の出来事ではないことも忘れてその場に倒れそうになった。

「────」

 立ち止まり、深呼吸をして落ち着きを取り戻す。心臓の鼓動が平常値になったのを確認してから僕はリヤカーを引き始めた。

 以前と同じリヤカーを引いて以前と同じ道を進む。リヤカーには以前と同じくスコップと病死した老人の死体が載っていて、目的地ももちろん同じだ。けれど足取りは以前とは違いとても軽い。

 墓地に行けばまた彼女に会えるかもしれない。

 彼女に会ってから今日までの数日間、ずっと夢に彼女が出てきた。夢の中で僕はずっと彼女と一緒にいて、夢から覚めると彼女の幻ばかりを見ていた。幻の彼女はとてもリアルなので僕は何度もそれを本物の彼女と間違え壁に激突したり足をとられて転んだりを繰り返した。ときたまそれが幻でしかないことがとても哀しくなり焼けた鉄釘を呑み込んだような苦しさに胸を掻きむしったこともあったけれど、気を失えばその辛さからも逃れることができた。

 寝ても覚めても彼女のことを考え続けてきただけにまた彼女と会えるかもしれないと考えると呼吸に障害が起きるほどの幸福感に包まれた。けれど必ず彼女に会えるという保証は何処にもなかった。むしろ一度でも彼女に会えたことが奇跡なのではないか、そもそも彼女という存在自体僕の妄想が産み出した天使のような何かだったのではないかと考えると不安で胃液を吐きそうになる。実際墓地に着くまでに二度吐いた。

 墓地に彼女はいなかった。けれどまだ絶望するタイミングではない、前に来たときも彼女は最初から墓地にいたわけではなかったのだから。

 僕は前と同じように適当に墓石から離れた場所を掘り始めた。穴を掘っているときは彼女のことを考えないよう努力した。彼女ともう一度会いたいという下心で穴を掘っていると彼女は出てこない気がしたのだ。ただ純粋に、無心に穴を掘ることでのみ彼女と会うことができる。僕は何か神聖な儀式に取り組むかのような心構えでただひたむきに穴を掘り続けた。

 森の方から何か音が聞こえた気がしたけど僕は顔を上げなかった。本当は不純な気持ちで穴を掘っていることを見破られてしまう気がして顔を上げられなかった。顔を上げてそこに彼女がいなかったときのことを考えると怖くて確認することができなかった。

 そんな不安や恐怖から目を逸らすために僕は一心不乱に穴を掘り続けた。穴を掘っている間だけは何も考えなくていい、何も感じなくて済む。ただ穴を掘る機械として存在していればそれでいい。

 けれど穴を掘り終わればまた僕は機械から人間に戻ってしまう。僕は穴の底にスコップを突き立て、怖々と顔を上げる。穴の縁から僕を見下ろす彼女と目が合った。

 こんにちは、だ。今まで何十回、何百回、何千回、何万回と練習してきたその言葉を口にするために僕は全ての気力を振り絞って口を開こうとした。しかし夢でも幻でもない現実の彼女を前にすると僕の唇は緊張で震え僕の意思では動かせなくなる。

 彼女を前にして挨拶もできずただ間抜けに突っ立っている自分が恥ずかしくて僕はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。涙のにじんだ目で自分の掘った穴の底を凝視する。それから蚊の鳴くような声で「こんにちは」と言った。

 自分でも驚いたが、彼女と目を合わさなければ挨拶をすることができた。

 おそるおそる顔を上げると、彼女は挨拶の返事をするようににっこりと笑った。

 笑いかけてくれた。

 気を失いかけたがかろうじて踏みとどまった。けれどその後のことはよく覚えていない。老人の死体を埋めたこと、適当な石を墓石代わりに置いた記憶はぼんやりとある。彼女とその後何か言葉を交わしたのか、彼女はあの後も僕に笑いかけてくれたのか、それらのことについては記憶が全て白く飛んでいて何もわからなかった。


    ///


 三度目であっても緊張はとけなかった。

 老人の死体を載せたリヤカーの傍で穴を掘る。三度目だから作業自体はもう慣れたものだけど、彼女に会えるかもしれないと思うと緊張で心臓が痛いぐらいに脈打ち吐きそうになる。けれど、三度目だ。三度目なのだから僕にも対策はあった。

 穴を掘っていると森の方から音が聞こえた。彼女だ。夢と幻で数え切れないぐらい邂逅し、現実で二度も彼女に会っていた僕はもうそのわずかな足音だけで彼女だと確信することができるようになっていた。

 平静を装いながら穴を掘り続けると彼女が穴の縁まで来たのが気配でわかった。顔を少しだけ上げると彼女の足が見えた。間違いなく彼女だ。こんな素敵な足をした人が彼女以外にいるわけがない。

 彼女の足を見ているだけで頭がくらくらしてきたので慌てて目を逸らし、穴の底を凝視する。そして僕は穴の底に顔を向けたまま「こんにちは」と挨拶をした。

 彼女がにっこり笑うことで挨拶を返してくれたことが気配でわかる。彼女が僕の挨拶に反応してくれた、それだけで幸せだった。彼女の笑顔を直視すると意識が飛んでしまうので顔を上げられないのが酷く残念だったがそれは耐えなくてはならない試練だった。

 僕は穴を掘る作業を再開し、視線はじっと穴の底に向けたまま「いいお天気ですね」と話しかけた。彼女は無言だったが、それは僕の言葉を無視したのではなく、ただ黙って頷くことで返事をしたことを僕は感じ取っていた。いや、頷いてはいなかったのかもしれない。けれど彼女が僕の「いいお天気ですね」という言葉に対して「そうですね」という意思を返してくれたことだけはわかった。

 これはもう会話だ。

 僕は彼女と会話をしているのだ。

 それから僕は涙で目をにじませながら色々なことを話した。昨日食べた煮物が半生だったこと。農作業をするようになってから筋肉がついたこと。自炊できるようになったこと。鶏を絞められるようになったこと。ここに来るまでは隣町に住んでいたこと。この村には祖父に会いに来たこと。両親は仕事の都合で来られなかったこと。今リヤカーに載っているのが祖父だということ。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ、僕は祖父を埋め終えると適当な石を墓石代わりに置いた。彼女はそれを見届けるとくるりと背を向け森の奥に帰って行った。僕も村に帰った。


    ///


 それから何度も彼女と話をした。天気のこと。食べ物のこと。作っている野菜のこと。隣町に住んでいたときに通っていた学校のこと。友達のこと。流行のドラマや音楽のこと。付き合いでやってたソシャゲのこと。墓穴を掘りながら僕は彼女を退屈させないように色々なことを話し続けた。村のこと。空き家が増えてきたこと。備蓄が心許ないこと。隣町の様子を見に行った人が帰ってこなかったこと。僕以外の村の人はみんな寝込んでいること。毎日のように墓地に通いながら今日は彼女と何を話そうかと考えていた。ずいぶん前に電気が来なくなったこと。ガスも使い切ったこと。夜が暗く寒いこと。星が綺麗なこと。一人で見上げた夜空は澄み切っていて、とても美しかったこと。夜、一人で泣いたこと。

 あるとき、僕は、穴を掘る手を休めて顔を上げた。彼女は穴の縁で僕のことを見ていた。微笑みながら僕の話を聞いてくれていた。

「ありがとう」

 僕は意識せずそう言っていた。ありがとう、ありがとう。僕は幸せです。でもその幸せが長くは続かないこともわかっていた。何故なら今掘っている穴が老人を埋める最後の穴だからだ。

 もう、村には僕しか残っていなかった。


    ///


 スコップだけを載せたリヤカーを引き、墓地に向かう。墓地と森の間には墓石代わりに置いた適当な石がずらりと並んでいて、それは元からあった墓石の数よりも多かった。

 なるべく森に近い場所を選び穴を掘り始める。少しすると森から彼女が来たのがわかった。

 僕は、彼女と話をした。

 アウトブレイクが起きたとき、たまたまこの村に来ていたこと。すぐに道路が封鎖され町に戻ることも、町に残った両親が村に来ることもできなくなったこと。通信障害が起きてスマホは使いものにならず誰とも連絡がとれなかったこと。テレビでアウトブレイクは複数の国で同時に起きたと言っていたこと。感染は拡大する一方だというニュースを見たのを最後にテレビも映らなくなったこと。ラジオの国際放送にも繋がらなくなったこと。村にも体調を崩す人が出て来たこと。一度倒れるとろくに体を動かすこともできなくなってしまうこと。それから数日で死んでしまうこと。

「僕は感染してないんだ」

 彼女に勘違いされるのは嫌だったからはっきりと言っておいた。

「見ての通り元気で、健康で、体調もいい。穴だって掘れるくらいだからね」

 僕のジョークに笑ってくれることを期待したけど、彼女は意味を理解しなかったようだ。少しの失望を感じながら僕はまた穴を掘り始める。今掘っている穴はいつも掘っていた穴よりも大きい穴なのでいつもより時間がかかっていたしいつもより掘るのが大変だった。でも、がんばって掘った。

 大きな穴だ。人が二人は入れそうな穴。

 僕はスコップを穴の外に投げ捨てると穴の縁に立っている彼女を見上げた。

「もし、君が良かったらでいいんだけど──」

 見上げた彼女の背後に空が見えて、それは青く澄んだ空で、高く、吸い込まれそうなほど高く。

「僕と一緒にこの穴に埋まってくれませんか?」

 そう言った僕のことを彼女はじっと見つめていた。見つめていた。そして小首をかしげ、かしげていた首を元に戻し、にっこりと笑った。

 それから彼女はくるりと僕に背を向けると森へと歩いて行き、そのまま森に入り、森の奥へと姿を消した。

 僕はその場で横になり、膝を抱えて泣いた。哀しかった。二人分の広さの穴は一人でいるには広すぎて、寂しかった。哀しさと寂しさと膝を抱えて穴の底で泣き続けていたら夜になった。夜の冷気が穴の底に沈んできて酷く凍えたけどそのうちに寒さを感じなくなった。哀しさも寂しさも感じなくなり、涙も止まった。僕はただ、穴の底で膝を抱えていた。

 そうしていると、どさ、と音がして土が僕の上に落ちてきた。もう目を開けることもできなくなっていたから何も見ることはできなかったけど、スコップで土をすくう音が聞こえた。それからまた土が僕の上に落ちてくる。どさ。

 彼女が僕を埋めてくれているのだと気づいた僕は再び涙を流した。彼女に埋めてもらえる僕は、多分、幸せなのだ。そして僕を埋めている彼女も幸せであればいいと、穴の底で、埋められながら、僕はただそれだけを願っていた。

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墓の穴 坂入 @sakairi_s

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