ラストシーンのずっと先へ

森亞ニキ

第1話

  十二月四日(確か晴れ)

   ぼくは人生を諦めました。疲れました。早い話が絶望しました。だから、ぼくは自殺することに決めました。



 十二月四日、深夜。都内某区上空。

「いい加減にしろ!」

   少年の叫び声が夜空を振るわせた。眉間に皺を寄せ、真っ直ぐに正面を睨みつけている。すらりとした体躯にピッタリな、黒を基調としたパンクファッションに身を包み、この寒空の下片足だけ細い太ももから足首までをさらしていた。そして両手で擦り切れた皮の鞄を大事そうに抱えている。鳥肌一つ立てない白い肌から、人間にはありえない、血の様に赤い瞳……何から何まで、少年は異質だった。──その極め付きは、背中に生えた漆黒の翼だ。さらにはピアスが複数あいているのは尖った耳であり、ズボンの隙間から鞭の様にしなる尻尾がでている。闇夜よりも深い、濡れたような黒髪が風に揺れた。

「だから、それを渡して」

 幼い、舌足らずな声とともに、暗闇から少女が姿を現す。少女は少年と対するように白いフワフワのスカートの上に、薄桃色のコートを着ていた。そしてその背に生えた純白の翼でゆったりと羽ばたきながら、少年に向かって手を伸ばす。少女の頭の上の金の輪が、鈍く光った。

「わたし急いでるの」

「……これで、何するつもりだ」

「関係ないよ」

「これは渡せない」

 少年が苛立たしげに羽ばたき、少女からついと離れた。しかし少女は少年にたやすく追いつくと、片翼を捕まえる。

「何すんだよ!」

 少年が再び叫んだ。少女は愛らしい顔に蕩けるような笑みを浮かべると、コートのポケットから素早く銀色に光るナイフを取り出し、ばっさりと斬りつけた。

「ぐああっ!」

 少年の顔に怯えが走るより先に、苦痛の色が浮かぶ。少女は笑みを浮かべたまま、べりべりと少年の翼をもぎ取った。ビチビチ、ブチ、と胸の悪くなるような音と、少年の悲鳴が重なる。

「ああああっ……あう、……く、うう……」

「うるさいなあ」

 少女は拗ねたように唇を尖らせ、鮮血の滴る黒い翼をネオンの光る街に投げ捨てた。脂汗をうかべる少年の腕から鞄を奪うと、フラついている少年の身体を、翼の後を追わせるようにドンと突き落とした。少年の身体はみるみるうちにネオン街に吸い込まれていき、少女の目には映らなくなる。

「……あは」

 少女は手に持った鞄をいとおしげに撫でると、べっとりと返り血のついた薄桃色のコートを脱ぎ、眼下の世界に放った。──少年への餞別とでも言わんばかりに。

「あはははははは!」

 少女の高笑いが夜空を震わせる。そして、自らも夜の街に舞い降りていった。



「……。」

   芝原恵一は眩暈を感じていた。ここ、自宅のマンションのベランダから見下ろす夜の世界は、恵一が想像していたものよりよっぽど高く、フェンスを乗り越えた今更ながら足が震える。眼鏡がズレ下がっているが、今のところ手を離して直す勇気はない。

(でも、もう後戻りはできない。ぼくは死ぬんだ。生きていちゃいけない……あ、でも死んだら萌え萌え少女るるたんも、魔女っ娘ピーチもみれない。それは残念だけど、ぼくは死ぬって決めたんだ)

 ──芝原恵一、十六歳。都内でも有名な私立の進学高に通っている高校二年生。ぼさぼさの頭に分厚い眼鏡で猫背でオタク、特技はパソコンのタイピングと魔法少女の変身呪文を一字一句間違えずに唱えられることと、同年代の女子から生理的に嫌われる要素を大体満たしている。さらに言えば要領がとても悪く、いつも貧乏くじばかり引いている。そしてクラスの数人の男子からいじめを受けているものの、担任は彼らの親が資産家で学校への多額の寄付をしているため対策は練ってくれない。幼なじみの親友が一人だけいるが彼とはクラスが別な上、彼は部活の花形サッカー部のエース。相談なんてできるわけがない。

 恵一はため息をついた。涙も零れたが、気付かないふりをした。恵一はもう諦めていた。いじめの理由も、今となっては恵一にはどうしようもないことだったからだ。

(天国にだってきっと萌えくらいあるさ。飛ぶんだ、飛べば、この地獄から開放されるんだから)

 ヒュウウ、夜風は冷たい。視界があまりよくないように昼間は避けて夜を選んだが、暗闇が余計に恐怖心を掻きたてる。真っ暗な世界に、どこまでも吸い込まれていきそうだ。ごくりとつばを飲み込む。

(『恵』一って名前なのに、ぼく、ひとつも恵まれなかったみたい……)

 心の中の懺悔はそろそろネタが尽きてきた。──死は、一瞬だろう。しかしいじめの現実は、明日もあさっても、ずっと続いていくのだ……。

 もう一度つばを飲み込んで、恵一は手すりから手を離した。目もぎゅっとつぶって、何も見ないようにした。

 あとは一瞬だ。恵一がそっと体重を前にかけたその時だった。

「危ないよ」

「うわ!?」

 突如すぐ傍で聞こえた声に、恵一は驚いて声を上げた。その衝動でズルリと足がすべり、恵一の身体は宙に投げ出される。ヒュ、耳元を空気が裂く音が一瞬だけ聞こえたが、唐突に恵一の身体は落下をやめた。

「あ……あれ?」

 状況が全くつかめていない恵一の身体が、再びベランダに戻される。一回転してベランダの内側に尻餅をつき、バサ、という大きな羽音に顔を上げると恵一は漸く瞳をあけて、そのまま言葉を失った。

 ──天使が、そこにいたのだ。

 それは例えでもなんでもなく、本当に言葉の通りだった。

   先ほどまで恵一がつかまっていた手すりに腰掛けていた少女は、冬だというのに肩を出した、どこまでも白いワンピースを着ていた。外見は小学生の高学年くらいだろうか。健一は雑誌で見た、ロリータファッションを思い出し、ああこんな感じなんだと納得した。たった一点だけ、肩からかけていた鞄が、服装とミスマッチしていたが。

   ワンピースのしたにもう一枚フワフワとしたスカートを重ねているようで、スカート部分は花びらのようにふんわりと膨れていた。足には汚れ一つないパンプス。そしてその背に生えた白い翼と、頭の上に浮いた丸い金の輪は、おとぎ話に出てくる天使そのものだった。また、少女の顔も愛らしい。夢を見ているような幼い顔立ちに、不思議な輝きを放つ銀色の髪とふさふさの睫毛に飾られた大きな青い瞳。人形のような完璧な美しさをもつ少女は、マシュマロのように甘い声で言った。

「こんにちは」

 ──それは、翼の生えた人間の口から出るには、あまりにも似合わないセリフだった。



「君は誰? なんなの?」

 恵一は目の前でココアを飲む少女に、慎重に問いかけた。

「お家にあげて飲み物までだしてからそんなこと聞くのは、遅いと思うよ」

 ふんわりと舞い上がる湯気の向こうで、少女が笑う。恵一はうーんと唸り、がしがしと頭をかいた。

 ──季節は冬だ。外は凍る様に寒い。あんな寒いところに、肩をだした少女一人放置することは恵一はできなかった。少女の外見は幼いので、尚更だ。とりあえずベランダから少女をマンションの中に通し、リビングのソファに座らせ、暖房をつけ、ココアをだしたまでは良かった。恵一はその正面に座り、あとは少女が話し出すのを待つだけだ。恵一の知っているアニメでは大抵そういう展開だった。……これは、自分の日常を百八十度変える、ドジッ娘魔法少女のドタバタ物語の開幕だと信じて疑わなかった。むしろ自分が自殺しようとしていたことに神様が嘆いて、天使を遣したのだとも考えていた。

(天使ってぼくのジャンルにはない外見だよね……でもカワイイ。身長は小学生くらい?随分小さいけど……ロリっていうのもなかなか)

 そのように恵一が妄想で悦に入っている前で、少女は幸福そうにココアを飲み続けた。……そしてとうとう恵一から切り出すまで、ココアから口を離さなかったのだ。そして先ほどのセリフ。二次元でよくある美少女の助けを求める声を予想していた恵一は、勢いの空振りにがっくりと項垂れる。すると少女はカップをテーブルの上において、ふっくらとした唇をツンと尖らせた。

「もう。動きが一々鬱陶しい」

「う、鬱陶しい!?」

(そういえばぼく、女の子ウケする外見じゃないんだった)

 少女の冷たい言葉が思いの他グッサリと刺さる。

(……やっぱ死のう)

 恵一はヨロヨロと立ち上がり、ベランダに向かう。少女の目が自分を追っている。恵一がベランダの扉に手をかけたとき、少女が手招きをして口を開いた。

「メガネくん」

「ぼくは恵一」

「恵一くん、ココアありがとう。こっち座りなよ」

「ここはぼくの家だよ……ねえ君。なにか困ってることとかないの……君天使でしょ? 普通天使って、天国にいるんでしょ」

「詳しいね恵一くん。もちろん困ってることはあるよ」

「え!? それなら早くいってよ、なに? 何に困ってるの!?」

 まってました。恵一は喜び、電光石火の勢いで少女の正面のソファに座る。ぐっと身を乗り出してから、少女が困惑していることに気付いた。青い瞳がパチパチと瞬かれる。

「……ヒく、よね」

 恵一は、自分の興味のある話だとテンションがものすごく高くなる。学校の中にこっそりといるオタク仲間にも、それが原因で「ぼくちんついていけないふ」などといわれ、もうオタクの話でも孤立無援になってしまった。

   純粋無垢な瞳が今にも自分を軽蔑した色になりそうで、恵一は目を伏せた。──と、髪の毛を撫でられる、小さな感覚。見れば少女の小さい手が、恵一のぼさぼさの頭を撫でていた。

「き、汚いよ」

「汚い? どうして?」

「……え、えと」

「恵一くんは、どうしてそんなにビクビクするのかな? そんなに気を使って自分を押し殺すことはきっと楽しくないよ」

「て、天使さん」

 少女の言葉は唐突だったが温かかった。掌は暖かかった。……もう何年も、こんな温もりをしらなかった。恵一は少女のことを、信じられないものを見る目で見る。少女の名前はわからないが、『天使さん』という呼びかけに、少女が応える。

「わたしが驚いたのは、恵一くんがわたしの話を聞かないうちから乗り気だったことだけだよ」

「あ、ありがとう」

「お礼を言われることでもない」

 ──砂漠に水滴が一滴落ちた、例えるならそんな文章だろう。恵一は思わず緩んだ涙腺を誤魔化すように目を逸らし、そっと腰を落とした。眼鏡をずらして目を擦ってから少女を見ると、少女はふんわりと微笑んでいた。

(萌え……リアルな萌え……)

 少女の周りにキラキラと輝く光が見える気がする。そんなことを考えて見とれていると、少女の青い瞳が呆れたように細められた。

「わたしの顔にはなあんにも書いてないと思うけど」

「ごめん、ちょっと萌えを……あ、でもぼくはロリコンじゃないから」

「……わたしは幼女じゃないんだけど」

「え?」

「わたしの身体、人間でいったら十四歳なんだから!」

 ぷん、と少女が拗ねたように顔をそらした。……その態度も体型も、どうみても十四歳には見えなかったが。

「ご、ごめん」

 慌てて謝る恵一を横目で睨みながら、少女は拗ねる。

「ごめんってば、本当に気付かなくて」

「……ココア」

「へ?」

「ココアおかわりくれたら許してあげてもいいよ」

「わ、わかったよ」

 すっかり空になっていた少女のカップを持って台所に向かう恵一の背に、少女の欠伸がぶつかった。。……気がつけば、深夜アニメの時間帯になってしまった。


 何度目かわからないおかわりを飲み干してから、少女はやっと肩から鞄を降ろす。それからちらりとテレビを見て、何も言わずに恵一に視線をもどした。恵一は萌え萌え少女るるたんを筆頭に始まる深夜の萌えパラダイスを『天使』の前でテレビに映すことを恥じながら、テレビより目の前の少女に集中することに専念する。自分用に注いだココアには手をつけることも忘れていた。

「話が脱線したから戻すね。わたしが困ってるのは、これ」

 少女はくたびれた鞄を膝に乗せ、そっと撫でた。

「それ何?」

 るるたんのOPテーマがいいBGMだと恵一は感じた。少女は、この曲は無駄に明るいねと一言呟いてから、答える。

「手紙がはいってるの」

「手紙?」

「……恵一くんたち人間にはとっても大切な手紙なの。この手紙を受け取ったら、一時間以内に手紙の内容を実行しないと死んじゃうんだ」

「死……?」

「死ぬの。それと、宛先の本人が実行しないと死ぬ」

(なんだって? チンジャーロース? あ、つまらない)

 あまりにも突飛すぎた結論に、恵一は固まった。その反応を当然と思っていたのか、少女は続けた。手紙を一つ取り出し、恵一に見せる。──よくわからないが、羊皮紙のような硬い質感で、封には青い蝋がたらしてあった。

「わたしが触っても意味ないんだ。命のある、『人間』がこの手紙に触った瞬間、一時間のタイマーがでるの。それを発動っていうんだけど、あとは今言った通り」

「そ、そんな危ないもの……イマイチ信じられないけど」

「信じて」

 キッパリとした少女の断言。恵一は少女と少女の手の封筒を見比べた。……こんな封筒一つで人の生死が決まるとは、到底信じられるような話ではない。だが目の前にいる少女は白い羽、金の輪。恵一の知る天使の特徴だ。実際にはありえない存在であった天使が言っているのだから、それもまた真実?

「その鞄、何だか郵便配達の鞄みたいだと思ってたんだ。……天使さんたちがそれ配るの? ランダムに?」

「ううん、宛名っていうのがちゃんとあるんだよ。お偉いさんが決めるの。その辺はよく知らない。ある程度近くに落とせば、あとは手紙のほうから宛て先の人に飛んでくんだ」

「ふうん……」

 少女の手の中の手紙は、よく見ると動いていた。少女の細い指から逃れようと、精一杯身を捩っているように恵一の目に映る。

「ね、動いてるでしょ」

「う、うん……天使さんが手動かしてるってことは」

「ないよ」

「そ、そっか。……でもなんで、宛先の人に触ったら発動じゃなくて、誰でもいいから『人間』が触ったら発動なの?」

「寝たきりとか、自分の意思で動けない人もいるからって。そういうルールができたんだよ」

「でも、それじゃ発動できても内容を実行できないんじゃ……」

「実際にそういう人たちが宛先の場合は、予め上で色んな調整がされてるから大丈夫。……でも、『人間』触ったら発動っていうのが全ての人に適用されちゃったのは予想外で、今も復旧中。ま、宛先以外に手紙が届くことはまずないからね」

「へええ。システムとか色々大変なんだなぁ」

「……恵一くんってさ、いつもこういう番組みてるの?」

「え? うん」

 唐突に話が変わり、その質問ももう隠しようもないので恵一は頷いた。少女が考え込むように眉を寄せる。るるたんのEDテーマが部屋に流れる。

「学校いってるよね。夕方は何してるの?」

「え、ええと、夜ご飯を食べて、ネットやってアニメみて、あと色々」

 質問の糸が見えず、恵一は困惑する。この少女は今更オタク差別なんてしないだろうが、私生活を暴露したあとの沈黙は痛すぎる。心配になってそろそろと呼びかけてみると、少女の青い瞳が一瞬煌いた。

(……?)

「ね、恵一くん」

「な、なに」

「わたし、キミを助けにきたの」

「え?」

「実はこの手紙ね、全部恵一くん宛てなんだ」

「え……ええええ!?」

 慌てて手紙を見つめる。──確かに宛て先の欄に何か書いてあるが、恵一には読むことができない文字だ。

「こんなに沢山の手紙が一人の人間に届くのははじめてのことなの。だから、わたし協力してあげようと思ってここにきたんだ。アニメばっかりみて、あんまり友達いないでしょ」

「というかほとんどいないけど……でも何通あるの?」

「十四通」

「……多くも少なくも、ないね」

「何か聞きたいことは?」

「え、えっと……一時間以内に終わらなかったらって、どんな風に死ぬの?」

「死因はまちまち。手紙はお助けアイテムみたいなものなの。実行できなかったら、もう決まってる運命に乗っ取って死因が決定する。自殺だったり他殺だったり、環境だったり事故だったり。もしくは、悪魔が宛先の人に届くまでに横取りして、手紙のどっかに予め死因を書いとくと、実行できなかった場合はその通りに死ぬ」

「悪魔もいるんだ」

「いるよ」

 少女は砂糖菓子のように甘い笑みを浮かべて、言った。

「後は?」

「普通は届く日時って決まってるの?」

「ううん、決まってない。天候とかでずれたりするけど、もう担当者の気まぐれ」

「気まぐれって! そんなことでいいの!?」

「いいの。だって普通は宛先ごとに結構な距離あるし、ほんの数通しかない一日分を配り終わって、一々天国までまた追加の手紙を取りに行くのも大変だからって、滞在期間を決めてから数日分をまとめて持って地上にくることになってるの。配達日時は決まってないけど、その滞在期間中に配り終えないと怒られちゃう。何通持って行ったかっていうのは記録に残っちゃうからね」

 なんとまあ、天使というのも随分お気楽な仕事なのかと恵一は思う。そして個人の自由を尊重しながらも行政化が進んでいる天国が人間社会のようだとも感心した。

「聞いてる?」

「あ、もちろん」

「ホントかなー?」

 少女が唇を尖らせて、目を細めた。恵一は慌てて席を立とうとし、ふと自分用に注いだ手付かずのココアを思い出す。無言で少女の前にカップを移動させると、少女の細められた目がまん丸になって、笑った。

「モノで釣られるほど卑しくないよ。でもありがとう」

(釣られてるよ天使さん)

 また気分を害されても困るので、恵一は心の中でツッコミを入れる。しかし少女の笑みが愛らしいし、ココアくらい別にどうでも良いので追求はしない。

「それで?」

「どこまで話したっけ? あ、そうだ。鞄からだされた手紙は飛んでいって宛先の人間に触れて、一時間のタイマーが動き出す。それと同時に手紙が発動したっていう報告が天国にいく。……それで、人間の死の時間を大体把握してるんだよ。失敗か成功かの報告も勝手にいくね」

 ──なんだかゴチャゴチャしてきた。恵一はゆっくりと頭を振って聞き取った情報を嚥下しながら、ふともっともな疑問を覚えた。はい、と手を上げると少女が恵一くんどうぞと指名をする。中々ノリのいい少女である。

「なんでぼくに対して十四通も手紙がくるの?」

「さあ。なにか偉いヒトの恨みでも買ったんじゃないかな」

「え、ええ!? ぼく、何したの?」 

「わかんない……ただ、手紙がこの鞄に入った状態でわたしがここに着たってことで、別にいつ手紙に触れて、内容を実行してもいいの。それが救いかなー」

「そ、そう。ぼく、なにしたのかな……アニメに恋したのが原因かな」

「……恋したの?」

「うん、でもそれはもう昔のことで……ああ、ごめん、続けて」

「で、わたしが困ってることがあるんだ」

 ため息交じりに少女が言う。恵一は今までの常識はずれの説明をもう一度頭の中で整理して、そしてもしかしたら自分が神様になにか恨まれることでもしたのかという怯えからすっかり意気消沈し、少女の言葉なんて正直聞く気になれなかった。けれども、少女の瞳に憂いの色が滲んでいるのを見た瞬間に、恵一の背筋は勝手に伸びた。

「わたしが困ってることっていうのは、この手紙を、十二月七日の日付が変わる前までに

全部終わらせなきゃいけないこと。わたしの今回の地上への滞在期間が十二月七日の二十四時までなの。それ以降までにわたしが戻らなかったら、なにかあったのかって調査団がきちゃう。そしたら恵一くんはどうなるかわからない。わたしは恵一くんを助けてあげたい。誰かが協力しないと、一人じゃ絶対に全部クリアできないと思うし」

「困ってることもなにも、全部ぼくの所為で、ぼくのためじゃない。天使さん、その……本当にいいの? ぼくにそこまでして生きる価値があると思う?」

「……そういうのは自分で探すんだよ。でもわたしの意見としては、十分あると思うけどね」

 ね、と蕩けるような極上の笑みを浮かべながら少女が恵一の手を取った。思わず心が跳ね上がる恵一だったが、少女の手は、手紙の封筒を恵一の手に重ねることが目的だったようだ。ガサリとした感覚に、たった今危険物と認識したものが触れたと知って恵一はヒッと声をあげた。──封筒の右端に、デジタル時計のような数字が浮かび上がる。ロク、ゼロ、コロン、ゼロ、ゼロ。つまり一時間。少女の言葉の通りタイマーがでた。それは砂が零れ落ちるように、羊皮紙の上でカウントダウンを始める。

「え、え!? なにこれ、ぼく死ぬの!?」

「大丈夫、落ち着いて。中身だして読んでみて」

「う、うん……」

 指が震えてうまく行かない。と、少女が手伝ってくれた。手紙の中身は黄ばんだ羊皮紙が一枚。黒いインクが恵一の目の前でゆらゆらと集まったり離れたりして形をつくり、文字列を浮かび上がらせた。これだけで超常現象だが、恵一は少女の言葉に何とか従おうと一切気にせずに文字列を瞳で負う。

「なんて書いてあるの?」

「ええと、親しい人に短所を指摘してもらう……って、何コレ」

「そういうものだよ」

「でももっと他にあるでしょ」

「そういうものだってば。でもとにかく、短所を言えばいいんだよ。猫背!」

「え? ……え、あ」

 少女の唇が音を紡いだ瞬間、サラサラと手紙が砂になって消えた。その砂すらもふっと消滅する。──残ったのは、未だ手紙をもっていたポーズのままの、間抜けな恵一だ。……簡単すぎる命運の決定に、恵一は思わずがっくりと肩を落とした。安堵も大きいが。

「こんな簡単でいいのかな」

「いいんだよ。内容はまちまちだけど、よかったね。一人じゃ無理でしょ?」

「う、うん。ありがとう」

「あと十三通。猫背直して、がんばろ、ね!」

 先ほどと同じように、蕩けるような満面の笑みで笑う少女。甘い甘い声に恵一は顔をあげ、うんと頷いた。──もう、すっかり自殺しようという気はなかった。自殺しようとしていたことすら忘れてしまった。内容はシビアだが、こうして恵一と魔法少女でもドジッ娘でもない少女のドタバタ物語は始まったのだった。恵一もそれを自覚して、笑った。


「あ、そうだ。恵一くん、家族の人は?」

 何気ない少女の言葉に、恵一はハッとして拳を握り締めた。笑みが引っ込んでしまったのが分かる。無理にでも笑おうとしたが、口の端が軽く引き攣っただけで笑顔にはなれなかった。

「わたしがここにいたら、驚くんじゃない? 恵一くんみたいに順応早くないと思うし……」

「……心配いらないよ」

「えー?」

 搾り出すような恵一の声に、少女が再び首をコトリとかしげる。恵一は拳を握り締めたまま、続けた。

(大丈夫だ、声は震えてない)

「心配、いらない。ぼく、いないんだ。家族」

「誰も?」

「うん、誰も。……父さんも母さんも、兄さんも……皆死んだから」

 ──テレビから流れる放送終了のブザー音が、部屋に響いた。



 十二月四日の芝原恵一の日記から抜粋

 ──今日、うちに天使がきました。

 小さくて色が白くて、まるで人形みたいにカワイイ子です。

 でもなんかとんでもない災難もつれてきてくれたみたいです。

 忘れないように、手紙に関することをまとめておこうと思ってます。気分を変えるために、戦うメイドさん・みるくのOPを歌いながら日記を書いていたら、その天使さんが困ったようにドアの隙間からぼくを見ていました。今日、この部屋はその天使さんに貸してあげようと思っています。これから何が起こるかぼくにはまだわかりません。でも不思議と怖くはありません。


 手紙のルール

 手紙に厳密な配達日時はないが、期間は決まっている

 近くに落とせば、自動的に宛先の人物へ飛んでいく

 命のある人間が触れた瞬間、一時間のタイマーがスタートする。これを発動という

 発動した手紙の内容を実行しないと宛先の人物が死ぬ

発動された手紙の内容が行われると手紙は砂となって消え、宛先の人物は生き延びる。これを実行という

   死因はその人物の運命によって決まっている

   悪魔が先に手紙のどこかしらに死因を書き込めば、実行できなかった場合はその死因になる 


 もう一度天使さんから聞きなおしたので、今度は呆れられてます。


 *


 十二月五日(くもりのち晴れ)

「天使さん……いつまで続ければいいの」

 トントントン。

「まだまだ」

 トントントントン。

「うう、ぐすん」

 非情ともいえる少女の一言に、恵一は涙の滲む瞳を瞬きした。それでも手の動きを止めることは許されていないので、もうしびれてきた右手の力を振り絞る。

「ショボショボする」

「でもまだだよ。消えないもん」

「目が痛いよ」

「そうだよ、たまねぎだもの」

 恵一の右手は先ほどから一定のリズムをたたき出していた。何をしているのかといえば、たまねぎのみじん切りだ。先ほどから二十分ほど、たまねぎのみじん切りを続けているのである。何のためかといえば、これも手紙を実行するためだ。


 思えば朝から恵一の災難は続いていた。恵一は学生だ。学校に行かなければならない。それなのに、いざ学校へ行こうと靴を履いた恵一のブレザーを小さな手は引っ張った。遅刻しちゃうよ、と焦る恵一対し、恵一の寝巻きをダボダボと羽織っていた少女は瞬きをするだけで何も言わない。恵一はさらに焦った。なにしろ一つしかないベッドを少女に譲り、ソファで眠った身体の恵一は節々を痛ませ、アラームも聞きそびれていつもの起床時間より寝坊していたのだ。

「天使さん、離して! そんな萌える姿で引き止めても、ぼくはいくよ……て、翼はどうしたの」

 見れば、少女の背に白い翼は影も形もない。

「しまったの。背中に、羽の形の痣が残るんだよ。みる?」

「いいの……ううん! ごめん、遅刻しちゃう!」

「そんなにいきたいの?」

 本当は行きたくない。……ふと思い出す。自殺しようとまで思いつめた原因は学校だ。学校に行くのが怖い。本当はもう行きたくない。けれど行かなくてはいけない。

「……いかなきゃ、いけない」

「学校にいくことが別に偉いわけじゃないよ。学校に行かなくても偉い人や、賢い人は沢山いるよ」

「でもこの日本じゃ学校にいかなきゃまず評価すらしてもらえないんだ。立派な人はいるだろうけど、ぼくみたいな高校生は……」

「どうして?」

「もうすぐテストがあるんだ。ぼくは、いい成績を取らないと学校にいれない。学校に居続ける為には、テストを頑張らないと」

「……学校にいたいの?」

「ううん」

「恵一くんの話、よくわかんないな」

 少女の頭にハテナが浮かぶ。恵一はイライラしていたが、少女の青い瞳を見るうちに怒りはしおしおとしぼんでしまい、立っている気も起きなくて玄関に座り込んだ。目の前の少女が、恵一に目線を合わせるようにしゃがみ込む。

「……天使さんにはわからないよ。ぼくの学校はね、本当はものすごくお金がかかる学校なんだ。でもぼくは家族がいなくて親戚の補助で暮らしてる。だからお金が払えない。でもその学校は、生徒がいい大学に進学できればいい宣伝になって、知名度があがって入学希望者が増えるからって、言い方が悪いけど頭のいい生徒はタダに近い学費で通学させてくれてるんだ。特待生っていうんだけど」

「恵一くんはそれなの?」

「うん。……だから学校にいきたくないけど、いかなきゃ。それでいい大学に入ることが約束だから」

「いい大学に入ることって大切?」

「大切じゃないかもしれないけど……でも、ぼくは」

 少女の容赦ない追撃に、恵一は言葉を彷徨わせた。自分がどこへ行きたいのかわからない。逃げ出したい学校という存在。自殺まで考えて、逃げる手段を探した世界。それなのに学校にいなくてはならないと感じ、足を向けようとする自分。

「今日はお休み」

「だからだめだって」

「一日くらい休みなよ。……部屋に落ちてたアレ、読んじゃったんだ」

「読……? 同人誌?」

「恵一くんの日記の切れ端」

「えええ!」

「……ごめんね」

 長い睫毛に縁取られた青い瞳が、申し訳なさそうに伏せられた。銀髪がさらさらと少女の肩の上を零れ落ちる。恵一は、ついその光景から瞳をそらした。破った日記のページには、遺書が書いてあるからだ。遺書には、擦り切れそうだった昨日までの自分の思いが書きなぐってあった。

「……ぼく、自殺しようとしてたんだ。天使さんに会ったとき、飛び降りようと思ってた」

「わかってる」

「本当は学校になんか行きたくないよ。カッコ悪いけど……いじめられてるから」

「どうして?」

「ぼくが特待生だから。ビンボー人が学校にくるなって。……それにオタクだから気持ち悪いって……ぼくはゴミなんだよ。いらないんだ。リーダーの坂下は、学校に寄付をいっぱいしてる親がいる。だから担任も何もしてくれない。……仕方ないけど」

「恵一くん!」

 突然の強い口調に、恵一はびくりと肩を跳ねさせた。視線を上げると、いつの間にか少女が目の前で仁王立ちをしている。腰に手を当て、小さい身長に威厳をつけながら、鼻息荒く立ちふさがっていた。頭の上の輪に鈍い光が走る。

「な、なに」

「恵一くん、猫背」

「え……」

「どうしてそんなに考え方が悪いほうに悪いほうに行っちゃうの? だめだよ、もっと背を伸ばして前を向く! 自分がいらないとか、ゴミとか、そんなこと言っちゃだめ」

「……天使さんにはわからないよ。ぼくはそんなキレイ事もう信じられない……」

「色んな人が恵一くんを悪く言っても、恵一くん自身がそれを認めちゃだめなの! 他のどんな人が言ったって、自分は自分の味方をしてあげなきゃ。自分で自分を嫌って、自分で自分を否定しちゃ、誰が恵一くんを信じてあげられるの?」

 恵一は少女を見上げたまま、唐突に世界がゆるりと揺らぐのを感じた。

(どうして涙が……? 感動したわけじゃないよね……それとも天使さんにまで怒られてるから?)

「わたしは恵一くんのこと全然わからない。まだ出会ったばっかりだもん。だから何を言っても無責任な言葉に聞こえるかもしれない。……けど信じて。今は辛くてもいつかきっと報われる日が来るって思ってて。それで、今日は休もう。わたしと一緒にゆっくりお休みしよう。もし、一回休んだらずるずる休んじゃうって思ってても安心して。休みすぎる前に、わたしが背中を蹴っ飛ばすから」

「け、蹴っ飛ばすって」

「だから、今日は、ね?」

 恵一の世界は揺らいだままだ。自分の涙が悔し涙なのか安堵の涙なのか、それとも全く違うものなのか、検討もつかなかった。それでも少女の言葉から、一つ確かなものを見つけることができた。

「……心配してくれてるの、天使さん」

「え」

「ぼくを、心配してくれてるんでしょう?」

 少女の目がまん丸に見開かれた。それから青い瞳が揺らぎ、ふっくらとした柔らかそうな頬を桜色に染める。意外にもわかりやすい少女の態度に、それを見ていた恵一まで気恥ずかしくなって落ち着きをなくす。

「そうかな、よくわかんないや」

 あははは、と少女は笑うと、どこに持っていたのか恵一の手に電話の子機を素早く押し付けた。恵一が少女を見つめると、少女はしっかりと頷く。こうして恵一は初めて学校をズル休みしたのである。


 そうして学校を休んだ恵一の手に、問答無用で当てられたのは例の手紙であった。唐突すぎる忌まわしい手紙の登場に恵一が悲鳴を上げる間も無く、手紙のタイマーは起動した。まだ制服も脱いでないのに、とどこか冷静に状況を見ている自分を心の中で確認しつつ、『少女という存在』は尊く守るべきもの、と考えている恵一には、目の前にいる少女に文句をいうという選択肢は初めからないので、忙しない手つきで封を切り、中の手紙を引っ張り出した。

「なんて書いてあった?」

「自分の一番大切だと思うものを、十メートル以上の高さから落とす。正し、生き物でないこと」

「なら、この家のベランダからでいいね。で、恵一くんの大切なものってなに?」

「……い、いやだよ」

「恵一くん?」

「ぼくの秘蔵のフィギュアは全部だめ! 全部レアものなんだ。るるたんもピーチも、天空王女チェリカだって……プラモもだめ!」

「全部だめ? 全部大切?」

「うん」

「じゃ全部投げようか」

「でえええええ!?」

 真顔でとんでもないことをいう少女に、恵一は改めて畏怖を感じた。靴を脱ぎ捨て、電光石火の勢いで自室のドアの前に両手を広げて立ちふさがる。

「ぜ、絶対だめ!」

「死んじゃうんだよ?」

「それもだめー!」

「もー、どいてったらどいてぇ!」

 少女のサファイヤのような瞳が、うるりと揺らめく。それでも恵一があーとかうーとか口篭っていると、最終手段といわんばかりに少女が盛大な深呼吸をした。そしてうっすらと頬を染めながら、そっとシャツの袖に手をかける。

「……恵一くん」

「……っ」

「捨ててくれたら……」

「だ、だめ! わかった、捨てるから、そんなことしちゃだめ!」

 それ以上見ていられない。見ていたい気持ちもあったが、恵一は少女から逃げるように部屋に飛び込み、大事なコレクションを一抱えにした。一つ一つ手に取っていたら、決心が鈍りそうだった。

 ドアを蹴り開け、リビングにでるとすでに少女がベランダに続くガラス戸を開けていた。恵一はその準備のよさに内心涙しながら、夢と希望を一気に解き放つ。──恵一のコレクションは、あっという間に小さくなって、マンションのしたにある駐輪場の屋根のうえにバラバラと落ちた、ようだ。もっとも小さくなりすぎて、首を突き出しても恵一の眼鏡越しの視力ではもう見つけることはできなかった。

「あぁ……」

 ため息をつく恵一の背中に、パチパチと拍手が向けられた。

「恵一くんは真面目だねー。でもほら、ちゃんとクリアできたよ。おめでとう」

「ぼくの、コレクション……るるたん……」

「だめだこりゃ。元気出して」

 ぽん、と少女の小さい手が肩に乗せられた。恵一はいい加減ベランダから首をひっこめ、少女の方は向かずに口を開く。

「天使さん」

「なあに?」

「もうあんな萌え攻撃しないでね」

「もえ?」

「朝もそうだったけど! きゅんときたけど! ぼく、不純異性交遊は反対なんだぁっ。いや二次元ではありかもしれないけど、第一、ぼくと天使さんはその、まだ未成年の身であって、ぼくたちは保護者の同意のもと同じ屋根の下にいるわけでもなく、天使さんがいること自体は素晴らしいけど、ぼくはね」

「……恵一くんが真面目なのは、よおくわかったけどさ。時間なくなっちゃう」

「そういうのはもっと互いを知って……え、時間?」

 ぽんぽん、肩に乗せられた手が弾んだ。そのとき、カサリという嫌な音も一緒に恵一の耳に届く。──恐る恐る視線を向けて、それは的中した。手紙である。調度タイマーが浮かびあがっていく瞬間だった。

「はい、がんばれ」

「……。」

「また背筋丸くなってるよ、猫背なおして!」


 それから恵一は走り回った。次の内容は家の外に出て老人の人助けをすること。その次はゴミを二十個拾うこと(ただし空き缶限定)。その次は家から一番ちかい小学校の花壇にすべて水をやること、そして、本日五つ目がたまねぎを三十分間みじん切りにすること。どれも生死に関わるとは思えない内容だが、恵一は着実にこなしていった。

「……あ、消えた。はい、終わりー。お疲れ様」

「ああ……手がたまねぎ臭い」

 こうしてたまねぎのみじん切りというもっとも理解不能な手紙の内容を実行し終えたのである。始めたときは朝だったのに、もう外は夕方だ。これでも何度か休憩をいれ、その休憩中にフィギュアの残骸を拾い集めたりなんだりして身体を酷使したので恵一はすっかりくたびれていた。自宅のリビングのソファに身を沈め、脱ぐのを忘れて汚れてしまった制服の襟元を引っ張って風をおくる。

「あー、一時間ってあまるときもあるけど、ギリギリのときもあるね」

「花壇はちょっと危なかったね」

「うん」

「恵一くん、疲れたならもう休んでて。晩御飯はわたしがつくってあげるよ」

「え?」

「簡単なのでいいよねー」

 少女が冷蔵庫を漁りだしたので、恵一は立ち上がり制服のブレザーを脱ぐと、少女を追ってキッチンへ向かった。恵一の家のキッチンはあまり使われることがないので汚れていない。冷蔵庫の中も当然まばらなのだが、少女はその中から見事に使える野菜を見つけて引っ張り出している。

「ぼくも手伝うよ」

「え? いいよ、疲れてるでしょ」

「うん、でも人の家の台所って使いにくいっていうし、それに」

「このきゅうり腐ってる」

「……そういうの、見られるの恥ずかしいんだけど」

「もう見てるから手遅れ。はい、これもダメ。……恵一くん、自炊してるの?」

「ううん、あんまり……」

「ダメだよインスタントばっかりじゃ」

「……うん」

 まな板の上に野菜を並べていた少女が、動きをとめて恵一を見た。青い瞳をゆっくり瞬きしているところを見て、恵一はふと、犬や猫が人間の様子を窺うときにそっくりだと感じる。……失礼な話だが。

「な、なに、天使さん」

「今の返事がちょっと悲しそうだったからさ」

「……。」

「わたしの勘違いならいいけど」

「うん、勘違いじゃないよ」

 恵一の言葉に、少女が瞬きをした。

「前にも言ったけど、ぼくは家族がいないんだ。だから料理を作っても意味がないんだよ。一人分作って一人で食べるっていうのは……ちょっと寂しすぎるから」

「……ごめんね、恵一くん。でも安心して! 手伝ってくれるんでしょ? 一緒に作って一緒に食べよう! ね、決まり決まり」

 にっこりと笑った少女の笑みに、恵一の心がじんと温まった。出会ってまだ日は短いのに、この少女のくれる言葉はどこまでも温かい。

(たまに酷いけど……本当に、心も天使なんだな、この子)

「カレーでいいかな? 調度消費期限ギリギリのルーも発掘されたことだし。豚肉あるし、芽の生えたジャガイモもニンジンも、芽をとれば使えるし」

「ごめんね、こんな生命力の強い野菜で」

「ううん。あ、それからたまねぎはみじん切りしたのでいいよね。なすも入れよ、ピーマンも」

「そんなに入れるの?」

「夏野菜のカレーみたいでいいと思うよ。野菜はいっぱいとって損はないし。昔、わたしもお兄ちゃんの得意料理の……」

「お兄ちゃん?」

 天使でもカレーを食べることがあるのだろうか。天使にも兄妹はいるのだろうか? 恵一は首を傾げるが、もう少女の関心は別のことに移ってしまっていた。

「卵はいつの? ゆで卵にしよ! 恵一くんお鍋とって」

「は、はい!」

 少女の凄まじい行動力と恵一の微力ながらの協力により、この日、久しぶりに芝原家のキッチンに火が灯った。少々不恰好な料理だったが、二人は満足だった。一つのテーブルを囲み、一緒に作った料理を食べ、他愛もない話に花を咲かせた。



  十二月五日の芝原恵一の日記から抜粋

 ──天使さんはひょっとして、ぼくの心まで見抜いているときがあるのかもしれません。

 そして、天使さんと一緒に作ったカレーが本当においしかったです。鍋も焦がして材料もこぼして分量も適当な料理だってけど、すごく楽しかったです。料理がこんなに楽しいと思ったのは初めてだと思います。いつのまにか天使さんを目の前にしても、全然緊張しなくなったことにも驚きました。

 明日は学校にいきます。何も変わっていません。でも、今日一日天使さんと過ごして、なんだか少しだけ猫背が治った気がします。天使さんがきただけで学校に行こうって思えてたから、これもきっと、天使さんのお陰なんだと思います。ああ、そういえば今日はアニメもネットも見ていません。でも、そんなのがなくても楽しかった一日でした。命がかかってますけどね。


 *


   十二月六日(くもり)

 ──バタン。扉を背に、恵一はずるずるとしゃがみ込んだ。パタパタと軽い足音がして、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。──これは例えではない。駆け寄ってきた少女は、クッキーを齧っていたのだから。

「おかえり!」

「う、うん……ただいま」

「? どうしたの、恵一くん」

 少女がしゃがみこみ、以前と同じように視線を揃えてくれた。恵一はのろのろと視線をあげ、少女を見つめる。

「天使さん」

「?」

「……。」

「恵一くん?」

 つた、恵一の頬を熱いものが伝った。眼鏡に水滴がつく。一滴流れ落ちたら、もう止まらなかった。恵一はしゃくりあげ、膝を立てて顔を埋める。慌てたような少女の声が降って来た。

「おなか痛いの? 大丈夫? 泣いてちゃわからないよ」

「ううう、天使さん……」


 今朝一日ぶりに学校へ通った恵一を待っていたのは、とんでもない知らせだった。今日の朝は少女が快く送りだしてくれて、簡単な朝食も作ってくれた。ともすればまるで新婚生活のような展開に恵一は幸せの絶頂だった。家に帰れば癒しの天使がいるのだからと、学校に向かう足取りは一度も止まることなかった。──しかし教室に入ってすぐに耳に入ってきた言葉によって、恵一の足は止まった。

 ──昨日、坂下が死んだ。

 一瞬、教室でなにが噂されているのか恵一は分からなかった。それでも、その名前が、自分を散々いじめてきたグループのリーダー格の人物の名前だということは認識する。

(坂下が、どうしたって……?)

 呆然とする恵一の目に、その坂下の席が映った。机の上には、見事な細工が彫られた花瓶が置いてある。

 ──変な死に方したらしいよ、あいつ。

 ──殺人じゃない? 頭おかしいやつの。自殺であんなのって変よ。

 ──ニュースで見たよ! 連続殺人だって。坂下もその被害者だってよ。

   ──坂下以外に殺されたやつもいるんだぜ!

 ──今発見されただけで六人もだろ? 包丁で胸を裂いたって……。

(みんな、何いってるの……?)

 恵一がのろのろと自分の席に着き、鞄を置いても丸めた紙くずは飛んでこなかった。後ろを向くと、坂下のグループがひそひそと怯えたように話し合っていて、恵一のことなど眼中にないようだ。

「おい、恵一、恵一!」

 唐突に肩を揺さ振られて、恵一は身を竦ませる。──目の前にいたのは、恵一の幼なじみで親友の光太郎だ。金髪に脱色した髪にピアスと、見た目は真面目とは程遠いが、性格は優しく運動神経も顔も抜群に良い。しっかりと筋肉がつきながら、均整のとれた長身も魅力であり、恵一とは程遠いジャンルの人間だ。

「こ、光太郎? なんで? 隣のクラスでしょ?」

「はあ? 何言ってんだよ。坂下が死んだって言うから、オレのクラスでもすげー騒ぎになっててさ!」

「坂下、死んだんだ……」

「そうだよ。あいつ、嫌味なやつだったけどちゃんと花生けてあるぜ」

「……。」

 黙りこくった恵一を、心配そうに光太郎が見下ろしてくる。

「恵一?」

 

 それから、どの授業を聞いても耳に入らなかった。今日は部活が休みだからといって、昼飯一緒にどうだとせっかく光太郎が誘ってくれたが、恵一は食べる気が起きず、胃の中はカラッポのまま昼休みを終え、そのまま午後の授業を終えた。今日一日の授業は何一つ頭に残っていない。恵一はただ席に座っていただけだ。学校が終わって、光太郎に一緒に帰ろうといわれる前に、鞄を引っつかんで家まで走ってきた。エレベーターをおり、自宅のドアが閉まる重い音で、漸く恵一は息をつけたのだ。

「……そう、クラスの子が死んだの」

 全てを聞き終えると、少女は手を伸ばして恵一の頭を撫でてくれた。心配そうな声だ。少女がどんな顔をしているか恵一にはわからない。涙が視界を奪っているからだ。

「……ぼく、ぼく、坂下なんて死んじまえって何度も思ってた。ずっとずっと思ってた。あいつさえ、いなければって……」

「うん」

「でも……坂下が死んだって、いきなりそんなこと聞かされて……ぼく、今までぼくをいじめてきたヤツが死んで嬉しいはずなのに、すごくショックで、信じられなくて」

「うん」

「ぼく、もう、何がなんだか……」

「……恵一くん」

 少女の撫でる手が下がって、恵一の涙を拭ってくれた。

「ずっと憎んでた人を失って涙を零すなんて、恵一くんはすごく優しいんだね」

「え」

「嫌いだったんでしょ、その子のこと」

「うん」

「それでも亡くしたことが悲しくて涙を流すのは、悪いことじゃあないよ。誰だってずっと知ってた人が急に亡くなったら、ショックを受けるよ。それで、その人が好きか嫌いかでまた分かれると思うけど……でも嫌いな人に対して泣いてあげれることは、とてもすごいことだよ。坂下くん、恵一くんが自分のために泣いてるって知ったら、きっと後悔するだろうね」

「……天使さん、あ」

 反射的に抱きつこうとして、それでも動きを止めた恵一を、逆に少女が抱きしめてくれた。甘いにおいがふっと鼻をくすぐる。

「……て、天使さん」

「落ち着くまでこうしててあげる」

「う、うん……ありがとう……」

 普通の恵一だったならば逆に落ち着きそうもないが、今はただ少女の体温が優しかった。恵一は柔らかな身体をそっと抱きしめながら、鼻を啜り、問う。

「坂下は、実行に失敗したのかな」

「……そうだろうね」

 恵一の問いに、間を置いてから答えた少女の顔は、抱きしめている恵一には見ることはできなかった。


 それから数十分後。落ち着きを取り戻した恵一は、リビングのソファに座って、ずっとしまいっぱなしだった家族のアルバムを広げて少女に見せていた。他でもない、恵一自身の希望で。少女の存在は、恵一を救っていた。坂下の死を一人で知ったら、恵一はきっと耐えられなかっただろう。恵一の中で、少女は家族のような存在になっていた。「ぼくの家族、見てくれる?」と問うと、少女は頷いてくれた。

   辛い思い出から逃げるように、このアルバムはずっとクロゼットの奥にしまわれていた。埃を払いながら、恵一は家族に申し訳ない気持ちになる。

「このアルバム、縁が焦げてるね」

「そう」

 恵一の指がアルバムをなぞる。脳裏に、あの日の光景が一瞬フラッシュバックした。

「……これ、一冊だけだったんだ。無事に見つかったの」

「え?」

「ぼくの家、火事になったんだ」

 パチパチと、炎のはぜる音が聞こえた気がした。


 それは今から十二年前、恵一がまだ四歳になったばかりの冬の日のこと。光太郎と自宅で遊んでいた恵一は、ふとしたイタズラ心から、父親が忘れていったライターを手に取った。もちろん、恵一に火をつけようという気持ちはなかった。ただ父親はライターに触らせてくれなかったので、恵一はライターに興味を持っていた。

『おい、危ないよ』

 光太郎が困ったように恵一に言い、取り上げようと手を伸ばした。だが恵一としても折角見つけたおもちゃを見す見す手渡してはつまらない。二人がライターの取り合いをしているとき、なんという偶然か、ライターが着火した。ロックが外れていたのだ。

 二人は驚いてライターを離した。当然火は消える。唐突のことだったが、一瞬の火花は恵一の好奇心を刺激した。床に落ちたライターを手に取り、どうやって火がついたのかとライターを弄繰り回す。

『だめだって』

『大丈夫だよ……あっ』

 再び火がついた。手を離せば火は消えるのだが、恵一はそれを知らず、じわじわと伝わってきた熱さに手を振り上げる。──運悪く、腕の先にカーテンがあった。

『わああ!』

 火はあっという間に燃え広がっていく。幼い二人はその光景に恐怖した。火がついたカーテンが揺れる様は、まるで魔物のようだった。二人が目を見開いて立ち尽くす前で、火はどんどん広がっていく。


「すごく熱くて、怖くて、でもまるでそれが映画のワンシーンみたいだってぼくは思ってた。現実逃避だったのかな、ぼくも光太郎も泣かなかった。泣き声をあげたら、カーテンのモンスターがぼくらに襲い掛かってきそうだったから……」


 もうもうと上がる煙の中、苦しくて何度も二人は咳き込んだ。すると恵一の両親の声が聞こえた。デザイナーとして近所にオフィスを構えている両親が、煙を見て駆けつけてくれたのだ。母親の泣きそうな声と一緒に、父親の怒鳴り声が聞こえる。ガラガラと何かが崩れる音。炎の息吹、黒い煙。──ズダダ、一際大きな、地鳴りのような音とともに足元が震えた。家の一部が崩れ落ちたのだろう。それでも恵一と光太郎は身動ぎ一つせず、炎のカーテンを見つめていた。いつの間にか両親の声が聞こえなくなり、カーテンがばさりと床に落ちて、炎が蛇のようにのたくった、その時だった。

『恵一! 光太郎──!』

 どんな音よりも鋭く、澄んだ声が恵一の鼓膜を震わせる。光太郎が叫んだ。

『影一さん!』


「もうだめだって思った。父さんと母さんの声も聞こえなくなって、もうぼくらは死ぬんだって、そう思ってた。……そうしたら、兄さんがきてくれた」

「兄さん?」

「うん、この人」

 恵一がアルバムを捲ると、幼い恵一を抱いた母と父と、その横でカメラを睨む一人の少年が写った写真が最初のページにあった。すっと通った目鼻立ち、柔らかそうな茶髪猫目の少年は、ともすれば冷酷そうな顔立ちをしている。細められた目は、ひょっとしたら眠いと訴えているのかもしれなかった。

「……!」

「影一っていうんだ。……天使さん?」

 ふと、少女が食い入るように写真を見つめていることに気付く。恵一が声をかけると、少女は慌てて恵一を見た。

「な、なに?」

「ううん、兄さんがどうかした?」

「ちょっと怖そうだなって」

「ああ、うん。よく言われてた。……でもぼくは覚えてるよ。兄さんが笑うとすごく優しい顔になるんだ。照れたように笑っても、すごくすごく優しい笑顔になるんだよ。ぼくはもちろんだけど、光太郎も、本当の兄弟みたいに懐いてた」


 燃え盛る世界を切り開いて駆けつけてくれた兄は、恵一と光太郎をしっかりと抱きしめた。すぐさま二人を抱えると元きた道を駆け出す。──このとき、恵一は崩れた瓦礫の合間から、白い腕が出ているのを見た。母のお気に入りの、柔らかいベージュのマニュキアをした腕だった。しかしまだ幼い恵一は、それが何か理解できなかった。

 熱気の外は、逆に凍るように寒かった。家の前では人だかりができていて、消防車が必死に消火活動をしていた。ゴウゴウという炎の歓声を恵一は聞く。二人を抱いたまま、兄が叫んだ。

『誰か、こいつらを病院に! 煙を吸って──』

 兄が叫び終わる前に、人だかりから悲鳴が聞こえた。恵一があげると、兄の背中越しに、燃え盛る大きな柱が落ちてくるのが見えた。──次の瞬間、恵一と光太郎は、兄の腕の中から放り出された。……最後に、恵一が見たものは、濡れたように黒い夜空だった。


「目を覚ましたら病院だった。火事で、父さんと母さんは死んだ……そして兄さんも。父さんと母さんの死体を見て、それでもぼくらを助けようとして、結局自分の命と引き換えに、助けてくれた。兄さんは、まだ、大学にはいったばかりだった。まだやりたいことも沢山あったのに、ぼくの所為で──……」

 恵一の指が、そっと写真の中の兄、影一をなぞる。影一はつまらなそうな顔をしている。けれども、ページを捲ると恵一を抱いて楽しそうに笑う影一がいた。

「……天使さん。父さんも母さんも、兄さんも。皆手紙の実行に失敗したのかな」

「十二年前のことはわたしもよくわからないな。……手紙自体が届いてないとか」

「手紙自体が届かないなんて、あるの?」

「……なくも、ない」

「どういうこと?」

「これ以上はいえない」

 少女はどこか悲しそうに微笑んで、恵一の手を使ってアルバムを捲った。──小学生の恵一だ。遠足、運動会と、親戚が取ってくれた写真がこのアルバムにしまってある。勿論恵一は罪の意識からアルバムを自ら開くことはなかったが。

「あれ」

「……ああ、これ」

 少女の様子に、恵一は詮索はやめた。もう十二年も過去のことだ。例え天国の過失だとしても、今更、両親と兄を返してくれなんて、三人を殺した自分には言えない。恵一は気分を切り替えて、少女の驚きの声に応えた。少女は、運動会のリレーで転んでいる恵一の写真を指差している。

「これ……あ、こっちにも」

「心霊写真だよ」

 転んだ恵一の周り、その他沢山の写真に、何故か黒い影が写りこんでいる。影はぶれた様に写っているため、それが何かはわからない。

「この頃のぼくと写真とると、絶対こういう影が入っちゃうんだ。で、みんなが気味悪がって、すごく怖がって……気持ちはわかるけどね。でも、ぼくはなんか怖くはなかったけど」

「へえ……」

「でも不思議なことにね、みんなが怖がってからも、また写真を撮ることがあったんだ。ぼくは当然影が写るって思ってたけど、影はもう写らなかった。それから、もうずーっと写らない」

 恵一自身、気味悪く思わない自分が気味悪いと感じることもある。けれど写真の影を怖いと感じたことは一度もない。少女が感心したようにへええ、と何度も唸り、すごいねえ、と言った。恵一は少女を見てぽつりと呟く。

「……天使さんがいるから、今は寂しくなんかないよ」

 それからアルバムをしまい、夕食をとってから手紙を発動させた。内容は涙を零すこと、誰かにマッサージをしてもらうこと、大声で好きな歌を歌うこと、困っている小さな子供を助けること、だった。

 

 十二月六日の芝原恵一の日記から抜粋

 今日は、天使さんにアルバムを見せました。ぼく自身このアルバムを見るのは本当に久しぶりで、父さんと母さん、それから兄さんに少し申し訳ないです。

   坂下が死んだことは、未だに整理できません。ぼくなんかが考えて良い問題ではないのかもしれません。それでもぼくは、自分の涙を否定しません。今日もネットもアニメも見ませんでした。


   *


    十二月七日(くもり)

 朝早くに恵一を起こし、手紙を三つ実行させてから学校に見送って、現在、少女は一人でリビングにいた。雨音だけが部屋を支配していた。恵一から借りた服ではなく、元々の自分の服を着てソファに座り、くたびれた鞄をぎゅっと抱きしめてから、鞄の中から十四枚目の手紙を取り出した。

(これで全部終わる……)

 少女が瞳を閉じる。その背に、純白の翼が咲いた。少女は自らの羽根を一本毟ると、慣れた手つきで手の甲を引っかいて羽根の先に血をつける。手紙を手の中で裏返し、宛名の文字列のすぐしたに羽根の先を当て──ここで流れるような少女の動きが、初めて止まった。青い瞳は、何度も何度も宛名を見返す。

『天使さんがいるから、今は寂しくなんかないよ』

 恵一の照れたような顔が、少女の脳裏に浮かんだ。


 *


「ただいま」

 一人の青年が、自宅のドアを開けて、帰り道のスーパーで買ってきた夕食のおかずを袋ごと玄関に置いた。

   ──彼の名は東城誠、二十六歳。警視庁刑事部捜査一課 、階級は警部。決してハンサムと言えないが、丸い瞳の優しい顔立ちと人懐っこい笑みが特徴の青年だ。以前なら軽かった一人分の食材も、最近はほんの少し増え、中々重い。一息をつく真の耳に、ペタペタという足音が聞こえてきた。

「遅かったな」

 リビングから、首にタオルを巻いた少年が顔をだした。風呂上りらしく、水に濡れてより深くなった少年の黒髪から、水滴がポタポタと落ちる。

「……カゲイチ、髪の毛を拭いたのかい?」

「うっせーな、見ての通りだよ」

「コラァ! ちゃんと拭きなさい! 待て!」

 誠の怒鳴り声に、少年が赤い瞳を細めて笑った。誠が荷物を放りだして少年に手を伸ばすと、少年はするりと身をかわしてケラケラと笑う。少年の細く頼りない背に、痛々しい傷跡が残っていても、誠は動じなかった。

 少年の名は、カゲイチという。四日ほど前、誠の家のベランダに落ちていたのが二人の出会いだった。寒空の下に片足を出したパンクファッション、尖った耳、するりと生えた尻尾……明らかな不審者だが、このときの誠はカゲイチを発見するとすぐさま部屋に引っ張りいれた。……カゲイチの背に生えた黒いカラスのような翼の片翼が、本当に酷い有様だったのだ。根元近くで切りつけられ、強引に毟り取られた翼。鮮血がリビングの床を歩いても、誠は、何故かカゲイチを見捨てたりはできなかった。カゲイチの白い肌が、今にも冷たくなりそうだったからかもしれない。

 衰弱していたカゲイチは二日間昏々と眠り続け、二日前に目を覚ました。翼は消え、その代わりにカゲイチの背中には奇妙なタトゥーがあった。タトゥーは左右対称だが、傷ついた翼と同じほうには、ナイフでズタズタに裂かれたような生々しい傷跡がついていた。カゲイチは背中のタトゥーが翼の証だ、痛みはないと簡単に説明してから、誠に言った。

   ──この何日かで、奇妙な事件が起きてないか? と。実際、誠は不可解な連続殺人を追っていた最中だった。


「で、今日は三人か」

 誠の捜査メモを眺めつつ、ソファに身を沈めたカゲイチが言った。赤い瞳が深まり、彼が何か考え込んでいるのを誠も感じる。……誠は、夕食作りで忙しいのだが。

「誠警部、作りながらでいい、被害者の状態を報告しろ」

「偉そうだなあもう」

 誠はカレーの材料を取り出しながら警視の話を思い出す。

「今日は夏野菜のカレーだよ」

「それはいい。けど今は聞いてない」

「わかってるよ。……新しい被害者は、この一連の事件とまったく同じ殺害方法で殺されている」

 ──最初の被害者は、十二月四日の深夜に殺害された。現在十三人になってしまった被害者の殺害現場は、密室、路上と様々だ。被害者たちにはなんの接点もなく、無差別殺人と考えられている。犯人の目撃情報は皆無。被害者たちは皆手に右手に刃物を持ち、心臓周辺、左胸を手に持った刃物で切り裂かれていた。刃物といっても、鋏は包丁など様々だ。しかし切り傷は決まって同じ形であるので、自殺の説は否定する。死因は大量出血によるショック死。一見自殺ともとれる、接点のない被害者たちの死体の共通点。

「決まりだな」

 カゲイチが不敵に微笑んで、メモをテーブルに置いた。

「何が決まりなんだい? カレーの福神漬けの種類かい」

「バーカ。お前の頭ん中はカレーばっかりだな」

「今作っているからな。仕方ないだろう」

 こんなやり取りも、誠は楽しくて仕方がない。一見冷酷で、とっつきにくそうに見えるカゲイチという少年は、決して無視はしない。どんなにくだらないことでも、何かすれば必ずリアクションを起こしてくれるので、誠は退屈知らずだ。

   誠が大切な捜査メモをカゲイチに見せた理由は、カゲイチ自身にある。目覚めた後、彼はどういうつもりか自らを天使だと告げ、カゲイチは誠の話を聞くやいなや、自分もその事件に関係をしているといった。そしてさらに驚くことを言ったのだ。

 ──お前、もしかしたら妹がいないか?

 その通りだった。誠は双子だった。十二年前の十二月七日まで。誠の双子の妹は、生まれつき身体と心臓が弱く、入退院を繰り返していた。心臓の手術をすれば妹は助かると病院は言っていて、両親も手術代を必死に掻き集めた。そしてとうとう妹の手術の日が来たのだが……妹は助からなかった。

   病院は本人の体力の問題だといったが、実際、数年後に発覚した真実は、医療ミスだった。雑な管理と手術、そしてミス。誠は妹を守れなかった自分を呪った。そしてミスを隠そうとした病院を恨んだ。……以来誠は、真実を探し出す警察官になることを夢見て、勉強に打ち込んできたのだった。

『確かに僕には妹がいる。でもどうしてそれを知ってるんだ?』

『あの世であった。お前は面影がある』

『あの世……?』

『それ以上は言えねー。けど誠、お前、警察なんだろう? その事件についてなにか分かったことがあったら、俺に教えてくれ』

『僕の質問には答えないのに、何かを要求するのか?』

『……悪い。規則なんだ』

 申し訳なさそうに瞳を伏せる少年に、誠は困惑した。けれど少年をそれ以上責める気にはなれなかった。


 ──ピピピ。突如部屋に響いた、聞きなれない電子音。誠は調理の手を止める。

「カゲイチか? 今の音」

「……なるほどな。居場所が分かった。」

「……カゲイチ?」

 誠の問いに答えていない。その時、誠はカゲイチが立ち上がって自分を見ていることに気付いた。いつの間にか着替えたのか、初めて会ったときの服装だ。どうしたのかと呼びかけると、彼はポケットから黒い帯のようなものを取り出して、自らの目にを目隠しするように巻きつける。

カゲイチ?」

「今、俺の鞄の行方がわかったんだ。事件の確信もとれたとこで、タイミングはバッチリ」

 見せ付けるように突き出されたカゲイチの手の中にある小さな液晶に、誠には理解できない文字列が並んでいた。

「鞄……? 事件の確信って、何かわかったのかい」

「よりにもよってアイツのところだから、規則上、顔隠さなきゃな」

「カゲイチ、どういうことだい?」

「こういうことだよ。誠、途中までついてくるか」

 返事をいう時間は与えられなかった。カゲイチの黒い片翼がさっと広がった瞬間、誠の身体は宙に浮いた──


 *


 恵一の帰宅は夕方だった。恵一は坂下の通夜には行かず、放課後、誰もいない教室で坂下の花瓶に手を合わせてきたのでいつもより少し帰宅が遅れてしまったが、少女はソファに座ってまっていてくれた。意外だったのが、少女が元々の服装をしていたからだ。背中からは白い翼が生えていて、夕日に照らされるその姿は神秘的だった。

「……今日が最後だからね、もう帰る支度しないと」

 先回りした少女の言葉に、恵一ははっとする。

(そうだった……今日が天使さんといれる最後の日だ! なにやってんだろぼく、もっと早く帰ってくればよかったのに)

「……あのね恵一くん。わたし、恵一くんにずっと言ってないことがあったの」

「え?」

「……わたし、十二年前の今日に死んだ人間なの。生まれつき心臓が悪くて、手術を受けて、でも助からなかった。十二年間修行してやっとこっちにこれて、それで恵一くんに出会って……。」

「そうだったんだ。前に人間で言ったら十四歳って言ってたのは」

「十四のときに死んだから。ああ、でも日本人だよ。この髪も目も、あの世に行って変わっちゃっただけ」

 銀髪が夕日に反射する。少女の瞳が憂いに揺れた。

「驚いた?」

「ううん、あんまり。それでもぼくにとって、君は天使さんだから。変わらないよ」

「……。」

「でも、どうしてぼくにそんなこと話してくれたの?」

「恵一くんが家族のことはなしてくれたから、言っておこうと思って」

「家族のこと……?」

 夕日が沈んでいく。少女の羽が、朱色から群青に染まっていく。

「わたしも小さいころに両親を亡くしてるんだ。でも双子のお兄ちゃんがいた。わたしが最後に覚えてるのは、わたしにとってのラストシーンは、病院の白い天井とお兄ちゃんの手の感覚……わたしには手紙がこなかった。わたしは、手術の医療ミスで死んだの」

 そう呟いた少女の唇が戦慄く。青い瞳がゆらゆら揺れる。翼が下がり、今にも泣き出しそうな少女の様子に恵一は思わすその手を取っていた。窓の外はもうすっかり夜だ。灯りをつけない室内に、月明かりによって恵一と少女の姿が浮かび上がる。

「……天使さん、ぼく君のこと全然知らなかった。ごめんね」

「謝る理由はないよ」

「ううん、謝りたいから謝ってるんだ。……そうだ。君の名前を教えてくれない?」

 少女は驚いたような顔をして、そして笑みを浮かべてくれた。

「わたしの名前は──……」


「マリサ!」


 ガッシャ──ン!

 良く通る声と共に鼓膜を鳴らしたガラスの割れるけたたましい音に、恵一は動揺した。スローモーションのようにガラスの破片が舞うのを見た瞬間、少女が恵一の身体を抱きしめ、翼で包む。ガラスの雨がやんでから少女が翼をはためかせたとき、恵一の目に飛び込んできたのは割れたガラスが散乱する部屋と、月を背負った漆黒の翼をもつ少年だった。翼は片翼で、黒髪の合間から見える少年の目は何のつもりか黒い目隠しで覆われていて、薄い唇が笑っていた。尖った耳に並んでいるピアスと、長い尻尾が揺れる。

「カゲイチ」

「十三人も殺しやがって。何のつもりだ? 俺の片翼と一緒に奪った十四通の手紙に態々死因まで書き込んで」

「て、天使さん、どういうこと? あの人誰? 悪魔っぽいけど」

 状況が飲み込めない恵一の言葉に、少女の瞳が少年を睨んだまま細められる。すると少年が肩を竦めて言った。

「恵一、そいつから離れな。その女こそが悪魔だ」

「ぼくの名前……どうして?」

「おっと」

「あなたは誰ですか? 天使さんを悪魔だなんて……殺したとか、そんな人聞きの悪いこといわないでください」

 思わず恵一は少女の横から進み出て少年を睨みつけた。すると少年がふっとため息をつき、恵一に向かって人差し指を突き出す。

「一つ教えてやる。人間は救ってくれたり甘い汁を吸わせてくれる、白い翼をもつ者たちを『天使』と勘違いしているだけだ。……それが、魂の堕落の手引きとも知らずにな。本来天国にいる黒い翼の俺みたいなやつは、いまじゃ『悪魔』呼ばわりだ。ま、死の手紙をバラ撒いて人間を救ってなんかやらないからムリないけどな」

「え?」

「理解が悪いな。だから、白い翼のヤツラは、本当は悪魔なんだよ。黒い翼が天使なんだ。人間の認識は逆になってる。お前も今までそいつに騙されて他人の手紙を実行してただろ」

「……他人の手紙?」

「だから早く離れろ!」

 少年の言葉に、思わず恵一は隣にいる少女を見る。月明かりの下、少女の横顔は美しく、それが何故か恐ろしかった。

「嘘だよね……? あの人こそが悪魔だよね?」

「……ふふ」

「天使さん?」

「あーあ、ばれちゃった」

 少女の笑みは、砂糖菓子のように甘く──そして、冷たかった。恵一は自分の喉が渇いていくのを感じる。

「恵一くん、あの黒い翼の『天使』がいう事は本当だよ。わたしは悪魔。名前はマリサ。……キミはずっとわたしを天使さんって呼んでたけど、わたしが一度でも、自分が『天使』だって言ったことあった?」

「……!」

「つい、楽しくなってさ。色々ヒントもあげたけど、結局恵一くんは気付かなかった……でも嘘はそれだけ。手紙の説明はホントのことだよ? 宛先の本人が実行しないと死ぬっていうのも、ちゃんと教えたよね? 最後まで黙ってようかなって思ってたけど、ばれちゃ仕方ないしね。」

 少女──マリサは微笑みを浮かべたまま、少年──黒い翼の天使に向き直った。あんなに愛しいと思ったマリサの笑みは、どこか壊れた人形のよう、不気味な笑みだった。

「何のつもりだって聞いたよね。わたしたち悪魔にはね、一つ噂があるんだよ。自分の命日までに自分と同じ死因で、自分の死んだ歳の数の魂を集めれば生き返れるんだって。それが目的。死因は胸を裂かれること。魂の数は十四個。命日は十二月七日……つまり、今日」

「馬鹿な、そんなの嘘だ!」

「嘘かどうかはわからない。まだ誰も成功してないみたいだし……でもわたしは生き返りたいの。何をしてでも。またお兄ちゃんと一緒にいたいの! 双子として、一緒の時間を刻みたい! ……だから調べたんだよ。あのカゲイチが調度十四通の手紙をもって天国をでるってことを。それで黄泉の国からでてきたの」

 マリサが一歩進む。恵一は動けず、銀髪が目の前で泳ぐのを見た。

「でも最後の最後が、十四通目がまさか協力してくれた恵一くん宛てだったなんて……わたしも予想外だった」

   天使が、何故か息を呑んだ。マリサが恵一を見る。彼女の青い瞳に、自分の怯えた顔が映っているのを恵一は見た。

「させるか、恵一から離れろ!」

「……あっはははははは!」

 狂ったような笑い声をあげ、マリサが白い翼を広げた。割れた窓からスイと夜空に躍り出て、天使を手招きする。

「先に殺してあげる。おいでよぉ、そんな狭いとこじゃもう片方の翼も毟れない」

「恵一、ここにいろ! いいな!」

 挑発に乗るように、黒い翼の天使は羽根を残して飛び立っていってしまった。もつれながら、二人はこのマンションの屋上へいったようだ。

   恵一はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、はっとして残されていた鞄を掴んだ。一瞬迷った後、手を入れる。かさりとした乾いた感覚に、目を瞑って最後の手紙を掴み取った。 

(追いかけなきゃ。何がなんだかわかんないけど、でも、ぼくは)

 手紙にタイマーが浮かび上がる。恵一は右ポケットに手紙を捻じ込むと、玄関のドアを勢い良く開けた。しかし玄関のすぐ外に誰かがいて、調度ドアノブに手をかけたところらしかった。外にいる誰かが悲鳴を上げる。

「うわぁ!」

「あ、すいません……あの、どちらさまですか?」

「びっくりした……ああ、すまない。僕は東城誠。警察だ」

 玄関の外に立っていたのは、優しそうな顔立ちの一人の青年だった。身分証明といわんばかりに警察手帳を突き出され、恵一は青年をしげしげと見つめる。青年の服装は、スーツにエプロンというどう見ても料理途中の姿だったからだ。手帳が本物かどうかはわからなかったが、今の恵一に通りすがりの料理人の相手をゆっくりしている時間はない。

「警察が何のようですか」

「カゲイチに……いや、言ってもわからないだろう。マリサがここにいるって聞いたんだ」

「……マリサ」

 先ほど聞いたばかりの少女の本名だ。恵一が瞳を瞬かせると、眼鏡がずり下がってきた。片手でそれを直しながら頷いてみせると、誠は警察手帳の中を開いて見せた。──黒髪の少女が、真っ白な清潔な空間にいる。病院だろう。ベッドで上体を起こし、こちらに向かって微笑んでいる。髪の色と瞳の色が違うが、そこにいたのは間違いなくマリサだった。

「いました」

「本当かい!? マリサは僕の妹なんだ!」

『お兄ちゃんと一緒にいたいの』

 マリサの呟きが鼓膜を震わせる。恵一はポケットの中の手紙を握り締め、唇を噛んだ。

「あの子がこの数日の連続殺人を引き起こしていたなんて」

「連続殺人?」

「知らないのかい? 胸を裂かれて死ぬって言う……」

「ぼくは、最近テレビもネットも……あ」

(ああ、そうか。天使さんがいたから、テレビもネットもしなかった。あんなに依存してたのに、見る必要がないくらい一緒にいて楽しかった。……でも天使さんはぼくに余計な情報を与えないために、見る隙を与えなかったのかもしれない。それに、他人の手紙ってことは……胸を裂かれて死んだ坂下も、ぼくの所為だ)

 ──それでも。恵一は背筋を真っ直ぐに伸ばして、誠を見た。

「誠さん。マリサちゃんは、お兄さんのことが大好きだったんです。待っててください。ぼく、マリサちゃんに言うことがあるんです」

「まって、君……!」

「ぼくは恵一。『恵』まれてるのケイの、恵一です」

 誠が何か言っている。けれども恵一は後ろを振り返ることはせず、階段へ走った。


 *


「鞄に発信機でもつけてたの? それとも捜索依頼? どっちにしろいいタイミングできちゃったね。あ、バッドタイミングかな?」

 マリサの足が、地に伏せる天使の背中を踏んだ。汚れ一つなかったパンプスは、いまや黒い翼の天使の血で赤く汚れている。

「……っ」

「もう少し遅くくれば、痛い目見ずに澄んだのにね」

「ざけんな!」

「ふざけてなんかないよ」

 にっこりと微笑んでから、つま先で無防備な腹を蹴り上げる。ぐ、と天使が呻いて、細い身体がコンクリートの上を転がった調度その時、恵一は屋上へ続く扉を開け放ち、冷たい夜風を浴びた。

「やめて!」

   屋上に広げられた光景を目にした瞬間、恵一は無我夢中で飛び出していた。背中を折り、苦しそうに咳き込む天使を庇うように両手を広げた恵一に、マリサは冷たい瞳を向ける。

「どいて、恵一くん」

「……君は、君はこんなことしちゃだめだよ」

「わたしは悪魔だよ? 当然でしょ」

「……違うよ」

 氷のように冷たいマリサの声。恵一は頭を振った。マリサの本当の声は、もっと甘くて、もっと愛らしい声だ。

「君は天使だ。ずっとずっと、君は天使だった」

「はあ?」

「ぼくは君に救われた! 君がいたから生きようと思ったんだ」

「わたしはキミも殺すよ」

「だったら早くやればいい!」

「お前、何を言って──……」

 恵一の迷いのない叫びに、喘ぎながら天使が言った。けれど恵一は振り返らなかった。真っ直ぐにマリサを見つめて。

「ほらやれよ! 最後なんでしょ? これで十四個の魂が揃うんでしょ!? たった数日暮らしただけで情が移ったの?」

「……。」

「……君は、ぼくを殺せない。ううん、君は悪魔になりきってるだけで、本当は誰も殺せない。本当の、マリサっていう君自身は傷ついてるんだ。とても優しいから、今までずっと苦しみながらやってきたんでしょ。君がぼくにくれた沢山の言葉は、優しくて、厳しくてすごく温かかった。」

「……違う」

「君は言った。ぼくを助けにきたって。それは嘘でもなんでもない、真実だった!」

「違う、違う違う!」

 マリサが夜空に叫んだ。その声も、とても悲痛なものに恵一は感じた。マリサはぐずぐずとその場にしゃがみ込んで、カクリと頭を垂れてしまった。恵一は左ポケットからハンカチを取り出して天使に渡すと、マリサに近づく。恵一の背に制止の声がぶつかった。

「まて、恵一」

「ごめんなさい」

「恵一!」

 恵一は後ろを振り返ることもせず、マリサの元へ歩み寄った。すぐ隣に立つとしゃがみ込み、視線の高さをそろえる。

「天使さん」

「違うよ……わたしは、悪魔だよ」

「君は、もっともっと生きたかったんだよね」

「……うん」

「ぼくは君に救われた。この四日間、すごく楽しかった。二人で作って二人で食べたごはんがすごくおいしかった。君はぼくの背筋に注意してくれた。両親と兄さんを死なせてしまってから、ずっとこの世界に目を向けられなかったのに、君のおかげでしっかりと前を向くことができた──すごく幸せだったよ」

 恵一の穏やかな言葉の雨に、マリサがゆっくりと顔を上げる。恵一は右ポケットからすっかりくしゃくしゃになってしまった手紙を取り出し、マリサに差し出した。そして、笑みを向ける。

「だから、ぼくは君に幸せになってほしい。君のしたことはぼくから見れば許してはいけないことで、君の世界からすれば必然だ。でも君はその必然に苦しんでる。自分の罪を背負ってるんだ。……でもぼくは、君の望みを叶えてあげたい。君には、本当に幸せになってほしいから。本当に、今までありがとう……」

 羊皮紙の感覚は硬い。それでも恵一は手紙に指をかける。後ろで天使がやめろ、と叫ぶのが聞こえた。

「……ごめんなさい、黒い翼の天使さん」

 恵一は後ろを振り返ることができず、人差し指と親指に力を入れた。そのまま、一思いに破り捨てた──……


 *


 十二月二十四日(雪)

 今日はクリスマスイブです。世間を騒がせた一連の事件は、パッタリと犠牲者が出なくなったので世間の関心から忘れられていきました。世間には沢山の事件があって、久しぶりに見たテレビのニュースも全く違うことを報道していました。警察ではまだ実態を調べているらしいですが、原因も犯人も、明るみに出ることはないでしょう。


 あれから、二週間と三日がすぎた。恵一は都心から離れた、ある片田舎まで来ていた。降り出した雪の中買ってきた花は、季節柄、恋人に送るものだと勘違いされた。目当ての花がなくて、代わりに買ったのがバラだった所為もあるが。

(バラの花なんて……やっぱりやめといたほうがよかったかな)

「おうい、恵一君」

「あ、誠さん」

 ばたばたと足音がして、背広姿の誠が走ってきた。そんなに走ると転びますよ、と恵一が注意するよりも早く、誠は盛大に転んだ。手に持っていた桶がひっくりかえり、恵一を巻き添えに二人は仲良く水浸しになる。

「ご、ごめん」

「いいえ、いいんです」

「よかった、こっちまでは濡れてない」

 誠がポケットから線香とライターを取りだした。水を被った所為でとても寒いのだが、身震いする恵一とは正反対に、誠はしっかりとした手つきで線香に火をつける。誠と降り積もる雪のにおいに混じって、線香のにおいがあたりにふわりと広がる。

   

   ──結局、恵一が死ぬことはなかった。

   恵一が破り捨てた切れ端は夜空に舞い、唐突に火が起こって燃え尽きた。恵一は、これで自分が助かる術はなくなったのだ、マリサの願いが叶うと微笑んでいた。その時だ。

『だめ!』

 マリサが叫んだ。驚くことに、その声は涙が滲んでいた。マリサはそのまま翼を広げ、手紙の燃えカスを両手で包み込むと夜空の向こうに飛び去っていってしまった。恵一が制止するよりも早く。

『天使さん!?』

 空を仰いで叫ぶ恵一。……しかし不思議なことに、恵一には一向に死が訪れなかったのだ。

『あれ……ぼく、死なない?』

『なるほど』

   呆然とする恵一の横にいつの間にか立っていた黒い翼の天使が、ぽつりと呟いた。その手には、燃えカスの一部が握られている。

『どういうことですか? どうしてぼくは死なないんですか?』

『手紙をお前が実行したんだ。俺には、この燃えカスからでも内容がわかる。マリサはそうと知らずに……まあいいや』

 濡れたような漆黒の髪が揺れ、黒い翼の天使が笑った。そして自らも片翼を広げる。

『誠をよろしくな恵一。しっかり生きろよ』

『どうしてあなたは、ぼくの名前を──』

『それじゃ』

 ばさり、羽音が聞こえた瞬間に、もう黒い翼の天使の姿はなかった。


「恵一君がマリサを救ってくれたんだ。私はなにもできなかった……兄として礼をいうよ」

 汲みなおしてきた桶の水をそっと冷たい石にかけてやりながら、誠がいう。恵一はバラを花瓶に添えながら、ゆるゆると首を振った。

「ぼくは、なにも……」

「いや。マリサは君を守ろうとした。あの子に心があったのは、君のおかげだ」

 二人は雪が積もり始めた石を見つめ、そして手を合わせた。石に刻まれた名は、東城家。ここに、東城真里沙の人間としての身体が眠っているのだ。



 十二月二十四日、某墓地上空。

「殺しそびれて残念だったな」

 パンクファッションに身を包んだ、片翼の黒い翼をもつ少年が言う。眼下に広がる墓地をぐるりと見渡せるビルの上。隣に居たロリータファッションの白い翼の少女が、下を見るのをやめてまっすぐに少年を見た。

「……実行されてたなら早く言ってよ」

「もう聞いた。すごい噂になってた。今まで開封前に破られたことはないから、手紙の拒否と思える行動を無効にしてくれって……そんなこと言いに来る悪魔なんて史上初だったらしいな。上の連中が混乱してたぞ」

「まあね」

「それで天国に頭下げたことがバレて、悪魔の国からは追放処分か」

「うるさいなー、もう一つの翼もむしるよ」

「それは困る」

「恵一くんを見守れないからでしょう? カゲイチ」

「……。」

「わたしたち、同じ日にあの世に行ったから、暫く一緒にいたね。色々話してくれたよね」

「余計なことだけ覚えてやがる」

 少女の言葉に、少年はついと視線をそらした。尻尾が揺れる。

「……俺は、マリサみたいに生き返りたいとは思わない。でも、アイツをたった一人にさせたことは後悔してる」

「傍にいても、姿も見せない、顔も見せないじゃ意味ないよ」

「ほっとけ。それが規則なんだ」

「恵一くんのアルバムみたよ。あの影、カゲイチでしょ? ずっと見守ってたんだね。……ねえ、恵一くんの手紙の内容なんだったの?」

「聞きたいか?」

「うん」

「やっぱり内緒だ。……なあ、マリサ。お前さえよけりゃまたあの弟の傍にいてやって欲しいんだ」

「あ、ずるーい!」

「……で? 返事は?」

 そういった少年の顔には優しい笑みが浮かんでいた。マリサは答えず、ただ微笑んで白い翼を大きく広げた。


   

   

   

 了

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ラストシーンのずっと先へ 森亞ニキ @macaro_honey

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