第16話 名前

「セレナ!」


そういって駆けていくベジの背中を、僕はただただ呆然と眺めていた。

目の前で起きていることを理解できても、それに対応することはできずに……。

天使の女に体当たりするとハアハアと荒く息をするベジ。

そんなベジの姿に先ほどまで必死に来るなと叫んでいた女悪魔が顔をあげ少し微笑んで見せた。「ほんと、バカ」そういって。




ーーあいつ、目の前で人が倒れたのになんにもしなかったんだぜーー

ーー適応力がないんだよ。ほら、この間の実践の授業でも先生に言われてたじゃないーー


頭の中で響く声達に頭をふる。

違う。僕だって動ける。見てるだけじゃない。見てるだけじゃーー。


「あなた……誰?」


のそりと起き上がりベジを見やる天使からは天使の聖なるイメージとは真逆の邪に満ちたオーラが伝わってくる。


「私はベジ。セレナは私の大切なお友達なの。だから傷つけるなんて許さない」


どうして君はそんなにもハッキリと言葉を紡ぐことができるんだろう。


「ベジ……もういい、下がって……」


一瞬みせた笑顔も嘘のように厳しい声音でそういう悪魔。

ひどく厳しいその言葉の裏には底知れぬ優しさが隠れている。


知ってるさ。この悪魔はひどく腹の立つやつだけど、本当はそれだけじゃないんだってこと。


「セレナまた私以外の子と仲良くなったの?…………ねえ、いったよねぇ!私以外の子と仲良くしないでって。ふ、ふふふふふ。あーおかしい」


そういって腹を抱えて笑いだすそいつは不気味としかいいようがない。


先程こいつがセレナに襲いかかった時には一切殺気が伝わってこなかった。だから唐突な登場に驚いたわけだが、本来なら人を襲う時少なからず殺気が発せられる。しかし、こいつはそれがなかった。

それはきっと、こいつが常に殺気を発しているからだ。

常に殺気に満ち満ちていて、だからこそ狂気を帯びていて、イカれていると感じさせられる。


「…………あれ?……」

ふとそいつがベジの手に目をやり固まる。

「それ……」

その視線を丁寧にたどると、ベジの左手人差し指にはめられた金色の指輪(セレナと契約する際に捧げた、セレナの器とも言えるもの)がある。


なんだかひどく嫌な予感がして慌てて一歩を踏み出そうとするが、遅かった。


「オマエ、ワタシのセレナとケイヤクしたの?……」


そう先程にも増して狂気を帯びた声音で呟くと目にもとまらぬスピードでベジに迫るそいつ。

その力強さとスピードで突風が巻き起こり危うく岩場から足を踏みはずしそうになる。

その風を防ぐため掲げていた腕を下げてみると、もうそこに、ベジの姿はなかった。

あるのは、崩れ込んだままの悪魔と、ゆっくりと地面に吸い込まれるように落ちていく純白の羽のみだった。


「ベジ…………」


僕のせいだ。僕がもっとはやく動いていれば……。


「ボーッとしてんじゃないわよ、坊主」


「なっ、僕は坊主じゃ」

そういった時バサバサという羽ばたきがどこかから聞こえてくる。

またあいつか。そう思って身構えながらも早足で悪魔のところに駆けていく。

周囲に気を配りつつ、悪魔の横に膝をつく。


「おい、大丈夫か?」


「これが大丈夫なように見える?」


そういって悪魔が少し体をあげて見せると、隠れていた首筋から多量出血しているのが見てとれる。


「……っ」


しかし、この間、この悪魔は僕を殺しかけた直後にすぐに元どおりに回復してみせた。なのに、なぜ、今回はできないんだ?


ベジと契約したからか。いや、この間だって気のせいでなければベジと契約した後のことだったように思える。じゃあ、何故……。


「あいつは私の唯一の弱点なのよ」


悪魔は絞り出すようにそういった。まるで僕の心を見透かしているようなタイミングで。


「唯一、ね。……確かに聞いたことがあるな」


昔読んだ文献では、悪魔と天使、相反するその二つの種族は万能にも近い力を持ち合わせ寿命すら持たないとされていた。しかし唯一互いの種族、つまりは悪魔は天使、天使は悪魔が致命的な弱点なのだと、そう、かかれていた。

そうしている間にもいよいよ周囲の羽ばたきの音が近くなってくる。


「これはなんなんだ?」


「あいつのオモチャ。甘く見るとやられるわよ」


そういうとふらつきながらも立ち上がる悪魔。


「ベジが連れて行かれた。はやく助けに行かないと」


首筋をおさえつつそういう悪魔。


知ってるさ。こいつが本当は仲間思いなんだってこと。


知ってるさ。ただ、少し……いや、かなり性格が悪いだけなんだって。


僕は自分のローブの袖に手を突っ込むと中にある隠しポケットからハサミをとりだしローブを荒く切った。

本来ならビリッと破いたりしてカッコよくやるもんなんだろうけど、ぼくの力では裂けそうにないし。


切ったものを慌てて悪魔に手渡す。


「これ、巻いてくれ。少しは足しになるだろ」


「はあ?あんたの着てた服のボロ布をなんで私が」


その言葉に内心イラっとくるものの、それをおさえこみ、無理に悪魔の手をどかし、首筋に布を当てる。

濃い霧の中、すぐそこに奴らがいる。


「ちょっ、何すんのよ。早くしないと」


「そんなの分かってるっ!!」


そういって暴れる悪魔の抵抗に抗い布を首に巻きつける。


「出来たぞ」


そういってから一息つく。


「……セレナ」


初めて、名前を呼んだ。


セレナ。その名の悪魔を知らぬ者はそういない。今世紀最大の悪魔。

そいつの名を僕は初めて、仲間として呼んだ。

散々悪い噂ばかり聞いてきた。虐殺、呪い、強奪……。最初はまさかそのセレナだとは思わなかった。けど、間違いなんてするはずがなかった。なにせこいつの親族は皆、僕の祖先が殺してしまったんだから。

『あんたが気にすることじゃない』なんてこいつはいったけど、気にすることに決まってるんだ。こんなのひどすぎる。

ガランとした人気のない郷にこいつは何を思うんだろうとか、昔共に旅したという仲間のことも(以前眠りが浅い時にベジと二人で話しているのを聞いた)胸の奥底でどう思ってるのかとか気づいたら考えてしまう。

そう、僕は無意識のうちにこいつを仲間として意識していたんだ。

意地っ張りに優しさを隠したこの悪魔を。


セレナは少し驚いたように間を空けてから

「……あ〜あ、こんなボロ布まかれて最悪よ。」

そういって赤い唇をニイッと歪めて見せた。

「こいつらちゃっちゃと片付けてはやくベジのところに行くわよ、タグの坊や」


セレナの背中がトスッと僕の背に寄りかかったその時、目の前の霧の中から、ゾンビのような姿をしながら純白の羽をもったもの……堕天使と思わしきものが飛び出してくる。


「我と契約せし者よ、願わくば、地を隆起させかの者を捕らえよ!」


そう決まり文句を唱える。

しかし一向に何も起こらず、目前に堕天使が迫ってくる。


「ったく」


「グワアアアッ」


セレナの呆れた口調の言葉と共に黒いボール状の何かが目の前の堕天使めがけてとんでいきそいつは断末魔をあげながら塵と化していく。

その様に思わず息を呑む。



ーー名門の家の生まれなのに思ったように精霊を呼び出すこともできないなんてねーー


ーー本当に王族の血が流れてるの?ーー


ーーでも、遠縁らしいし、仕方ないんじゃない?それに一族に一人ぐらい落ちこぼれはいるじゃないーー



また勝手に頭の中で再生されていく思い出したくもない声たち。


くそっ。僕はまた……。


奥歯を噛みしめる僕の目の前で、セレナは僕を庇うようにしながらあちこちから飛び出してくる堕天使相手に奮闘する。

ここで下手に動いたら足手まといになる。そう思って立ち尽くす。

その時がどれだけ長く感じられただろう。


「……ふぅ。これくらいかしら」

そういって手をパンパンと叩く頃にはセレナもいつも通りの様子に戻っていた。


「怪我は大丈夫なのか?」


自責の念を募らせながらもそう尋ねてみると、セレナはどこか哀しそうな漆黒の瞳をこちらに向けた。


「それがねえ……」

珍しく言いづらそうにするセレナに

「なんだよ」

そういうとセレナはおもむろに口を開いた。


「あんたの精霊、私の方に来ちゃったみたい」


「…………は?」


「だから、あんたが魔法使うために契約してた精霊さんたち。あんたに本腰いれてたわけじゃないみたいでね、ヒョイッとこっちに移って来ちゃったのよ」


「……はあっ?!」


「そのおかげで怪我もすっかり治っちゃったわ」


嘘だろ……。


「精霊ってのは例の戦争で闇側だったからね。まあ、仕方ないっちゃ仕方ないわ。ごめんなさいね、坊や」


そんなセレナの言葉、耳にはいってくるわけもなかった。

一生懸命契約した精霊三体がみんないなくなった?……


「は……ははは……」


まるでセレナかあの天使のような笑い声をあげると僕は誰にでもなく叫んだ。


叫ばずにはいられなかった。


「嘘だろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

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