第15羽 幽谷の浴場 5

 黄金の髪に白い肌、厳しい眼差しに固く結ばれた口元。大人の男性だというのはわかるが、年齢まではわからない。40代にも60代にも見える。灰色のローブをまとい、彼方で燃える火を見つめている。小高い丘の上、火が燃えているのは森の中。いったい何が燃やされているのだろう。嫌な臭いがする。何の臭いだ。そのとき、男の視線が僕を見た。その口から洩れる言葉。どこの言葉だろう。まるで聞き取れない。しかし、頭の中に声が響いた。


【君は私が見えるのかね】

 僕はうなずいた。男は嬉しそうに微笑んだ。


【そうか。どうやら君もこの世界の住人ではないようだね】

 何のことだろう。意味がわからない。わからないと言えば、火。あれは何が燃えているのだろう。そう思ったとたん、男の顔は悲しみに曇った。


【あれは忌まわしいものだ。忌まわしいものが燃やされている】

 そしてまた、火を見つめた。


【この世界はもうだめだ。『神』に毒されてしまっている。どこかに『神』を知らぬ大地はないものだろうか】

 神を知らぬ大地。


【そう、唯一絶対神への信仰に毒されていない土地。そんな地がどこかに残されているだろうか】

 それってまるで。そう思ったとき、男の目は驚きに満ち、その節くれだった両手は僕の肩をつかんだ。


【君は知っているのか、それを。教えてくれないか、私に。神を知らぬ大地を】

 教えてくれ、教えてくれ、男は何度も繰り返す。教えてくれ、教えてくれ菊弥きくや。菊弥。



「……菊弥さん、菊弥さん」

 それはパスタの声。僕は目を開けた。明るい。すでに照明が点いている。

「あれ、いま何時」

「4時半です。起きる時間ですよ」


 そうだ、今日は朝から出かけなければならないのだ。僕は身を起こした。斜め上に。真上には起こせない。ベッドの上には棚がかぶさっているからだ。その棚の上にはリリイと伝蔵とミヨシのケージがある。そう、僕の寝室は鳥部屋なのである。


「おいおい大丈夫か。きっちり目さめてるか」

 そう言うトド吉に苦笑を返す。


「あんまり大丈夫じゃないけどね。ま、なんとかなるでしょ」


 とりあえず顔を洗って食事だ。それでなんとか目をさまさなければ。そう言えば夢を見ていたような気がする。だがどんな夢だったのかは思い出せない。まあ問題ないだろう。夢を覚えていなくて困った事など、これまでなかったのだから。




 午前6時。外は暗い。玄関ホールの内側から外を眺めていると、入り口から無人タクシーが入ってくるのが見えた。顔を洗ってトーストとブラックコーヒーで食事をして、鳥部屋の連中の餌と水を替えて、客室には誰もいないけど簡単に掃除機をかけて、レジのお金を確認して、ちょっと一息ついてからパスタをプラスチック製のキャリーケージに移して、顔や手に日焼け止めを塗り込んで、それで大体1時間半。タクシーは昨夜のうちに手配しておいたから、あとは待つだけであった。


 朝の空気は冷たい。バイオカラスの声が遠くに響いている。タクシーが玄関前に横付けにされる。僕はキャリーケージを左手に、外に向かった。玄関のガラス扉を外側から施錠し、タクシーに近づくと、後部座席のドアが自動で開く。先にパスタのキャリーケージを乗せ、そして自分も乗り込んだ。


 ドアが閉まろうとした、そのとき。静かな早朝の街に、けたたましく足音が響いた。下駄の乾いた足音。まさか。タクシーの外に目をやると、丁度いま入り口から黒い着物姿の男が、黒い番傘を手に走ってきたところであった。黒装束の下駄の男は、タクシーの前で急ブレーキをかけると、助手席のドアを引き開け、乗り込んできた。


「よう、奇遇じゃねえか」

 息も乱さずいわおは笑った。どんな奇遇だ。


「まあおめえのことだから、知らん顔はしねえだろうと思ってたがな」

 それは誤解だ。僕は知らん顔をしたかったのだ。今タクシーに乗っているのは本意ではない、と言いたかったが、どう説明したら良いのやら。僕が何も言えずに困っていると、タクシーのコンソールから合成音声が流れた。


「ご予約の人数をオーバーしています。人数を変更いたしますか」

「変更だ」僕の返事も聞かず、巌はタクシーの人工知能に命じた。「2人だ。2人に変更しろ」

うけたまわりました。2名様に変更いたします」


「こらあっ!」

 突然響いたその声に、僕と巌は顔を見合わせた。タクシーの外に立っていたのは、白いツバ広のヘルメットをかぶり、白い半袖のジャケットに半ズボンを身にまとった、いわゆる『探検隊』の格好をした滝緒たきおだった。

「あんたたち、こんな朝っぱらからどこに行く気なのよ」

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