僕が彼女を愛していると証明するためのたった一つの方法

天野雫

序章 病院にて

0-1 日向と日陰




 この頃、両手に収まるくらいの半径30センチメートルほどで僕の世界は成り立っていた。その枠に入ることが許されていたのは僕の母と弟の二人のみだった。それ以外の人たちなど、どうでもいいと思っていた。僕の世界には全く必要がなかったのだ。


 ――その、はずだったのに。


 彼女はいとも簡単に僕のその枠を飛び越えて、僕の懐に入って来た。そして、内側からその枠を、僕の世界を、1メートル、10メートル、1キロとだんだん広げてくれた。


 今の僕の世界が色づいているのは、彼女のおかげだ。今や彼女がいなかったら、僕の世界は成り立たない。




 だから僕は彼女に今の僕の精一杯で伝えた。



「僕は君が好きだ」



 すると彼女はこう返した。



「ケータイの画面じゃ、伝わらない。私は、言葉が欲しいの」――と。






*****




「こんにちは、いとしくん。よく来たね。今月はどうだった?」

「特に何も」



 僕はこの日、何か月かに一度の治療のために通院している大学病院へいつものようにやってきていた。


 担当医が高校一年生の夏に変わって、それから約一年の付き合いになる滝本たきもと先生は、今まで会ってきた医者のステレオタイプをことごとく破壊する、かなり珍しい、見ないタイプの医者だ。



「毎月一つの楽しいこと、見つけるって約束だよね?」



 滝本先生は、毎月一つ何かしら楽しいことを見つけて報告するという、僕にはどういった効果があるのかよく理解できない課題を僕に課していた。


 前に「変な課題」と先生に言ったら、軽くげんこつを飛ばされた。僕にとっては病院でこんな変わった課題を出されるとは思ってもみなかったが、至って先生は真面目らしい。



「強いて言えば」

「強いて言えば?」


 ウキウキした表情で先生は僕を見た。


「変なヤツに会いました」

「変なヤツ? クラスの子? もしかして……女の子?」

「そうです」



 この前白髪が生え始めたと嘆いていた先生は、どうやら僕が想像しているより遥かに優秀な医師らしい。いつか母さんが看護師さんから聞いたと言っていた。


 むしろ僕は先生のことを変人だと思っていた。僕の前ではいつも同年代の少年のような瞳をして、僕と同じ目線で話すものだから、全然優秀だというオーラを感じないのだ。


 いつもよくこんな人が医者になれたものだ……、と少し失礼な言葉も頭に過ぎったりすることもあるが、それは僕の心の中にそっと収納している。


 変人と天才は紙一重、というけれど、滝本先生は圧倒的に変人の割合が強いと思う。僕が見てきた人の中で、ダントツで先生は変わっている。小太りなのに肉が食べられないところとか、今時の黒縁眼鏡が実は伊達なところとか。眼鏡をかけている方が知的で女の人にモテるからと言っていたけれど、なんでもここ何年かは仕事が恋人状態らしい。


 この前「彼女が出来たんだ!」、と言って半ば興奮しながら僕に見せてきたのはスマホのゲーム画面だった。そんな風にオトメチックな可愛い女の子のイラストを患者に見せる医者なんて、きっとこの世に滝本先生以外存在しないと思う。



「どんな子なの?」

「お人よし」

「私が聞きたいのはそういうことじゃないのだよ、愛くん。可愛いか可愛くないかだ」


 ほら、やっぱり滝本先生はどこか変だ。







*****







 僕が彼女と出会ったのは、この大学病院だった。


 この大学病院は、ここら辺の街で一番大きくて設備の整った病院で、多くの患者がちょっと離れたところからも通いに来ていた。僕の家からも電車で30分のところにある。少し遠いけれど、通院歴は3年になるから、もうお手の物だ。


 いつものように診断を終えて帰ろうと院内を歩いていたら、僕と同じ学校のセーラー服を着た黒髪の女の子が待合所で座っているのを発見した。彼女はぴんと背筋を張って座っていて、後姿だけでも凛としているのが分かった。


 この病院に来る患者は年齢層が高いから、制服で着ているとやたらと目立つのだ。学ランの僕のように。学校終わりに来るとなると、家に帰って着替える暇がないのでしょうがないのだけれど、この格好のせいでおじいちゃんおばあちゃんによく話しかけられることは僕にとって苦痛だった。




「あれ? 和田わだくん?」



 帰るための通路が一本しかないので彼女の目線に入るのは避けられないことはわかっていた。けれど、まさか話しかけられるとは思ってもみなかったので、思わず彼女の方を見てしまった。



「同じクラスの、和田愛わだいとしくんだよね?」


 元気な声と共に、彼女は僕に微笑みを向けた。


 まさか同じクラスの人とこんなところで会うとは考えていなかった僕は、驚いてさらに目を見開いた。彼女の顔は、確かに見覚えがあった。一度も話したことはないし、そもそも先月新学期でクラス替えをしたばかりで正直名前は覚えていないけれど。確か席は前の方だった気がする。



 ――そして、彼女は僕と違って日向に生きる人間だ。



 そもそも、同じクラスで僕の名前を覚えているヤツなんかいないと思っていたから、名前を呼ばれたことに驚いてしまった。


 僕は、所謂“根暗”で“もやし”で“がり勉”だ。つまり、社交性は皆無と言ってもよくて、人気者の条件であるスポーツができるわけでもない。けれどもそのおかげか勉強だけは人より少しだけできた。でも総合すると面白みの欠片もない人間で、クラスでは常に日陰の存在というわけだ。


 強がりというわけではないが、僕は別に他人に興味はないし、日陰に居て困ったことは一切ない。むしろ目立ちたくない僕にとって、じめじめした場所は好都合といったところだ。


 そんな僕が彼女の名前を覚えていないのを悟ったのか、彼女はくすっと小さく笑って言った。



「私、菊本きくもとことはだよ。菊本! 同じクラスなんだし、覚えてよね!」

「ごめん」



 短文でそう返すと、僕の態度が想像以上だったのか、彼女は少し目を見開いた。最も、すぐにうっすらと笑顔を浮かべたけれど。



「えっと……和田くんはなんでココに?」



 そのまま話を続けるとは予想していなかったから、面倒くさいと思いながらも返事をする。



「通院 菊本さんは?」

「……おばあちゃんのお見舞い、かな」



 かなってなんだよ、と思いつつ、僕は気にしないことにした。どうせ、ただのクラスメイトだ。聞かれたくなさそうなことに、わざわざ干渉して面白がる趣味はない。



「それにしても、こんなところで会うなんてびっくりしちゃった!」



 僕は、どうして彼女がこんな僕と会話を続けようとしているのか理解できなかった。僕は日陰で、彼女は日向の人間なのに。


 普通だったら、僕の存在なんてスルーして終わりだ。僕の方だって空気のように、まるでそこにいないように、何も気付いていませんといった風に振る舞えばそれで済む。


 彼女はよっぽどのお人よしなのか。それともこんな異質な僕に好奇心でも抱いているのだろうか。



「そうだね じゃ」


 でも、僕の方は生憎彼女と話したいという気持ちは持ち合わせていない。だから適当なところで話を切り上げようとしたら、彼女は僕を引き留めた。


「ちょっと待って! ねえねえ和田くんってさ、勉強得意だったよね?」




 まだ何かあるのか……と思い振り向くと、彼女は僕に笑顔を向けていた。


 久しぶりに僕に向けられた混じりけのない純粋な笑顔に、少し心が動きそうになったのは、秘密だ。




「明日学校で、英語のノート貸してもらえないかな? 先生が話すの早くて、聞き取れなかった部分がいくつかあって……」



 うちのクラスを担当している英語の先生は、帰国子女らしく英語がペラペラで、授業もわりと生徒から好評だった。そして、先生の授業はリスニングとスピーキングを伸ばすことにも重きを置いていて、定期的にディクテーションをしたり、リスニングの問題を解いたりしている。その時に答えを黒板に書いてくれないのがやっかいだが、慣れればどうってことはない。


 僕は少しその先生がやるスピーキングの授業が苦手だったけれど、その他は一生懸命僕らに教えてくれて好感が持てると言ってもいい。



「いいよ」


 なんだ、そんなことかと思い僕は短文でそう返した。


「ありがとう! じゃあ、明日また学校でね!!」


 彼女はそう言って、僕にはもったいないくらいの笑みを向けた。






 こうして僕と彼女は不意に出遭ったわけだが、この時の僕は彼女によってこれからの僕の人生が大きく変えられることに全く気づいていないのである。




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