追憶――其ノ二

「小町……さん」

振るえる小鹿のような声で私を呼ぶのは彼でした。正直私は驚きました。まさか彼から話しかけてくるとは思っていませんでしたし、入学式の一件で、彼の事を意地悪な人だと思っていた私は、その時の大人しそうな印象に何とも言えない感情を抱きました。

「やっと話せたね。どうして今まで何も答えてくれなかったの?」

私がそう問い詰めると彼は

「だって……ぼくなんかと話してるのをだれかに見られたら、小町さんもハブられちゃうと思って……」

 彼は悪い人ではありませんでした。人をそんな風に思いやれる彼が悪い人なはずありません。

「じゃあ、もう一つしつもん。にゅうがくしきのあれはどうして?」

「うん。ぼくが声をうらがえしたらみんなのちゅういは小町さんからそれるかなって。小町さん、はずかしそうにしてたから……。ごめん」

 私はとんでもない勘違いをしていたようでした。彼の行動は空回りしていただけで、本当はすごくいい人なのでした。今になって思うのは、私は彼のそんな所に惚れていると言う事でしょう。

「つきかげくんだっけ? おともだちになろうよ。きっとなかよくなれるとおもうなぁ」

「うん。いいよ。でも学校の外でだけ。それがじょうけん。じゃないと、小町さんまで……」

 そこから私たちの秘密の関係が始まりました。私だけが知っている彼の真の姿。私はちょっとだけ優越感を覚えました。

 私たちは放課後毎日のように遊びました。お話をしたり、野山を駆け回ったりそれはそれは楽しい日々でした。

 私は友達にニックネームをつけることにしています。理由はそうすることで仲がいっそう深まったように感じるからです。私は彼を「ムン君」と呼びました。「月影」の「月」は英語で「ムーン」だからです。彼はそれを大いに喜びました。それはあくまで私の希望的観測の上での話ですけど。

 彼は私の事を「ミューちゃん」と呼びました。「音衣」の「音」は英語で「ミュージック」だからだそうです。私は顔を赤らめて恥ずかしがりながら喜びました。私自身ニックネームをつけることはあれどつけられることはあまり無かったので、恥ずかしくなり、うれしくなるのは当然のことなのです。

 仲間外れにされていたムン君を見ていられなかった私は、彼をみんなと無理やり打ち解けさせました。思いの他その作業は容易でした。それでも私たちの秘密の関係は続きました。

 ムン君と仲良くなるにつれて分かったことは、彼がとても不器用な人間だということです。彼はとても優しい人なのですが、何かをしようとするたびに、悪い方へ悪い方へ事は運びます。入学式の事件と同様に。それはまるでこの世界と彼の歯車がかみ合っていないかのようなのです。

 だから私はその歯車が嚙み合うように少しだけお手伝いをしました。彼の歯車はしっかりと綺麗に回っていたので、私がそれを少し押してあげるだけでその本領は大いに発揮されました。

 小学校三年生の冬のことです。私は親の仕事の都合で他校へ転校することが決まりました。村のみんなと会えなくなってしまうのは私にとってとても寂しいことでした。友人と過ごした楽しい時間が私をそんな気持ちにさせるのでしょう。私は残り少ないその時間を大切にしようと思いました。

 ちょうどその頃からでしょうか。彼が学校に来なくなったのは。

 彼は母親を亡くしていたのです。それをきっかけに彼は家から出てこなくなりました。

 私は毎日彼の家に通いました。でも顔を見せてくれることはありませんでした。なので私はいつも外から呼びかけていました。

「ムン君。いる~? お~い」

毎日毎日、何時間も何時間も家の前で呼びかけ続けました。しかし返事は全く返ってきません。村は雪で染まり私の手足は取れそうなほど悴みました。体は冷えて凍えそうでした。それでも私はそれを止めませんでした。なぜなら、それをしてでももう一度、彼に会いたかったからでしょう。

 そんな日々が数か月ほど続いたでしょうか。ついにこの村から離れなければならない日がやってきました。まだ、彼には会えずじまいです。私は最後にもう一度だけ彼の家に行ってみようと思いました。このままお別れなんて辛すぎます。

「ムン君。お願い。一度でいいから出てきて欲しいの。私もう引っ越しちゃうの。だから……お願い」

しかし、いつもの通り返答はありませんでした。相当心に深い傷を負っているのでしょう。彼にとって母親はそれほどまでに大きな存在だったのだと思います。

 しかし、ずっとこのままというわけにはいかないと思います。彼自身、この大きな山を乗り越える必要があるのです。

 私はおせっかいを承知で言うことにしました。

「ムン君の気持ちは凄く分かるよ。私だってお母さんが死んじゃったら悲しいもん。でも立ち止まってちゃだめだよ。逃げることが悪いとは言わないけど、いつかは立ち向かわなくちゃいけないんだよ。受け入れなきゃいけないんだよ」

思いのほか力が入っていたようで、言い終わった後、息がとても乱れていました。

「ミューちゃんには分からないよ。」

それは唐突でした。彼は私の言葉に答えてくれたのです。

「だってミューちゃんはいろんなことに恵まれてるもん。だから僕の気持なんか分かりっこない」

「でも、このままじゃダメだと思うよ。だから――

「ミューちゃんは野暮だなぁ。分からない癖に何で語ろうとするの? 知らない癖にいろいろ言われると嫌なんだよ」

「私はムン君のことを――

「僕のこと? じゃあもう何も言わないでくれる。疲れたよ。もう話したくない」

 それが私たちの最後の会話でした。あの時から十二年の月日が流れました。今でもこのことが心残りです。

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