二日目――其ノ一
日中、俺は乃愛と二人で村を散歩した。景観は非常に穏やかで、心は初めて来た場所なのに、よく落ち着いた。それは多分自分自身が、嫌な事が存在しない理想的な世界とこの場所とを重ね合わせて、現実逃避しているんだと思う。
村中を歩いてると見知らぬ男性が声をかけてきた。
「こんにちは。見慣れない顔ですね。旅行者の方ですか」
その男性は、縁の無い眼鏡を中指で持ち上げながら少し笑った。賢明で聡明で温厚そうなその外見は、いかにも村人っていう雰囲気を漂わせてた。
彼とは数分間だけ軽く会話を交わした。コテージに宿泊しに来る人は一定数いるけど、村の方まで足を運ぶ人はほぼいないらしくて、彼は俺の事を物珍しそうにしてた。
俺は彼にこの村の名物について尋ねてみた。
「この村の名物ですか? これといって自慢できるものは無いのですが、強いて挙げるならホタルですかね。とても美しいですよ。この時期は川沿いにたくさん見られますね。特に
俺と乃愛は彼の案内でその橋へと向かった。
「夜になると、ここから川に沿って、緑や黄色の淡い光が道のように連なっていて、とても幻想的に見えるんですよ」
彼は、「せっかくこの村に来たのにこれを見ずして帰るのは一生の後悔になる」って言わんばかりの自信を隠さず見せていた。
コテージに戻ると音衣がいたから、彼女にその話をした。彼女はこの村の出身者という事もあって、その話を知ってたみたいだった。
「ここのホタルは日本一、いや世界一だよ」
彼女もまたこの村のホタルにこの上ない自信を持っているみたいだった。俺たちは相談して、今夜みんなでそれを見に行くことに決めた。
乃愛はホタルとかいう未知の存在に興味津々で、待ち切らないような様子だった。夜になってその時間が近づいて来たら、それはさらに激しくなって、「はやくはやく」と呪文のように連呼してた。だから、俺たちはみんなより一足先に金成橋へ向かった。
乃愛は道を歩く俺の周りを笑いながら駆け回ってた。
彼女は何故か手に狐のお面を持ってた。
「乃愛。そのお面どうした?」
「おちてたの~」
「どこに?」
「はるちゃんおねえちゃんのへや~」
それは昨日、華ちゃんの部屋に張り付いてたあのお面だった。接着が弱くて今にも取れそうだったから、それが外れて地面に落ちてたのを乃愛が拾ったって解釈するのが妥当だろう。
それにしても、子供の好奇心の許容範囲はとても広いと思った。可愛いお人形さんから趣味の悪い稲荷のお面まで。他の子もみんなこうなんだろうか? おれが幼い頃はどうだったっけ? 一人で考えても答えは出ない。子供は予測不能な生き物なのかもしれない。
やがて、分かれ道が見えてくると、乃愛はそこまでテカテカと走って行って
「パパ~。どっち~」
と可愛らしく叫んだ。
「乃愛。ちょっと待って」
と俺が「大人は体力が無いから走れない。」みたいなニュアンスを含ませながらそう言うと彼女は
「パパ~。はやくぅ~」
「パパ~。おそい~」
とか、ちょっと不満そうに俺を急かした。これは俺が変なのかもしれないけど、彼女に強くものを言われると、少しうれしい。
しばらくの間歩き続けると、昼間に来た橋に辿り着いた。辺りは夜の山にしてはとても明るかった。そこの景色に目をやった。時間にして数秒くらいの間、俺は本当に硬直した。正直、ここまですごいものが見られるとは思ってなかった。あの男性や音衣が、あれだけ自信を持つのも理解できる。それだけこのホタルが作る世界は……、いや、やっぱり言葉にするのはやめた。言葉にすると今感じているいろんなものが、その言葉に集約される気がする。それは少し味気ない。
「うわぁ~。パパ、あれがほたるさん?」
「そうだよ」
彼女は信じられないといった面持ちでいた。
「すごいすご~い」
彼女は喜びの風呂敷を広げる様に手を広げ、遊園地のコーヒーカップのようにぐるぐると回った。
「感動」って何なんだろ? 最近そんなことを考える。体の中で何かが起こっていることは分かる。でも、どんな作用が、あれほどのものを作り出すのか不思議でしかない。人を良くも悪くも大きく動かす「感動」とかいう現象は、何が原因で、どう反応して、どうしてあんな風に体現されるのか。自分には理解しようがないけど、確かに存在している。その疑問が俺を悩ませる。
「あ~~~~」
突然、乃愛の甲高い悲痛の叫びが聞こえた。彼女は狐のお面を橋の下に落としたみたいだった。お面はホタルの照らす水面に向かってゆらゆらと落ちていった。
「きつねさ~ん」
それは今にも泣きだしそうなゆらゆらとした声だった。お面はズンズンと流されて数呼吸の間に消えていった。
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