魔導書使いの魔導司書

moai

Prologue

序章

「エリス……」

 部屋をたゆたう光の球が作り出す淡い明かりの中で男がうわ言のように呟いた。

 男のいる部屋にはいくつもの書棚があり、空間の許す限りの書物が入れられていた。入りきらない書物は乱雑に床に直置きされている。そんな部屋の様子はお世辞にも整頓されているとはいえず、日常生活に影響を及ぼしているレベルである。

 普通の人間ならば、掃除のひとつやふたつくらいしようと思うレベルの荒れ模様であるが、男にとってそんなことは些細なことでしかなった。

 今――いや、あの日から男の目に映るものはひとつだけだった。

「エリス……。待っていなさい」

 またも同じ人物の名を口にしながら、男はひたすらに筆を動かしていく。

 何百頁はあろう分厚い書物の真ん中あたり。白紙の頁に目にも止まらぬ早さで文字が書き込まれていく。一行を書き終えるとまた次の行へと、流水のように筆は止まることを知らない。

 その筆に追随するように書き終えた文字たちは見慣れぬ文字へと姿を変えていく。人々が日常生活で使う文字とはまるで別種のもの。おそらく街を歩く人々に見せたところで誰ひとりとしてその意味を理解できる者はいないだろう。

 そんな異質な文字を男は理解していた。そもそもこの文字変換そのものを男が行っていたのだ。頭で文章を考えながら、書き込んだ文字の変換。男と同じ職業の者が見れば、感嘆のため息をつくほどの見事な芸当だった。

 書物全体の四分の一に差しかかったあたりで動き続けていた筆が止まった。おもむろに立ち上がると、そのすぐ後ろにある寝台へと目を向ける。

 簡素な出来の寝台には一人の少女が横たわっていた。質素な身なりの少女はまるで精緻な人形と見間違うほどに整った顔立ちと透き通るような肌をしており、誰しもが目を奪われてしまいそうだが、その少女からは一切の生気が感じられなかった。寝息どころか生きている証しである人肌の温もりすら感じない。そういう意味では本当の人形のようだった。

「エリス……」

 男は冷え切った頬に手を当てる。手のひらから伝わってくる冷たさは男の心に深く突き刺さる。少女とは対照的に温もりを持つ自分の身体が憎らしかった。今でも愛おしい娘はこんなにも冷え切ってしまっているのに……。

「私のせいで……!」

 止むことのない贖罪と懺悔の念は大粒の涙となって少女の頬を濡らす。

「もうすぐ……。もうすぐだから……」

 濡れてしまった少女の頬を袖で拭う。

 贖罪と懺悔に満ちていた男の双眸は次の瞬間には火のついた目に変わっていた、だが、その目はどこか危うさを感じさせるものだ。ふとした瞬間に壊れてしまいそうな――。

 男は止まっていた作業を再開する。黙々と文字を書き連ね、その次には文字を変換していく。常人なら気が狂いそうな気が遠くなる作業を――いや、そのなにか取り憑かれたような顔はすでに狂ってしまっているのかもしれない。

「エリス……エリス……エリス――」

 果てしない作業の中でも呪詛のように呟かれるその声は今夜も止むことはなかった。

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