『禁忌』(2007年01月26日)

矢口晃

第1話

僕は禁忌を犯してしまった。だからとても悪い結果を招いた。しかしそれは全て決まりを守れなかった僕自身のせいだ。だから僕は甘んじて、下された罰を受けるしかない。

 これから話すのは、僕と二年間恋人関係にあった彼女との間にあった出来事だ。つまらない話かもしれない。でもまあ、よかったら最後まで聞いてくれ。

 初めは僕の一目ぼれだった。同じ大学のキャンパスを友達と一緒に歩いていた彼女の姿を一目見て、一気に恋に落ちてしまった。初めての人に会って、目も眩むような思いになったのはあの時が最初で最後だ。今声をかけなかったら一生後悔する。そう思ったから僕は、普段は緊張しいで友達の間に一人女の人が入っただけでも舌がもつれてしまいそうになるのに、すべての迷いを振り切って、彼女の前に歩み出て、

「よかったら僕と友達になって下さい」

 と腰を九十度に曲げて一生懸命お願いした。隣にいた友達がびっくりして目を真ん丸くしていたようだけど、その時の僕にはそんなことを気にしている余裕なんてなかったのだ。もし人間が一生に一度大きな賭けに出なければならないとするならば、この時がまさに勝負のしどころだ。そんな心境だった。

 そんな僕の心の内を知ってか知らずか、彼女はくすくすと厚い手袋をした手を口元に当てながらおかしそうに笑みをこぼすと、

「いいですよ」

 とすんなり僕の申し出を受け入れてくれた。

 これが僕が小野由香と知り合ったきっかけだった。僕が三年生で、小野が二年生のときの冬だった。

 偶然にもその時、小野に決まった男友達がいなかったということもあり、僕と小野との距離はぐんぐんと縮まっていった。そして出会ってから一ヶ月目の記念日に、二人は正式に交際をスタートさせた。

 小野は一言で言って、お嬢様だった。コンビニに一人で立ち寄るのが恥ずかしいと言っているような女の子だった。目はぱっちりとした二重瞼で、黒目がちの目はきらきらとして彼女の純真さを表していた。鼻は高すぎず、唇も薄めにできていて、見る人が見ればどこか質素で物足りない印象を与えるかも知れない顔立ちだった。しかし僕にはそこに却って上品さと清潔感を感じて好ましかった。髪はよく手入れの行き届いたまっすぐな黒髪を肩の後ろまで垂らしていた。僕はそれまで女性の長い髪と言うのはあまり好きではなかった。どちらかと言えばボーイッシュな感じの女性に惹かれがちだったからだ。しかし小野の黒い髪だけは別物だった。僕は彼女と別れる前に、必ず彼女の頭と髪を愛撫することを忘れなかった。撫でるたびに石鹸の香りが漂ってきて、僕の気持ちを優しくさせた。

 そして彼女の大らかで物怖じしない性格が、くよくよしがちな僕にとっては頼もしくもあり、また憧れでもあった。よく周りの人たちは、僕らを見て「男と女があべこべだ」と冷やかした。実際にそうかもしれないと思わないこともなかった。でも彼女はそんな雑音にいたって無頓着で、

「いいじゃない。私は私で、あなたはあなたよ」

 と言いながら平然と済ましていた。僕も

「そうだね」

 と言ってにこにこと笑っていた。

 これだけ見れば僕らは大変幸せそうなカップルに見えるかもしれない。実際彼女といる時の僕は幸せそのものだった。僕にとっては生まれて初めての恋人であったし、一生寄り添っていくのはこの女性を置いていないとさえ直感していた。何をおいてもまず彼女を第一に優先させようと心がけていた。しかしその幸せを得るためには、僕は非常な苦しみを乗り越えなければならなかったのである。

 実は僕は二十歳を過ぎてからすぐにヘビースモーカーになった。朝昼晩と食事を摂った後、それから朝起きた時と夜寝る前と、トイレの個室に入ったときとホームで電車を待っている時と、とにかく手が開いた時には無意識に胸ポケットのタバコに手が行ってしまうのである。

 対して彼女は、大の嫌煙家だった。幼い時から彼女の家でタバコを吸う人が誰もいなかったこともあるが、彼女のお父さんがこれまた大の禁煙家で、その影響を大分受けたらしい。彼女に言わせると、タバコを吸う人の口臭は、犬のトイレの五十個分よりもっと悪臭を放つのだと言う。だから彼女は電車に乗るときは必ず男性の傍を避けたし、電車が混んでいる時にはかならず消臭剤入りのマスクをした。カラオケは好きだが、カラオケボックスはどこも部屋がタバコ臭いので行きたくないと言った。レストランでも禁煙席を選ぶのはもちろん、離れた席で誰かがタバコを吹かしているのを見ただけでも料理がまずくなるとさえ言っていた。

 だから知り合って間もなく、まだ彼女のそんな性癖を知らなかった僕がいつものように彼女の前でタバコを吸おうとしたのを見たとき、彼女はそれまで見せたこともない憎悪の眼差しで僕を睨みつけて、

「あなた、タバコ吸うの?」

 と聞いた。

「うん。だめ?」

 僕が少しおどけて見せると、彼女は険しい目付きをさらに険悪にして、

「だったら、私あなたと付き合えない」

 とそっけなく言い捨てた。

 それから僕は、彼女がどれほどタバコを嫌っているかを延々と聞かされた。正直、タバコを吸わないで生きるのは僕にとって困難なことに思われた。しかしたかがタバコのことくらいで、彼女を失うのはそれ以上につらかった。

 だから僕は決めた。タバコを止めようと。

 金輪際、タバコは吸わないと。

 といっても、やはり完全にタバコと縁を切るのは、それまであまりにタバコと親密に生きてきた僕にとってはそう容易くできることではなかった。たとえば引退したお相撲さんが髷を切られる時に切なそうに泣いている映像が時々テレビで流れるけれど、まったくあんな心境だった。本来別れられないもの、あるいは一緒にあってしかるべきものがなくなるというのは、喪失感という言葉では表しきれないくらいの悲しみを僕に与えた。そういえばいくらか格好が付くかもしれない。しかし要するに、僕は弱かったのだ。恋人のために一日二十本のタバコも止められないくらいのぼんくらだったのだ。どうしても止められない時、僕は彼女に隠れてこっそりとタバコを吸うことがあった。しかし彼女に会う前には必ず歯を丁寧に磨いて、うがい薬で綺麗に口を消毒した。彼女もその部分の僕の努力は認めてくれたようで、陰に隠れてこっそり吸っていることに気が付いていながら、そのことに関しては黙認してくれていた。

 いつか彼女は噴水のある公園のベンチに並んで腰掛けながら、首に巻いたマフラーに半ば顎を埋めて僕に言った。

「あなたがタバコを止められないということは知っているわ。それは仕方ないと思ってる」

「ごめん」

「でも、お願いだから約束して。私のいる前では、絶対にタバコを吸わないって」

「うん。約束するよ」

僕は彼女の度量の大きさにどれほど恩恵を受けたか知れない。できる限り僕はタバコと縁を切ろうと、それからも人知れず努力を続けた。

付き合い始めて一年ほど経ったある冬の日のことだった。両親がともに外出して留守にしている日曜日、僕は彼女を始めて自宅に招待した。それより以前から僕の部屋を見てみたいと言っていた彼女は、喜んで僕の招待を受けてくれた。そして彼女を内に招き入れて、いざ自分の部屋へ入ろうとしたときである。

「だめ。私この部屋に入れない」

 一歩、いや半歩部屋に足を踏み入れたところで、たちまち彼女が表情を曇らせてしまった。

「え、どうして?」

「だって、この部屋臭うんだもの」

 彼女を部屋に呼ぶために、僕は一年近くもの間自室でタバコをくゆらせたことはなかった。どうしても吸いたくなった時は、必ずトイレに入って吸うようにしていた。部屋の四隅に消臭剤を置いて、週末はこまめに布団や枕を天日干しにするようにしてきた。自分では、もうまったくタバコの臭いは取れているように思っていた。しかし、彼女には分かるのだ。この部屋に染みつた、あの煙の臭いが。壁や柱から漏れ出してくる、あの嫌な臭気が。

「私――」

 自宅近くの繁華街を肩を並べて歩きながら、小野が呟くようにそう言った。

「何?」

 僕は静かに彼女に問い返した。

「私、このままじゃ、あなたと付き合っていくことはできない」

「な、なんでさ」

 突然彼女が別れ話を切り出してきた。そう思い頭が真っ白になった僕は、彼女の行く手に立ちふさがるように立ち止まった。

 道行く人々が、僕らの方をじろっと見た。

 小野はずっと目を地面の方へ向けたまま、細かく震える声で僕に話した。

「だって、あなたがタバコを止めてくれないのなら、私あなたとずっと一緒にいることなんてできないもの」

 このままでは本当に彼女が僕の前からいなくなってしまう。そう思った僕は、必死に彼女を説得した。

「わかった。タバコは止める。今後二度と吸わない。だから僕と一緒にいてくれ」

「本当?」

 そう言って僕を見上げる彼女の目からは、すでに大粒の涙が溢れ出しそうだった。

「本当だよ。約束する。だから――」

「だから?」

「だから、小野も約束してくれ。今後二度と、僕と別れるなんて、口にしないって」

 彼女は瞬時戸惑ったような表情を見せた。が、すぐにいつもの純粋な瞳を僕に向けて、

「うん。約束する」

 そう言ってにこりと微笑んでくれた。僕はほっと溜息をついた。

 言ってしまった以上、もはや僕には、彼女との約束を守る以外道はなかった。その日から、僕は完全にタバコを断とうと決心を固めた。止めてから一週間ほど、僕はとてつもない禁断症状に悩まされた。夜もうまく眠れなかったし、眠れたとしても夢の中でタバコを吸ってしまい、慌てて飛び起きてそれが夢だと思ってほっとするということも何度もあった。部屋にある漫画や本を、なぜか無性に捨ててしまいたい気持ちに駆られたこともあったし、怒りっぽく誰でもいいから思い切り殴りつけてやりたいという衝動にも苦しめられた。

 しかしそんな苦しみも二週間経つ頃には嘘のように消えうせてしまい、むしろなぜあんなにもタバコなんて吸いたかったのだろう、大切なお金を白い煙に変えてしまうなんて、なんてもったいないことをしていたのだろうと言う気にさえなっていた。

 禁煙はどうやら成功したらしかった。彼女もそれをすごく喜んでくれた。これなら一緒に結婚できるかもしれない。そう彼女の口から聞いて、僕がどれほど嬉しかったかなんて表現することはできない。

 僕は全てのものに感謝したい、そんな気分になっていた。

 大学四年の春に禁煙に成功して、その歳の夏休みには卒業後の就職先も無事決まった。後は卒論をそつなくこなして晴れて大学を卒業するだけだった。卒業後には結婚をしようという話も、彼女との間に上り始めていた。そんな矢先のことだった。

 ちょうどその歳の冬のことだったのだが、僕が大学で四年間在籍していた科学系のサークルで、後輩達が僕たちの送別会を企画したと言うので、僕もそれに参加した。汚い小さな中華料理屋の宴会室で、仲の良い友達と散々酒を飲んだ。このところ全てが順調にきていることもあって、僕は気が緩んでいたのかも知れない。その夜柄にもなくはしゃいでしまった僕は、ついついいつも以上に酒を飲んでしまった。

 これ以上ないほど気分の良くなったところに、運悪く隣で友人がうまそうにタバコを吸っているのを目にしてしまった。およそ一年もの間、どんなに吸いたくても我慢してきたタバコが、この時酔った僕を途方もない力で誘惑した。

 僕と目が合った友人が、

「おい、どうした飯山? 一本吸うか?」

 友人がそう僕の名を呼びながら、僕にタバコを差し出した。

「いやいや、だめだ。僕は禁煙してるんだから」

 最初のうちこそ僕はそう言っていたが、誘惑は次第に勝り、とうとう最後には、

「じゃあ、一本だけ」

 ということで、うっかり手を出してしまった。

 一本吸ってしまえば、あとは際限がない。僕はそれが友人のタバコであることも気にせず、一年分の溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、小さな中華料理屋の二階の宴会室で、灰皿が吸殻で一杯になってもなおタバコを吸い続けた。結局それから会がお仕舞いになるまで、僕は何本吸ったかさえ覚えていないほど、たくさんのタバコを吸い尽くしていたのだった。

 みんなこれでもかと言うくらいいい心持に酔って店を出たその時である。店の前に仁王立ちになって僕を待ち構えていたのは、小野由香だった。

「どうして、ここに?」

 思わずそう尋ねた僕に、彼女は眉間に何本も皺を走らせながら、恨めしそうにこう答えた。

「用があるから電話したのに出ないから。あなたの友達に聞いたら、たぶんこの店だろうっていうから、来てみたの」

「そう。で、用って何?」

 僕が彼女に一歩近づくと、彼女は逆に僕から一歩離れてこう言った。

「臭い」

「え?」

「臭いって言ってんの。あなた、またタバコ吸ったでしょう?」

 酔って朦朧とした頭の中に、彼女の声はやけにエコーがかって僕には聞こえた。一年間も好きなタバコを我慢してきたんだ、こんな無礼講の日に数本吸ったって、一体何が悪いと言うのだ。僕はあやふやな意識の中で、そう叫んでいたように記憶している。

「もうあなたとは付き合えない。別れる」

 つっけんどんに彼女がそう言った。僕はこの時、悲しみよりむしろ怒りが勝っていた。

 それまでの一年間の努力を見もしないで、たった一度の過ちを責めるなんて、あんまりだ。僕はそう思っていた。

 だから僕は精一杯の思いを込めて、酔ってうまく出てこない言葉を使って彼女に訴えた。

「分かった。確かに僕は約束を破った。それは認める。でも、君だって約束をやぶったじゃないか」

「約束って何よ?」

 彼女の顔が、一層険悪に歪んだのを僕は見た。

「僕と別れるなんて、二度と口にしないって約束したじゃないか。忘れたのか」

「ああ。あれ」

 彼女はそういいながら皮肉そうな笑みを口元に浮かべて、僕に言った。

「じゃあ言わない。あなたと別れるなんて言わない。あなたと別れないから、私と別れて」

 ――「あなたと別れないから、私と別れて」。

僕は朦朧とした意識の中で、小野の口からでたこの言葉を何度となく繰り返した。

 この言葉は、確かに日本語として意味をなしていないに違いなかった。

 しかし同時に、自分よりは彼女の言い分の方に多少分があるように、僕はその時感じつつあった。

 禁忌を犯したのは僕だ。その僕を嘲笑うかのように、冬の三日月が燦々と輝いていた。

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『禁忌』(2007年01月26日) 矢口晃 @yaguti

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