落下
@mai_oshi
落下
彼女に会うのは二年ぶりだった。僕はこの二年、一日たりとも彼女のことを考えない日はなかったけれど、彼女の方はどうだろうか。たぶん、めったに思い出してはくれなかっただろう。なにせ彼女は常に頭の中が忙しく、踊りまわっているような人なのだ。そこに僕のために開けられた隙間はほんの少ししかなくても、それがあるということだけで十分だった。
僕は机の上に手を置いた。彼女は去年この席に座っていたのだ。新校舎の三階。一番端の窓際の席。けれど僕らが出会った教室はここではなかった。現代に存在するとは信じられないほど古びた、歴史ある旧校舎の方だった。旧校舎は立ち入り禁止にされていて、もうすぐ取り壊されてしまうはずだった。
「やあ」
背後から唐突に声がかかった。彼女だった。
「ひさしぶり」
「ひさしぶり」
二人の距離は以前と変わらない。少なくとも僕はそのつもりだし、彼女はそんなことを気にするような人じゃなかった。
「じゃあ、行こうか」
「いきなりだね」
「そうはいっても、他にすることもないじゃないか。わたしたちはなすべきことをするだけさ」
「そうかな」
「もちろん。あたりまえじゃないか」
僕はすこし、久しぶりに会った彼女と旧交を温めたくないわけでもなかったけど、彼女は僕にとって絶対なのだ。約束を破るわけにはいかない。
「きみと初めて会った時のこと、覚えてる?」
屋上へ向かう階段の途中で彼女は僕に尋ねた。夏休みも終わりに近い夕方。他には誰もいない、空っぽの校舎に彼女の声はよく響いた。
「忘れられるはずがないじゃないか」
「そうか」
あれほどに驚くべきことがぼくの人生に再び訪れようとはとても思えない。いや、これからすることは確かにそれ以上かもしれないけれど。
「あの時は面白かったな」
彼女はすこし、思い出し笑いをしたようだった。彼女にとってはほんの冗談だったのかもしれない。けれど、それでも僕は彼女との約束を守ってきた。まさに今日まで。
「少し風が強いな」
屋上に出た僕らはフェンスに寄り掛かった。それはすこし軋んで、寂しげな声を上げた。
「まあ、そううまくはいかないか。わたしはもっと、燃えるような夕焼け空がよかったんだが」
暮れかけた空は、しかしぼんやりと曇っていた。
「夕焼け空なんて、あまりに俗すぎない?」
「そうかな。いや、まあ、たまはそういうのもいいじゃないか。なにせもう一度、とやり直せるものでもないのだし」
彼女は手にしたニッパーでフェンスの金網を切り始めた。ぱちん、ぱちんと次々に断たれて、そういえば彼女は左利きだったのだな、となんとなく思った。
ひと一人が通り抜けられるほどの穴を作るのにはいささかの時間が必要だった。ぼくは彼女に手伝いを申し出たけれども、彼女は苦笑いをして、そのあと少し真顔になって僕に聞いた。
「きみは本当にわたしと行くのか? これはわたしの個人的な問題だよ。きみがついてくる必要なんてない」
「そんな寂しいこと言わないでよ」
僕は彼女に心酔してるといってよかった。あの初めて会った日、言葉を聞いたまさにその時から。それは彼女とずっと離れていたってかわりはしなかった。もし彼女がいなくなってしまったとしたら。
「ありがとう――いや、うれしいんだ。わたしはずっとひとりだったからね。せめて最後ぐらい、誰かと一緒にっていうのも悪くはないと思うんだ」
そういって彼女は僕の手を、その左手でとった。服をひっかけないように気を付けながらフェンスを潜り抜ける。こんな時でも服の心配をしてしまっている自分がすこしおかしかった。僕よりも体温が高いのか、わずかに汗で湿ったその手はひどく熱く感じられた。
もう後戻りはできないな。三階建てとはいっても、見下ろした地面までの距離にめまいがしそうだった。だけど、これでいいのだ。
「さあ、いこうか」
彼女は下も見ずに、一歩、僕の手を引いたまま屋上から歩みだして、
「なに、怖くはないよ。君もいてくれることだしね」
階段を踏み外した時のように、つんのめるような感触のあと――僕たちは顔を見あわせて、少し笑った。
落下 @mai_oshi
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