日傘の彼へ

深道仁屋

掌編

 イヤホンから流れるラジオ放送から、現在ブレイク中の新人歌手SUNNYの歌が流れてくる。この歌を聞くのはもう何度目だろう。CDが発売されたのが先月の中旬だったので、もう世に出てから一ヶ月が経とうとしている。その聞き慣れた歌声を聞きながら、俺は夜の高層ビル街を歩いていた。この曲を聴くと、初めて異性というものを意識した頃の甘く切ない想いが、柔らかなメロディに乗って鮮烈に思い出される。

 当時、俺は部活動には入っていなくて、放課後は毎日教室に残って本を読んだり、なんとなく暇つぶしに掃除をしたりしていた。仲間とのチームワークでスポーツをやるということに極度の緊張を覚えてしまう俺は、どの運動部にも入ることもなく、もとから興味がなかった文科系の部活にも入ることは無かった。全ては灰色。窓の外だけの出来事なのだと、野球部やサッカー部、テニス部の活動を眺めながら想いを募らせていた。

 しかしそんな灰色の景色の中で、一人だけ淡く鮮明な色を帯びた人がいた。彼女はテニス部に所属する鈴木美鈴という女子生徒で、クラスメイトだった。彼女は常に周囲に笑顔を振りまいていて、部活動では時折快活な掛け声を発していた。学年ではさほど目立つほうではないが、部活動をしているときの彼女はいつもきらきら輝いているように見えた。

 一度、彼女と教室で二人になったことがある。彼女のことをまだ俺が意識していなかったとき、俺はいつも通り長箒で教室を掃いていた。そこに、突如彼女が血相を変えて走り込んできた。きっと俺にも気づいたはずだが、特別話しかけられることもなく、彼女は自分の机に一直線にたどり着くと、中に手を突っ込んで何かを探しているようだった。やがて目当てのものが見つかったのか、勢い良く手を引きぬいた。握られていたのは一枚のカセットテープだった。よほど大事なものだったのか、彼女は安堵の表情でそれを鞄にしまうと再び教室から出て行った。その必死な姿は、当時の俺にとってとても印象的なものだった。

 それから数ヶ月が過ぎた。その頃、俺は彼女の秘密を一つ知ってしまった。彼女は学校帰り、必ず神社に向かうのだ。そして毎日のように、そこで歌の練習をしていた。俺の家がこの神社のすぐ近くになかったら、恐らく一生気づくことはなかっただろう。そして当時の同級生でこのことを知っているのも、やはり俺だけだろう。

 その日は生憎の雨だった。彼女は傘を持っていなかったらしく、ずぶ濡れのまま走って下校していた。俺は傘を持っていたが、走って傘を貸すなんてことはもちろん出来るわけもなく、先を走る彼女を眺めながらゆっくり歩いていた。神社に着くと、やはり彼女はいつも通り歌の練習をしていた。雨避けのため、神社の屋根にギリギリ入っていた。土砂降りと化した雨はその勢いを緩めることもなく、このまま歩いて帰っては間違いなく風邪を引くことになる。そう思った俺は、獣道に隠していた身に一喝を入れ、一気に飛び出すと彼女のところまで走り、畳んだ傘を突きつけた。そのときの彼女の顔は今でも忘れられない。羞恥と驚愕と一抹の安心が入り混じったような顔のまま、しばらく硬直していた。結局その空気に耐えられなくなった俺は、傘を彼女に押し付けてそのまま自宅に走った。最後に彼女が何か言ったような気がしたが、聞き取ることは出来なかった。

 翌日、彼女は急に学校に来なくなった。担任は彼女が転校する旨をクラスメイトたちに伝えた。父親の転勤らしかった。急な話に戸惑うクラスだったが、だからといって何かが起きるわけでもなかった。

 俺はどうしてあの時、彼女の発した言葉をちゃんと聞いておかなかったのだろう。一度も話したこともなかった俺に彼女が放った言葉の内容は、以降幾年月も、俺の心に引っかかっていたことだった。

 高層ビル街を自宅に向かって歩いていた俺は、ふと雨が降り始めていることに気づいた。鞄で頭を覆いながら近くにあったコンビニまで走る。

「ったく、ついてねえな」

 仕方なく店内を見回すことにする。雑誌コーナーを一通り見て、飲料水のコーナーに差し掛かると、背後から聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。慌てて振り向くと、整った顔立ちの女性が必要最低限の声で通話をしていた。そして、俺と同じように周囲の人間の視線もその女性に集まる。

 見紛うはずもない。今現在俺のイヤホンから流れる声の主、SUNNYだった。彼女はやがて通話を終え、軽い人だかりができている店内に動揺している。いくらブレイク中とはいっても、やっぱり新人アーティストなのだろう。握手やサインを求められる中、遠慮するばかりで上手く対応が出来ていない。ただ、常に弾けるような笑顔だけは辺りに振りまいている。たぶん、本心からの笑顔なのだろう。

―――あの頃と、何も変わっていない。

 そんなことを思っていると、俺と彼女の視線が合った。咄嗟のことで、さすがに俺も動揺してしまう。彼女は俺よりも驚いたのだろう、ファンに囲まれながらも膠着したまま眼を見開いている。まるで、あの土砂降りの夜の再現のようだった。

 俺は走りこそしなかったが、やはり話しかけることはせず、そのままコンビニを出た。しかしそこで雨が降っているのを思い出し、せめて傘だけでも買おうと再び店内に入ろうとしたところを、彼女に遮られる。

「……鈴木さん」

 鈴木美鈴。現在SUNNYというアーティスト名でブレイク中のシンガーソングライター。彼女はじっと俺を見つめたまま、けれど何も言わない。気恥ずかしさからか、その頬がわずかに紅潮しているように見える。

 もう逃げるのは止めにしないか。俺は自分に言い聞かせる。今後会えるわけがないと思っていた彼女が再び目の前に来て、それは天からのメッセージなのかと思うほどベストタイミングだ。ここで何も言わないまま離れてしまっていいわけがない。

「「あ、あのときっ」」

 二人の声が重なった。思わず一時停止して、後に二人同時に噴出す。

「あのとき……何て言ったんですか?」

 本当は話したいことが山ほどあるんだ。君は俺のことなんて何とも思っていないかもしれないけど、こうして十年ぶりに会ってみて、俺の心はいとも簡単にあの頃に戻ってしまった。そんな不思議な魅力を持つ君と、もっと話しがしたい。遠く離れた場所に転校して、今はもう時代の先端を走る歌手になっていて、そんな君と俺が再び出会った。こんな奇跡が他にあるだろうか。

 しかし俺の口から出た言葉は、何より先にあのときの言葉を問うものだった。もう一生知ることはないだろうと、ついさっきまで思っていたその疑問を、やっと知ることが出来るのだ。

 彼女はしばし困惑していたようだったが、やがてその顔に最大級の笑顔を浮かべて言った。

「あのときの傘、日傘だったの」

 俺は笑うしかなかった。夜のコンビニで大笑いする男の姿、周囲の人間は露骨に嫌そうな顔をしていた。

―――ああ、そうか。まったく俺って奴は。

 自分の間抜けさが極めつけであったことを自ら嗤い、ふと思い出す。そういえばSUNNYのデビュー曲のタイトルはなんだったかな……。

 そう、たしかこんな名前だった。


『日傘の彼へ』

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日傘の彼へ 深道仁屋 @jin07_sakamine

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