Home,sweet home
光永桜
第1話 Home,sweet home
―今日は電気が灯いている。珍しく午前様じゃなくて、少しでも早く帰れた日のささやかな幸せ。人様はそれくらいで大袈裟だ、というかもしれないが俺にとっては贅沢すぎる幸せ。カチャカチャと音を立てながら鍵を探り、ガチャ、とドアを開ける。
「ただいま」
『あら、おかえり…』
愛しても愛し足りないくらいの、大事な人が二人も待っているあたたかい空間に、今日も何事もなく帰って来られた実感。声を聴くだけでホッとできる存在のありがたさ。
「あれ…」
開口一番に出たのは、落胆の「あれ…」。期待をしながらドアを開け、意気揚々と帰って来たのに。気分もよく、寄り道なんかしないで帰って来たのに。
『今日もね、待ちくたびれて寝ちゃったよ』
…まあ、この状況には慣れてしまったけれど。彼女の返答はなんと言ったらいいのか…テンプレートだ。分かっていても、覚悟をしていても寂しいものはやっぱり寂しい。30を過ぎた男が何を考えているんだか…。
「あのな…」
『わかってるよ“約束”ダメになっちゃったんだよね?』
ニコリと口元は笑いながら、目は悲しそうだ。それは当然だろう。楽しみにしていた“約束”がなくなってしまったのだから。
「ああ、急に仕事で…」
『うん、大丈夫。話したら分かってくれる…心配なんだけどね、あの子、わがままひとつ言わずに頑張って待ってるの。すごいよ。私だったら確実に怒ってるよね』
後半はケラケラと笑いながら明るく話す。彼女は面白い人だ。面白い人と結婚して、家庭を持ったんだなと発言にドキッとさせられたり、笑わせられたり、ハッとさせられたりすることがある。
「そりゃそうだ。じゃあ、埋め合わせは…あいつ、何か欲しいものは…」
嫌だ嫌だ、と駄々をこねたい年頃の彼女は駄々ひとつこねないで、俺の帰り…パパの帰りを待っているのだという。いじらしいというか、何というか…申し訳ない気持ちになる。せめてもの、という形だけでの埋め合わせで何か欲しいものは…と尋ねようとする。しかし…
『欲しいものかあ…あの子ね、パパの顔見たいって言ってるの。ここ何日かしきりにね…』
確かに、考えてみればここ何日か…ずっと顔を見ていないし声も聞けていないな。このままだと、顔を忘れられたりしないだろうか、どんな声だったかとか、姿形をしていたかとか…絶対にないとはわかっていても、グルグル・あわあわ…と頭の中を有り得ないであろう想像が駆け巡る。
「…寂しい思いさせててごめんな」
『いいのいいの。私達のために頑張ってくれてるんだもん、だから私達はサポート役に徹するの』
『…だから“起きている時に”たくさん顔を見せてあげて、それが埋め合わせね』
…なんて優しい、世界一な埋め合わせの方法。ドアをそっと開けると、愛らしい寝顔が見えた。この世の中に恨み辛みもないような、子どもらしい寝顔。それを守るためなら、安いプライドも無駄な嫉妬も捨てられるんだ。
「わかった、必ず守るよ」
この“必ず守るよ”はダブルミーニングなんだよ、と言ったところで伝わらないだろうが…
『あとね…お腹に新しい命がね…』
…さらに守るべきものが増えた、また愛しても愛し足りないほどの愛情を注ぎたいと思える存在が増える。なんて幸せなんだろう。
「本当に?」
『そりゃそうよ、貴方以外と“そういうこと”しないもの。正真正銘、貴方と私の結晶よ。ダイヤモンド?みたいなものかなー…本当、面白いこと言うわねー働きすぎてない?』
くすくすと彼女は笑う。
『次は男の子がいいかなー』
「どうして?」
『貴方に似た、誠実で一緒にいても退屈しない人になってほしいんだ』
「俺は別に誠実とは無縁だし、家族も大切に…」
恵まれた環境とは言えない生い立ちの俺と結婚して、家族になってくれた彼女。いや、しかし…俺のこと、自分で言うのはアレだけど“ベタ褒め”…“ベタ惚れ”しすぎていないか?
『だからね、貴方の名前から少しだけもらって名前を付けたいな』
「きっとそうしたら、幸せになんか…」
『十分幸せよ、少なくとも私達は。貴方はどうなのよ?』
「…幸せだよ、信じられないくらい幸せだよ。手に掴みきれないくらい幸せで、世界一幸せな男だよ…恥ずかしいな…」
そんな照れくさい言葉まで引き出させてしまう“君”は本当にすごい存在だ。…口にしたことに嘘偽りなんかまるでなくて、全部全部本当だ。
“君”に出逢って、自分自身を知って…見えたことも失ったことも確かにたくさんある。でも、無駄だなんて思ったことは一つもないんだ。
疲れながら電車に揺られて、過ぎていく街灯りをただぼんやり眺めながら毎日そんなことを考える。
だから、俺は頑張れるんだ。
Inspired, theme from『愛しても愛し足りない (sang by Fayray)』
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