2 塗りつぶされた百緑
ざしゅさしゅと、片刃が木材の上を滑っていた。木の皮が一枚一枚剥がれ、丸まり、落ちていく。
床を後で掃除しないといけないな、と思う。部屋から人が出ていく際には、従業員が簡単に清掃をするだろうが、これほど木屑まみれの床は少々まずいだろう。渡が汚しているわけではないのだから、無視をしたって構わないけれど、一応同室のよしみというものがある。
それに、昨夜から寝台に座ったままの全く同じ姿勢で彫り物を続ける男を無下にする気にはなれなかった。
ほとんど兄たちからの仕送りで生活している身としては、宿で一人部屋を借りることなどおこがましくてできなかった。当然、借りたのは二人部屋である。
同室となった男は、指物屋だった。
毎年この時期になると、必ずこの部屋に泊まるのだと女将さんが言っていた。川祭りで使用する彫り物を彫っているのだという。髪には白いものが混じり始めていたから、随分と長い「毎年」なのだろう。昨夜遅くに帰った時から終始無言だったが、木と刃の奏でる音は心地良く、子守歌の役割を果たしてくれて渡をあっさり眠りへと引きずり込んだ。
目が覚めた時、あまりの快眠に驚いたほどだった。すぐさまお礼でも言おうかと思ったのだが、あまりにも熱心に指物と向き合っていたため、口を閉ざした。そもそも、渡のために音を響かせていたわけでもあるまい。
代わりに一階へ下りて、女将さんに二人分の食事を用意してもらって部屋へと帰ってきた。常連のお客だから、女将さんも慣れているのだろう。渡には、夏野菜の入った彩りのいい蕎麦粥を、指物屋には片手でも食べられるようなロティと呼ばれる無発酵のパンに、ベーコンなどを挟んだサンドイッチを用意してくれた。
部屋の真ん中にある共用の卓にそれら朝食を置いて、
「リキータ様の名のもと、この豊穣を得られる幸福に感謝します」
と、祈りの言葉を述べて先に食べ始めた。声を掛けて邪魔するのも悪い。それにそんなことをしなくても、指物屋はひとところ彫り終えると、道具を置いて渡の向かいに腰を下ろした。
両手を組み、頭を垂れて「友よ数多の精霊と亡き祖霊を思いて」ときちんと挨拶をしてから、ロティを口に含んだ。
「おまえは、どこから来た」
この町の工芸品である瓶からマグカップへ注いだ乳に、千切ったロティの欠片を浸しながら、指物屋は話し掛けてきた。
「リキータと言ったな。
「いえ、その隣の小国です」
「
リキータ様というのは渡及び、渡の出身地域の人々が信仰する神の名である。大国の蒼衣国と三和坂国の国教だ。渡自身も幼い時からリキータ様を信仰している。
「そうでもないですよ。最近は随分交通網が発達してきましたから。海路の安全性も随分増しましたし」
「海路で来たのか」
意外だったらしく、指物屋は手を止めている。もうこの国にも汽車は通り始めているから、珍しく感じるのだろう。
それにしても、この指物屋はどうやら仕事中でなければ、饒舌らしい。
「はい。時間は少々かかりますが、そちらのが懐に優しいので」
「貧乏学生ってところか?」
学校の夏の長期休暇にあたる時期だから、指物屋はそんな予想を立てたのだろうが、二十七にもなって学生扱いされるのは恥ずかしかった。
「いいえ、これでも一応、画家です」
新人ですけれど。とつけ加える。指物屋はじろじろと観察して、そうは見えないな、とマグカップを煽った。遠慮のない判定に苦笑するしかない。
「しばらくはここにいるのか」
「はい。最低でも、祭りの間は」
「……ま、せいぜい楽しめよ」
指物屋はロティの最後の一欠片を口に放り込んでから、マグカップの中身を全部煽って飲み干し、簡易的な祈りの所作を終えると、寝台に戻って作業を再開した。
物を言わぬ獣になったかのような、まさしく指物へと変わってしまったような寡黙さだ。
渡は集中してしまった指物屋に呆れつつ、同時に羨ましく思いつつ、残りのまだ温かい蕎麦粥を頬張った。
夏に食べる温かい料理もいいと思わせてくれるような、美味しさだった。
そうして朝食を終え、渡は名残惜しくも部屋を出た。本心を言うと、そこでずっと男の手の動きを眺めていたかったが、仕事をしないわけにはいかない。
お婆さんからの依頼は一枚なのだけれど、油絵の絵の具というのは、乾くのに時間がかかる。長ければ、一作に一ヶ月ほどかけることもある。過去には一日で一作描き上げてしまうような天才もいたらしいけれど、それはやっぱり渡とは縁遠い天才の話である。
一介の新人画家は、一作を時間をかけて丹念に描き続けるしかないのだ。
それでも、指定された期間は祭りの間だから、この数日で大方は描き終えてしまいたかった。まあ、寝食を忘れて描けば、不可能ではないだろう。……おそらく、きっと。
そんなちょっとした不安を抱えつつ、渡は昨日と同じ道筋であの石のもとへ向かった。通り道の朝市で昼食用のロティと、押し売りされた小夏、それにラムネを買って、坂道を登っていく。
ラムネの瓶は、ガラス工業の名産地らしく薄緑で半透明に美しい。日の光が当たってきらきらしていた。
玉を落とすと、景気のいい音がした。喉へと降りてくる液体はパチパチと口の中で適度に弾けていく。
今日の仕事も、頑張れそうな気がした。
そうして一人黙々と、絵を描き続けてどのくらい過ぎただろうか。
太陽が頂点に達したのに気づいた頃、一休憩を入れようと石から立ち上がって伸びをした。息を吐くと同時に、西風がじっとりとかいた汗を乾かしてくれる。
集中しきってしまっていたらしく、身体が痛かった。回すと音が鳴る肩を、軽く揉んでほぐす。時間を忘れて絵を描き続けるといつもこうなってしまう。途中で姿勢を変えればいいだけなのに、そんなことはすっかり忘れてしまうのだ。
絵を描いている時は、絵と風景しか目に入らない。
その二つで世界なのだ。
「痛いの?」
振り返ると、立っていたのは六歳くらいと思われる女の子である。つい、昨日の朝顔を連想してしまうような赤い服に身を包んでいて、手には格子模様の刻まれた透き通るガラスの水瓶を持っていた。
そしてなぜか、その水瓶をぎゅっと抱え込んだまま、顔を歪めている。
「痛いの?」
女の子は質問を繰り返した。渡が気にしている肩のことを指しているらしかった。
「え、ええと……まあ、はい」
子どもは好きだが、あまり話したことのない渡は動揺して、咄嗟に敬語で返してしまった。末っ子というのは、こういう時厄介である。適切な対応というものが判断できない。
「大丈夫? ムスビ、手当てしてあげよっか?」
ムスビ、というのはおそらく女の子の名前なのだろう。心配そうに、ムスビちゃんは近付いてくる。
「大丈夫、です。その、えっと、……大丈夫ですから。そんなに痛くないですし」
慌てて取り繕いながら、渡は思考を巡らせる。どうしようか。子どもの気を引けるような物は何も持っていないし、下手をして商品である──それ以前に作品である絵に、指一本触れてほしくなかった。渡の魂と同等の価値がある代物なのだ。
「ほんとに?」
訝しげに問うてくるムスビちゃんに深く深く頷いた。
「本当に、本当ですから」
「だったら、いいんだけど……。ほんとに、痛くなったら言ってね。ムスビは、手当てが得意なんだから! ママにもお兄ちゃんにも、すごいねって、ムスビの手は特別だって褒めてもらってるんだからっ」
誇らしげに胸を張り、手の平を見せつけるムスビちゃんは、なかなかに愛らしかった。ただ、言うべき言葉は見つけられず、黙って微笑んだ。受け答えの下手な大人相手に愛想を尽かすのが普通だろうが、当のムスビちゃんは無邪気にも、渡のほうへ駆けてくる。渡はすぐさま、その進行方向に立ちふさがった。急に通せんぼされたのを不思議に思ったのだろう。ムスビちゃんは首を傾げる。
「どうしたの?」
「この先は、危ないですから。近寄っちゃダメなんです」
絵のこともあるが、すぐそこには崖があるのだ。観光地ではない上に、そもそも人気もないから、当然柵は作られていない。こんな幼い子は足を滑らせたら、簡単に死んでしまう。親は大泣きするだろうし、渡の後味も相当悪くなる。そんな事態は避けたかった。
「とにかく、下がって。こっちにきちゃダメです」
渡の必死さが伝わったのか、ムスビちゃんはあっさりと頷いた。渡はほっとして、広げていた手を下ろした。
「じゃあ、ムスビの手、握ってて。そしたら危なくないよ。大丈夫っ」
「大丈夫じゃないでしょう!」
伸ばされた小さな手を、反射ではたき落としてしまった。
二人はしばし呆然と、その小さな手を見下ろしていた。うっすらと赤くなっていって、見るからに痛々しい。
ムスビちゃんは叩かれた手を凝視して、
「……痛い」
とだけ、ぽつりと呟いた。
そうして大きな瞳から、いくつもの涙が零れ出した。溢れ出すとそれはもう止まらなくて、蹲ってしまったムスビちゃんは痛い痛いと喚くのだった。
渡はもうどうしていいのかさっぱりわからなくて、謝罪を繰り返すばかりだ。摩ってあげようかとも思ったけれど、触れてしまって余計痛がられたらたまったものではない。
かと言って、自身が原因だ。放っておくわけにもいかなかった。近くに跪いて、手を空中で右往左往させることしかできない。懐を漁ったが、涙を拭くために使えそうな布切れ一枚すら出てこなかった。
「ご、ごめんなさい……。僕が悪かったって認めますから、許してください。泣き止んでくださいよ……」
なんと情けない、と自分でも思うが、渡にはどうしようもなかった。兄たちだったら簡単にあやせたのだろうな、と余計なことを考えてしまう。渡には、喜ばせるような菓子を作る腕も、安心させるような言葉を言う口も持ってはいない。
溜息を吐きながら、石の傍に置いた荷物を見遣る。どうせ何もないだろうと思いながらの行動だったが、光に反射するガラスの瓶が渡の目に映った。
それを素早く掴み取った渡は、ムスビちゃんに向かって突き出した。
「これ! ……どうぞ。美味しいですから」
顔を覆っていた小さい手がのけられ、怖々と大きな瞳がこちらを伺った。
「ラムネだ……」
「そう、ラムネ。美味しいですよ」
押しつけるようにその手に握らせる。
ムスビちゃんは、太陽に向かってラムネ瓶をかざす。
半透明の薄緑は、太陽の光を拡散させて、渡たちの上に特別な色を落としていた。
「綺麗」
呟いたのは、ムスビちゃんでなく渡だった。
薄く、世界の色が塗り替えられたような感覚に陥る。
「うん。ムスビ、この色好き」
ムスビちゃんも優しく同意してくれる。
「百緑色って、ところですかね」
「びゃくろくいろ?」
「白っぽい緑のことです」
顔料の元となる
口紅などまだつけていない幼い女の子は、薄桃色の唇を百緑色の容器につけて、ごくりごくりとラムネを飲み下していった。美味しそうに喉を鳴らす様子を見て、やっと渡は肩の力を抜くことができたのだった。
石の傍にある荷物から昼食の入った紙包みを取り出して、祈りを終えて、片方はロティを頬張り、片方はラムネを飲み、ともにのんびりとした昼休憩だ。蝉が煩く鳴くのが、よく聞こえる。暑い夏だ。
汗をかいて服は肌に張りついてしまっているし、喉は渇き切っている。しかし、ムスビちゃんからラムネを奪う気にはなれない。とりあえずは、小夏の果汁で水分補給すれば大丈夫だろう。最悪、ムスビちゃんが水を汲むであろう川で喉を潤せばいい。
ムスビちゃんが抱えていた水瓶は、蹲った時に脇に退けられ、今はそっと傍で控えている。ガラスに刻まれた格子の模様が地面に影絵を作っている。工芸品として売り出されるガラス細工も、多分この地の人々にとっては日常の一つなんだろう。子どもに持たせる水瓶に使ってしまうんだから。
「その絵にも、百緑色があるねっ」
声に促され、顔を上げると、ムスビちゃんは渡の絵を指差していた。その先には、薄緑に塗られた下草があった。まだ下塗りの段階だから薄いままにしてある箇所だ。
「ね、絵描きさんなの?」
「まあ、そんなところですかね」
絵描きさん。優しい子どもじみた響きだ。悪くない。子どもに夢でも与えられそうだ。
「絵を描くって、どんな感じ?」
抽象的な問いに、小夏を剥く手をちょっと止めた。
どんな感じ。一言で伝わる感覚ではないことは、はっきりしている。
しばし空想にふけった渡は、不器用ながらも返答する。
「……届けるって感じ」
「届ける」
舌で転がしてみたが、納得いかなかったのだろう。ムスビちゃんは頬を膨らませた。
それを見た渡は、言葉をつけ加える。
「今、崖の向こうに見えている景色があるでしょう。あの、山々を僕がどう見たかを届けようとしているんです」
「あのおっきい山を?」
「そう。あのおっきい山を」
改めて、遠くに連なっている山の稜線を眺めていると、故郷でよく見た山を思い出した。形も何もかも、全く違うけれど。
渡の故郷は、島国の端にある小さな国だ。隣国の休火山はよく見えるけれど、自国の領土には一切山がない。あるのはせいぜい、小さな丘だ。それも実際は、人工で作られているまがい物でしかない。
そのまがい物の上で、いつだって見える休火山を描くのが好きだった。いつも見えるその景色を残しておきたいと強く思った。
渡に絵の描き方を教えてくれた師匠は、よく言ってた。偽物を描くな。本物を描け、と。本当に目の前の風景があるんだってことを絶対に絶対に忘れちゃいけないと、口を酸っぱくして言っていた。
「写し取るのが、昔から好きだったんです」
鉛筆と紙だけを持って、衝動的に眼前の風景を落とし込んでいく。それが渡にとって最高に楽しい遊びだった。
抽象画を嫌いと思っているわけではないけれど、でも、どうしても、今あるものを描いておきたいと思ってしまう。
多分、どれも日常の些細なものばかりだから、今の時代にとっては何の価値もないのだろう。けれど、時代を経て残った時に、誰かの役にでも立てばいいと願っていた。
自分が遺せるものなんて、たかが知れているけれど──だからこそ、他愛のないものを記録しておきたかった。
「素朴なものを、たくさん描いておきたいと思ったんです。それがいつか誰かに届けばいいと願いながら」
「ふーん」
わかったような、わかっていないような相づちだった。それでいいのだ。信念なんて、誰かと共有する物ではない。だから渡は、独り言のように続けた。
「……その道は、随分と遠いですけれど。師匠のようにはうまくいきません」
師匠の描いた絵のような輝きは、今の渡の絵にはない。
弟子にしてもらっていたからには、その輝きを持てる片鱗くらいは見えていると信じたいところだけれど。
「その師匠は、上手いの?」
「勿論。なんてたって、僕の師匠ですからね」
渡の憧れで、渡の尊敬で、渡の絵そのものだったように思われてならない人だった。家族でも友だちでもないけれど、近くも遠い絶対的な存在だった。
「へー! その人の絵、見てみたいっ! 綺麗な絵、描いてほしい!」
「……見ることはできるかもしれませんが、もう、描くことはできないんです」
「どうして?」
無邪気に首を傾げる姿は、真実を告げる身としてはあまりにも哀れに映った。
「だって、……死んでしまいましたから」
亡くなったのは、つい先日のことだった。
渡が、この町に来るために師匠の家を出立したその日に、亡くなったらしい。
一日目の寝床に決めていた港町の宿の受付で、兄弟子からの電報を受け取って、「シ キミタツヒ シス スクカエレ」の文字を繰り返し、繰り返し目で追った。
「シ キミタツヒ シス スクカエレ」
なんと簡素なのだろうと思った。真っ白な紙に印字されて滲んだ黒。こんな色のないもので、終わってしまうなんて。
そう、思わずにはいられなかった。
窓から零れてくる太陽の光にかざしたら、透けてしまうのではないかと錯覚を起こしそうなほどの薄っぺらい紙っぺら。
向日葵の山吹色、絨毯の乳白色、郵便屋の赤茶色、晴天の群青色。渡の周りは溢れかえるようなほどの色で満ちているのにも関わらず、紙の上は白と黒の二色しか存在しない簡素な世界だった。
そんなものに導かれて、蜻蛉返りするなんて、渡には御免だった。
返電もせずに、宿を早々に飛び出して、午後一番の船便にギリギリで乗り込んだ。港町に残ったままだったら、兄弟子たちが追いかけてきてしまうかもしれないと思った。
船梯子を登ってくるのが自分以外にいないか、船縁に張りついてじっと見張っていた。
碇を上げ、船がゆっくりと岸を離れ始めたことを確認して、渡はやっと息を吐くことができた。
甲板を降りて、共同の広い部屋の片隅を陣取って寝転がった。持ってきた荷を枕に、近くにあった毛布を掛け布団にして、瞼を閉じる。
でも、眠ることはできなかった。
結果的に船旅はほとんど不眠不休の状態だった。
瞼の裏に、黒いインクの文字が刻まれてしまったみたいに、忘れられない。
それが嫌で堪らないくせに、渡は電報を捨てることもできなかった。
受け入れることも拒絶することも満足にはできないのだ。
絵を描き続けたら、自分も師匠のように死んでしまうのだろうか。いや、絵を描かなくたって、死んでしまうのには代わりがない。
……けれど、著名な画家を思うたび、その死がいつも渡の頭に浮かんだ。
精神を病んだ画家、自ら命を絶った画家、そんな例はいくつだって見つけられる。
全員が全員そうじゃないことくらい、渡にだってわかっていた。けれど、やっぱり絵を描くということは──描き続けるということは、狂うことそのものなんじゃないだろうかと、つい思ってしまう。
絵を描き続ける行為というものは、発狂して死ぬのと同義で、画家の人生など、狂って終わりなのだ。どんな名作を描けたとしても、生きているうちに評価されることなどほとんどない。時間を経て、歴史の洗礼を受け、都合良く残ったものが、まるで素晴らしいものであるかのような扱いを受けるのだ。
絵を描くことが狂気であると、ことある事に言っていたのは、それこそ師匠自身だった。師匠もおそらくは、発狂して死んでしまったに違いない。
そんな狂って終わってしまった師匠の姿を見て、どうしろというのだろう。
リキータ様を崇めるいつもの真っ白な空間で、清らかな歌を歌い、真っ白な菊を捧げればいいというのだろうか。それは画家の一生の最期としては、あまりにも虚しい。
世界の色彩を書き写してきた画家が、世界から色を奪われて葬られるなんて、酷すぎやしないだろうか。
「どうしたの?」
その高い声で、はっと渡は現実に引き戻された。
目の中に、多い茂る森の緑が飛び込んできた。それとほとんど同時に、虫の音が耳介を貫く。
辺りを見回して、崖の上にいたということを思い出す。首筋を撫でていく風の暖かさを鬱陶しく感じた。
「ねえ」
続けて呼びかけるムスビちゃんに、渡はやっと視線を合わせて、空々しく微笑んだ。
「もう、帰ったほうがいいですよ」
「……どうして?」
明らかに不満そうだったが、もう渡はムスビちゃんと会話する気はなかった。
「水を早く汲みに行かないと、両親が心配します」
「でも……」
逆接の言葉を口にしたムスビちゃんだったが、頑なな渡の態度と表情に、結局は渋々ながら水瓶を抱え直して去っていった。少し歩くごとに振り返るムスビちゃんへ、渡は軽く手を振った。
「ま、またねー!」
必死に声を張り上げるムスビちゃんを後ろ姿が視界から消えるまで、見送った。
そして消えた途端、湿った息を吐き出した。
軽く目尻を擦って、空を見上げる。
兄弟子たちは今頃、どうしているだろう。渡が帰ってこないことに怒りながら、師匠の葬儀を進めているのだろうか。
目を閉じて、想像する。
棺の中で安らかに眠る師匠を。
白い菊に囲まれて、黒い棺に納められる師匠を。
……やっぱり、どうしても渡には悲痛な光景としか思えなかった。
そんなことをするくらいなら、絵の具をかき集めて色という色に囲まれた状態にすればいいんだ。
絵とともに、葬ってしまえばいいんだ。
そう思ってしまう渡もまた、狂っているのかもしれない。
余計な考えを捨てようと、渡は頭を振った。
石の上に腰掛けて、彩色を再開する。
新しく深緑の絵の具を取り出して、筆の先を彩った。
鮮やかなその色で、容赦なく絵取られていく。
百緑色は、深緑に浸食されて、なくなった。
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