星は川に祈る

雨夜灯火

0 彼方の哀傷歌  1 朝顔の咲く石

0 彼方の哀傷歌


 泣く涙 雨と降らなん 渡り川 水増さりなば帰りくるがに


 泣いた涙よ、雨となって降ってくれ 

 黄泉の川の水が増したなら、きっと帰ってくるだろうから



1 朝顔の咲く石


 とんとんと、軽く踵を板張りの床に当ててから渡は靴紐を結び直した。

 窓の外から、夕市の賑やかな声が聞こえる。抑揚のつけられた横笛の音や低く長い謡が混じっているのは、今日から川祭りだからだろう。これから四日間は亡き人々のための祭りだ。毎夜ごとに出店が現れ、皆で亡き人々の帰還を喜ぶのだ。渡は口の端を緩めた。この国の風習に関する知識は少なからず持ってはいたが、ここまでしっかりしたものに遭遇するのは初めてだった。

 大抵のところでは、近代化が進められてきていて、古きよき祭りは影を潜め始めている。渡の故郷の国でも、そんな伝統の多くが鉄道の運んできた文化によって塗り替えられてしまった。

 横笛の代わりに、金属で作られた縦笛が鳴り響くようになっている。その縦笛の澄んだ音こそ、渡の懐かしい記憶になるのだけれど。

 今頃、母や父はそんな音を聞きながら、リキータ様に祈りを捧げているだろうか。兄たちは休暇を取るために必死で働いている最中だろうか。

 茜に染まった寝台が、幼い頃の羽布団と重なって見えた。

 蕎麦殻の詰まった枕をジャリジャリと父の寝台に叩きつけて、復活祭に行きたいと駄々を捏ねた。すまなさそうに身を縮める父と、むっとして怒る母の態度があの頃はわからなかったが、多分あまりお金がなかったのだろう。

 屋根裏に無理矢理作られた部屋に子ども三人が詰め込まれていたことからも、それは察せられる。兄たち二人はきっと、そのあたりの事情がわかっていたのだ。渡が何かにつけて泣きそうになるたびに、まあまあと各々の方法で慰めてくれたのだった。上の兄は、代わりに石榴を使った焼き菓子を用意してくれた。下の兄は、いつかもっと大きな祭りに連れて行ってやると豪語してくれた。

 どちらも、大好きで大事な兄である。感謝の気持ちは年々強まる一方だ。

 絵の道に進むことを応援してくれたのも、兄たちだった。父と母は、あまりいい顔をしなかったが、二人の兄は味方となって説得を手伝ってくれた。そのおかげで、今の渡があった。

 そんな親不孝な渡とは対称的に、二人の兄は孝行息子であった。

 上の兄は店を継いで立派に料理人として働いているし、下の兄は新聞記者となって熱心に働いている。おかげで星合家は随分潤うようになった。それを結局、渡一人で食い潰しているわけなのだけれど。

 いっそ、蕎麦殻を鳴らしている幼い頃のほうが迷惑をかけていなかったのかもしれない。

 客引きの高い声が、窓を揺らした。

 思い出を壊さぬように寝台から立ち上がって、画材一式と少しの小銭を持ち、部屋を出た。古びた鍵を何とか回して、階段を下りていると、踊り場で階段を駆け上る娘とすれ違った。

 思わず、立ち止まる。

 ひらりと舞った鮮やかな朱色の帯に目を奪われたのだ。おそらく、祭り用の装束なのだろう。桃色のきっちりとしたワンピースは足首ほどまでの長さを持ちながら、縦に長い切り込みが入っていて、ゆったりとした灰色のズボンが見えていた。そしてその桃と灰を引き締めるような朱は、まるで熟し切った果実のような新鮮さがあった。呆然と目で追う渡を余所に、おそらく忘れ物でもしたであろう娘は、慌ただしげに去っていく。その顔に浮かぶ楽しそうな表情に少し嬉しくなった。この宿には自分のように旅先の祭りにはしゃぐ人というのもいるらしい。

 階段下には娘を待っているらしき男が落ち着きなく指で受付台を叩いていた。その奧で男の様子をおかしそうに眺めている受付係の女性に鍵を預けて宿を出ると、娘のように着飾った人々が通りに溢れていた。

 ちょっと気後れするぐらいの人混みである。渡は苦笑しながら、辺りを見回す。家という家から全て人が出払ってもここまでにはならないのではないだろうかと思うほど、人が密集している。

「お客さん、お出かけですか?」

 声のしたほうに目をやると、女将さんが柄入りの提灯を下げているところだった。頷いてみせながら、予想以上の人で驚いてしまいましたと告げると笑い飛ばされた。

「そりゃ、川祭りの初日ですからねぇ。初めて回るなら気をつけたほうがいいよ。流れに乗って森のほうまで連れて行かれないように。迎え火を焚いているからね、いろんなやつがあやまって紛れこんじまうからさっ」

「……気をつけます」

 女将さんの言うとおり、足元では焙烙ほうろくの上のおがらが橙に燃えている。軽く頭を下げてから、そっと人の流れに乗り始めた。

 道の左右で商人が声を張り上げている。通り過ぎる際に店先を眺めると、繊細なガラス細工や香ばしい焼き菓子が並べられている。さきほどの娘が着ていたような装束もたくさん吊してあった。商人曰く、アイータと呼ぶらしい。ぴったりとした上半身とゆったりとした下半身の対称的な雰囲気が特徴だそうだ。昔は藍色のものが多かったようで、端のほうには藍や紺のものが置かれていた。だが、今は若者の好む鮮やかな色が主流らしく、桃色や緑色が店の大半を占めていた。帯の柄も、季節の花々や水面を象ったものも多い。それらの柄の鞄や帽子を身につけている人は、ちらほらと見つけることができた。一人一人の個性的で斬新な色彩の組み合わせに感心するが、今度は歩を止めることはない。

 ここには、仕事をしにきているのだ。遊びではない。

 宿への到着が予想より遅くなってしまって、もう日が暮れだしてしまっている。急がなければならない。今回の注文は、ちょっと変わっていた。仕事を請け負うようになってからそんなに月日は経っていないが、少なくとも渡は初めてだった──時間と場所を決めた上で、好きに描いてくれと言われたのは。

 注文者はとうに六十を過ぎたお婆さんである。おそらく、思い出の場所なのだろう。懐かしそうに、安楽椅子を揺らして頼み込んできた。報酬は弾ませるわと言ってくれたので、新人画家としては断るという選択などできるはずもなく、二つ返事で引き受けた。

 当然のように不安も胸中にある。満足のいく絵を描けるかどうか自信がない。お婆さんは過去作を見た上で、渡に頼んでいるのだから、好きに描いてしまったってきっと大丈夫なのだろうけれど、せっかくならお婆さんが真に望んでいるものを描いてみせたかった。

 注文者の意を最大限に汲み取って絵にすることが自らの仕事だと心得ている。

 筆で、鉛筆で、注文者の心の奥底にあるものを浮かび上がらせるような、期待以上の仕事をすることが使命なのだ。

 それができなければ次の注文がやってくるはずもない。個人事業の辛いところであるが、やりがいとなっている部分でもある。幸いにして、この先も仕事の予定はぽつぽつと入っている。個人で出展したい絵の制作期間も含めると、十分だと言えよう。この状況がずっと続けばいいのだけれど、それはまあ、これからの仕事次第というところである。

 足元が石畳から土に変わった頃、道の先に大きな篝火が見えた。夕暮れを背景に、炎が赤々と燃えさかっている。その周りをアイータを着た子どもらがくるくると踊っていた。近くで太鼓を打ち鳴らすのに合わせて、手拍子をしながらゆったりと踊っている。子どもの親らしき人たちが周囲で眺めている様子が夕景色に溶けていた。

 少し目を細めつつ、渡は脇をすり抜ける。目的地はこの篝火より更に先だった。女将さんに注意された森の方角だ。広葉樹の縁が沈んでいく太陽のおかげで強い光を放っている。日の入りまでそう時間もなさそうだ。渡は森へ続く坂道を早足で登り始めた。ここまでくると、集団を避けて上から篝火を見ようとする人たちが何人かいるくらいである。つられて渡も後ろを振り返った。

 土も人も全てが緋色に染まり、踊っている子どもたちの影が篝火で細長く不安定に揺れ動いている。渡が歩いてきた道も徐々に緋色になってきていた。宿で聞こえていた笛や謡が耳元で鳴っているような心地がした。遠くの空は、薄暗い青を持ち始めている。

 そっとしゃがみ込んで、紙と鉛筆を取り出した。急いでいるとはいえ、色もつけない写生ぐらいなら大丈夫だろう。鉛筆で距離を計って、目の前の様子を描き留めていく。こういう風景画は時間との勝負である。周囲に目を走らせつつ、手を動かすことは止めない。夕という時間はいつだって酷く短い。黒一色で描き切るのが精一杯だ。それでもこの黒の中にあの緋色やあの青色が映り込むように祈りながら、鉛筆の音を響かせた。

 なんとか満足のいくものができあがった頃には、日の光の大部分を背後の広葉樹が遮ってしまっていた。それに気がついたのは、絵と風景を見比べていた時である。手元の暗さにおかしさを覚えて振り返ると、木立の隙間から太陽が今にも沈みそうであった。渡は慌てて荷物を抱えて、走り出した。

 お婆さんに指定されたのは、日が沈んですぐの時間なのである。足元の悪さをもどかしく思いながら、地を強く蹴る。森の入り口はすぐに見えてきた。渡は忙しなく辺りを見回した。目印として教えてもらったのは、大きな石だ。楕円形の座るのに手頃な石が一つ、森の入り口に置いてあるのだという。その石の傍で、宵の口を描いてほしいのだそうだ。

 だが、登ってきた近くに座れそうな石など一つもない。せいぜい、手中に収めるのにちょうどいい小石が転がっているくらいである。場所を間違えたのだとしたら大変だ。登ってきた道の左右に目を走らせるけれど、それらしきものはやはりない。背の低い野草が青々と萌えているだけである。はやる気持ちを抑えつけながら、森を左手に臨む状態で歩み、辺りに目を配る。お婆さんの言う通りにまっすぐ登ってきたつもりだが、間違っている可能性もある。確か、人気のない場所だと言っていたはずなのだけれど。

 日が沈んでしまわないか、西の空を確認しつつ、渡は小走りに進んでいった。

 それから、もしや逆方向だったのではと不安になるくらい行った先で、渡はその石を見つけた。すべすべと丸いその石は言葉通り、座るのに適してそうだった。斜め前あたりはちょうど崖になっていて、景色を眺めるのにいい場所だろう。

 実際、一人の女が石の上に腰掛けて、暗くなっていく町を見下ろしていた。彼女は黒髪をくるりと結い上げて朝顔の簪で団子にしていたが、雑なために送り毛が何本も落ちている。それを時折、すくい上げて耳にかける作業を幾度も繰り返していた。白い指先が動くたびに簪の朝顔が揺れて、微かに残っている日の光が反射される。

 憎らしいほど美しい、白縹の朝顔だった。

 白さを持った柔らかい青が由来の露草の如く、繊細に輝いていた。

 彼女の着ているアイータも同色の白縹で、柄もむらもなく染め抜かれていた。慎ましやかに結ばれた帯は絹のように清らかだ。それらの衣服の端から覗く肌はまさしく陶器のようで、手首も足首も首筋も、首と名のつくところ全てが壊れ物のように透明で繊細だった。

 汗一つ浮かんでいない。先程まで走っていて汗だくになっている渡が例外だとしても、真夏の時期だ。一粒も浮かんでいないのは、少し奇妙だった。

「迷子にでも、なった?」

 彼女は首を傾げて、不思議そうに渡を見た。

「い、いえ……ちょっと、その、絵を描かなくてはいけなくて」

 たどたどしく話す渡に彼女は目を眇め、やがて興味をなくしたように視線を崖の下に戻した。小さな家々が、蜜柑色から紫芋色に変わっていく。その境界をつくるように葡萄色の川が流れて、元を辿ると小松菜色の山がある。その上に広がる空に小夏色の月が見えた。小さくふっくらとしているところまでそっくりで、真ん丸まではあと少しといっただろう。

 西風が渡と彼女の毛先を弄んで去っていった。

「絵に描くなら……、ここから眺める景色がいい」

 中空に向かって呟かれたものだから、最初は渡に向けられた言葉だということがわからなかった。

「座ったら?」

 石の上を少しずれて場所を空けた彼女の意図が掴みきれずに様子を伺っていると、呆れたような視線を向けられた。渡は恐る恐るそこへ腰を下ろす。彼女はうんともすんとも言わなかった。

 どうしようかと思ったが、ついに日は沈む寸前である。迷っている暇はなかった。渡は折りたたみ式の画架に麻布を止めた画板を立てかけて、木炭でざっくりとした下描きを始めた。大まかな全体の雰囲気を落とし込んでいく。

 渡の作業をちらりと覗いた彼女は、ちっとも面白くなさそうな顔をしているのに、目を逸らそうとはしなかった。

「あの、そんなにじっと、見つめないでくれませんか?」

「集中できない?」

「え、ええ……」

 頷いたにもかかわらず、彼女は頬杖をついたまま、じっと絵を見ている。

 何を言っても、彼女には通じないようだった。仕方ない。渡は溜息を吐いて、意識を眼前の景色に集中させた。

 大まかな輪郭を取り、大胆に影を描き込んでいく。逆光のせいで、すぐに画面は灰色になっていく。

 山の稜線、雲の輪郭、川の蛇行、家の凹凸、月の円。それらを木炭一つで浮かび上がらせていく。

 夜に染まっていく景色の中で、一番目を引くのは真っ白な棘だった。町の中心辺りに、棘のように先の尖った塔があった。まるで日時計のように、影を落としている。気づけばその影も大分長い。

 背後を振り返って見る。

 太陽の面影が微かな山吹色として空に残っているだけだった。

「終わった?」

 手が止まったのを訝しんだのだろう。彼女は上目遣いで尋ねた。渡は瞬きをしてから、……半分くらい、と答える。

「半分、ね」

 と、彼女は呟いて、やっと絵から風景に視線を移した。

 本当は準備段階が半分くらいという意味だったのだが、凝視しないでくれるならそれがいい。渡は肩の力を抜いて、絵の具の準備を始める。

 使う色をざっと並べ、油壺を用意する。使い古している板を取り出して、その上で色と油を混ぜ合わせていくと、艶々とした飴色が筆先を彩る。

「あんた、好きな色ってあるの?」

「好きな色、ですか?」

 彼女は、やはりというべきか、渡を見ていなかった。落ちてきた後れ毛を指先でいじっている。

 だから渡も、筆先を見下ろしながら言った。

「……白縹です」

 それ以外、言うべき色はなかった。

 あの、ささやかな色は、他の何よりも尊い。

 露草という刹那の花からのほんの一欠片で染められたそれは、水で途端に褪せてしまうほどに脆く弱い。

 本当に、繊細で儚い。

 色のない白に申し訳程度についたそれは、渡にとって他のどの色よりも特別な、一色だ。

「私は、赤が好き」

 しかしその白縹を纏う彼女は、渡の感傷など無視をして、まったく違う色を上げてみせた。

「強い赤が好き。真っ赤に染まった赤が好き。赤く赤く彩られた赤が好き。それこそ紅葉こうようのように、それこそ太陽のように、赤々とした赤が好き。赤よりも赤い赤が好き。朱でもくれないでもない赤が好き。何よりも赤らしく美しい赤が好き」

 彼女は一息でそれを言ってのけた。

「好きで、堪らないの」

 思いが溢れて止まらないとでもいうように、息をつく。

「だって、ほら、赤は魔除けの色だから」

 その唇は確かに、毒々しいほどの赤で煌めいていた。

 膝の上にはいつの間にか、言葉通りに魔除けとなる丹色の風呂敷が広がっている。

 そこには何も置かれていない。それなのに、見えない何かを大切に包み込むように、柔らかく風呂敷を結ぶと、彼女はすくりと立ち上がってしまった。

「もう、行ってしまうんですか」

「連れて帰らないといけないから」

 彼女は端的に告げて、坂道を下り始める。

 つい、呼び止めてしまった。振り返った彼女に向かって、緊張で声を震わせながらも尋ねる。

「名は? 何というんですか?」

 すると、鈴を転がすよう笑われた。

「うーん。……朝顔でいい?」

 笑いやんだのちの投げやりな答えに、どう返答すべきか少々迷ってしまった。そのうちに、彼女──朝顔はすたすたと去っていってしまう。

 今度は、呼び止めなかった。

 後ろ姿をぼんやりと見送る。

 果たして、朝顔は気がついていただろうか。

 渡が好きだと言った白縹が──それに類するような色さえも、並べられた絵の具の中に、たったの一つもなかったことに。

 見上げた空は、白縹などとっくに通り越して、濃い青へと姿を変えている。ところどころ、星たちも瞬き始めていた。

 渡はしばらくの間、筆を止めて、朝顔が歩いていった野道を、じっと見つめていた。

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