65匹目 【少女編】異世界への別れ
カジと呼ばれる男によって、私たちの生活はかなり改善された。
それでも、おっさんの前で触手を纏わなければいけないことは度々あった。冷たい粘液の感触が気持ち悪い。
しかし今回からは、纏った後に大浴場で粘液を落とすことを許されるようになった。多少粘液で汚れても後でしっかり洗い流せる――そう考えると気持ちが楽だ。温かいシャワーが心地いい。触手への抵抗は徐々に減っていく。体を洗う作業にはカジの助手、ニルニィと、悪魔みたいな姿をした女性、ルーシーさんが手伝ってくれた。
どうやら、私たちを丁重に扱ってくれる人物は意外にもたくさんいるようだ。
ニルニィが私をこっそり外へ連れ出して髪留めを買ってくれたこともあった。綺麗な翡翠の石で作られたものだ。友好の証として送ってくれたものだと思う。
それから、クリスティーナさんという女性も一緒に住まうようになった。どうやら敵国の捕虜らしい。美人でナイスバディな女性。その割りに筋肉もすごくて、難しそうな筋力トレーニングも易々とこなす。私たち全員はそんな彼女の魅力に憧れていたと思う。
彼女とは一緒に食事をしたり、ストレッチをしたりして過ごした。彼女たちとは話す言語が違うためにコミュニケーションはなかなかうまくいかないが、それなりに楽しかった。
それでも、たまに自分が元々いた世界のことが恋しくなることもある。そんなとき、ニルニィやクリスティーナさんはそれに気付いて私を抱き締めてくれた。とても温かい。私は彼女たちに何度も助けられた。
カジの仕事場にいるとき、私は彼の所有する本を読んで過ごす。モンスターの図鑑らしき本。文字はあまり読めないが、絵だけでも十分楽しめる。彼の書いた本だろうか。
それ以外にも、人間観察で時間を潰したことがあった。観察対象は仕事場によくいるメンバー、カジ、ニルニィ、それからクリスティーナさん。
その中で特に気になったのは、カジとクリスティーナさんの関係。
多分、彼らは両想い状態にある。顔を合わせるとき、表情や背筋の動きからして互いに緊張しているようだ。そうだよね、カジは優しいし、クリスティーナさんは美人だもんね。お似合いのカップルだと思う。
* * *
そんなある日、クリスティーナさんは突然姿を消した。
あのギルダとかいう男がカジの仕事場を訪ねてきたのだ。それも、カジとニルニィちゃんが留守中に。
彼は引き連れていた部下にクリスティーナさんの体を無理矢理に押さえ付けさせると、彼女に向かって呪文のようなものを唱え始める。その詠唱が終わると同時に、クリスティーナさんの様子は一変していた。顔に血の気がない。腕に力が篭っていない。まるで疲れ果てた人間のようだ。ギルダは彼女をどこかに連れて行く。
私たちは仕事場の奥にある寝床に隠れてそれを見ていた。見ていることしかできなかった。
彼女を助けたいと思った。
でも、体が動かない。
ギルダによって刻み込まれた被虐の記憶が蘇る。
私たち全員、息を殺し、ずっとそこに潜んでいた。
* * *
カジとニルニィが戻ってきても、彼女を助けられなかったことについて私たちが責められることはなかった。むしろ、無事だったことを喜んでくれた。
でも、カジの目つきは変化していた。
憤怒に満ちた目。
ギルダにクリスティーナさんを奪われたことに怒っているのだろう。
私たちは、そのとき初めて彼のことを「恐い」と感じた。
これまで彼が見せてきた表情とは違う。殺意の篭った瞳。それがどこか遠くを見つめていた。
* * *
数日後、カジとニルニィちゃんはおめかしして出かけた。
私たちに仕事場へバリケードを作るよう指示してから――。
おそらく、ギルダという人物と決着をつけるつもりなのだろう。
私たちは彼らの無事を祈りながら、仕事場の奥に息を潜める。
どうか、何事もなく帰ってきますように――。
* * *
そして、カジとニルニィちゃんは帰ってきた。
私たちは彼らの姿を確認すると、急いでバリケードを内側から解体する。
彼らには多少の切り傷や打撲痕があったが、どれも重傷ではない。私たちは抱き合って彼らの帰還を喜んだ。
「おかえりなさい!」
* * *
彼らが帰ってくると同時に、私たちにあるものが手渡された。
それは――
「あ、学校の制服……」
私たちがこの世界へ召喚された当時に身に着けていた制服。紺色のブレザーにネクタイ、スカート。ギルダの仲間によって剥がされたものだが、まだどこかに保存されていたらしい。この制服を見たのは随分昔のような気がする。
「これに着替えて、ってことなの?」
私たちはそれに着替え終わると、カジとニルニィによってどこかへ案内された。
城の中を彼らとともに歩き、到着したのは広い部屋――。
「何これ、魔法陣?」
そこにあったのは床一面に描かれた巨大な魔法陣。
それの横に、顔面が血だらけのギルダらしき人物がいる。顔が変形していて一瞬誰だか分からなかったが、髪色からして彼だろう。首のない鎧に押さえ付けられ、身動きが取れない状態にある。
「ここの魔法陣に乗れ、ってこと?」
カジが魔法陣に手を向ける。
ここで私は察知した。学校の制服が返された理由を――。
「まさか、元の世界に帰れるの?」
この魔法陣は、私たちを元の世界に帰すために作成されたもの――そう直感した。制服を返されたのも、私たちが召喚された当時の状況に戻すため。
それは突然の別れだった。この世界と、カジたちとの――。
「そんな……いきなりすぎるよ」
元の世界に帰りたい。何度も何度も願ったことだ。
でも、私たちの心は複雑だった。夢が叶う嬉しさと、カジたちと別れる寂しさ。それが入り混じり、つい魔法陣の上に乗ることを躊躇ってしまう。
しかし――
「でも、帰らなきゃいけないよね……」
「うん……」
向こうの世界には家族もいる、友達もいる。
きっと心配しているだろう。
私たちは意を決して、一歩ずつゆっくりと魔法陣に足を踏み入れていく。私たち全員が上に乗り、魔法陣が光り出した。
「さよなら、カジさん、ニルニィちゃん」
魔法陣のすぐ傍で、カジとニルニィちゃんが手を振っていた。カジは私たちに微笑みながら、ニルニィちゃんは泣きながら――。
「ありがとう――」
そして魔法陣の光が強さを増し、私たちの視界は白一色に染まっていった。
* * *
救急車のサイレンで目が覚める。
気が付けば、私たちは道路の真ん中に寝転がっていた。体を起こして周囲を見渡すと、見覚えのある景色が広がっている。高校への通学路だ。すごく懐かしい。
ちゃんと元の世界に戻れたのだ。
それから、すぐに警察官やらマスコミやらが駆け付けてきた。
この世界で、私たちは何ヶ月も行方不明状態になっていたらしい。多くの記者からたくさんの取材を受けた。しかし、覚えていることを話したって、誰も信じてはくれない。当然だろう。
結局、これは誘拐事件として処理され、逮捕されたのは一緒に異世界から戻ってきたおっさん、
別に、異世界での出来事を誰も信じてくれなくてもよかった。
私たちの心にはカジたちの存在がしっかりと残っている。
ニルニィちゃんが買ってくれた翡翠色の髪留め。それが私たちの体験の証拠だった。
今はそれを大事に身に着けて大学生活を送っている。
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