第2話
フランツの事件から9ヶ月が過ぎた6月、初夏の村から、まだジェヴォーダンの獣の脅威は去っていなかった。
庭にうずたかく積まれた穀物袋の前に座り、修繕の仕事を手伝っていたアンヌが、小道を歩いてくる人影を認めた。
背中に猟銃を担ぎ、右足を引きずりながら登ってくる髭をたたえた顔に、アンヌは両手で口を抑えて立ち上がる。
「……お父様!」
庭の柵を開き転がるように駆け出したアンヌは、父ジャンの胸元へ飛びついた。
「おかえりなさい! お父様!」
ジャンは優しく微笑み、アンヌの頭をなでたが、その目は複雑な表情で2人を見つめるマリアへと向けられ、すぐに真剣な表情にもどった。
アンヌに手を引かれ、家に招き入れられそうになったジャンは、顔だけをマリアに向けて口だけを動かし「いいのか?」と尋ねる。
一瞬の間を置くと、マリアはそれに「おかえりなさい、あなた」と、困ったような笑顔で答えた。
初夏と言っても、山地のこの村は夜になればまだ肌寒い。
はしゃぎ疲れて眠ったアンヌをベッドに運ぶと、ジャンは暖炉の前の椅子に腰を下ろし、マリアの運んできた温めたワインを口に運んだ。
「今回の山狩りは大規模な物になる」
暖炉の火を見つめながら、ジャンは隣の椅子に腰掛けたマリアに口を開く。
「陛下の勅による山狩りだ。武功を立てれば叙爵される。荘園の管理程度ならば、この俺の役立たずな足でも家族を守ることも出来るだろう」
長い沈黙が流れ、パチパチと爆ぜる薪の音だけが耳に届く。
「……もしお前たちが許してくれるなら」
「あなたは……」
意を決して口を開きかけたジャンの言葉を遮るようにマリアが言葉をかぶせる。
「あなたは……アンヌの英雄で……大好きな父親です。私の夫もあなたしか居ません。……あなたは……」
マリアが立ち上がり、ジャンを後ろから椅子ごと抱きしめる。
「あなたは何でも自分だけで決めてしまうのに、どうしてそんな事だけ私たちに相談するのですか? 私たちが家族でなくなったことなど一度もありません。……おかえりなさい、あなた」
ジャンは首に回されたマリアの手を握ると、ふり返り、くちづけを交わした。
次の日の昼には、村長の家の前に急遽作られた宿営地に、続々と山狩りに参加する志願者たちが集まってきていた。
片時も父のもとを離れたがらないアンヌを連れて、ジャンも登録へ向かう。
身分で割り振られたのだろう、同じ班の3人のゴロツキのような男たちに言葉少なく挨拶を済ませると、2人はすぐに帰路についた。
そのジャンの背後に大声で噂するゴロツキ達の声が無遠慮に投げつけられる。
「おいおい、まさか『カカシのジャン』と組まされるとはな」
「あいつは金さえ貰えりゃ誰とでも組むからな」
「ジェヴォーダンの獣に買収されて後ろから撃たれないように気をつけねぇとな」
その悪意ある言葉に、カッとなったアンヌが言い返そうとするのをジャンは優しく制し「明日からよろしく頼む」と、もう一度挨拶をすると、そのまま何事もなかったかのように家へと戻った。
ジャンの周りであれこれと世話を焼きながら、やはりアンヌは片時も父のもとを離れることはなかった。
「お父様が獣を追い払ったら、また一緒に暮らせるのですか?」
「うむ、……追い払っただけではダメだろうな」
銃弾を一つ一つ調べてテーブルに並べながら、ジャンは応える。
「ジェヴォーダンの獣は女子供ばかりを襲う悪魔のような野獣だ。仲間の狼を引き連れていると言う話もあるから、全ては難しいかもしれんが、とにかく獣にはとどめを刺さねばならない。そうでないと、いつお前たちが襲われるかも分からんし、父さんも安心できないよ」
父の言葉を聞き、アンヌの顔は曇る。
「とどめを……そうなのですか……?」
「ん? どうしたのだ?」
「獣は……お父様の悪口を言う嫌な人の事しか襲っていません。フランツだってソレアおば様だって、街から来た隊商の子供たちだってそうです。ひどい噂を流してお父様の事を意味もなく暴れる悪人のように言う悪魔の様な人たちです。お父様が獣を追い払って、皆がお父様の嘘の噂を信じないようになれば、獣はもう現れないと思います」
真剣な娘の言葉に、ジャンは嫌な予感を覚える。
「……アンヌ、何か知っているのか?」
「……いえ、なんでもありません」
ハッとして言葉を濁すアンヌを見つめ、ジャンは銃を置く。
「父さんが悪く言われていたのは、父さん自身に問題があったからなんだよ。子供たちは大人たちの噂をただ真似ていただけだし、大人だってお前と母さんの事を心配して言っていただけだ。お前に嫌な思いをさせてすまなかったね。でも人を憎むのはやめておくれ。死んでいい人間など居ないのだ」
優しくアンヌの手を取り、頭を下げる。
「……だって……でも……はい……。いいえ、お父様。私は人を憎んでいません。あの人達は悪魔です。悪魔に心を奪われていたんです。……だから神様の使いに罰を与えられたんです」
沢山の思いが心に溢れたのだろう、涙ぐんだアンヌは父の手から身を引くと、そのまま家の外へ駆け出していった。
アンヌと入れ違いにマリアが洗濯物を抱えて家に入る。
「あなた、アンヌが外に走って行きましたけど、何かありましたか?」
ほんの僅か考えを巡らせたジャンは、逆にマリアへ問いかける。
「……マリア、獣の出現以降、アンヌに変わったことはないか?アンヌが……獣と関わっているようなことは?」
不意を打たれたマリアの手から、真っ白なワンピースが滑り落ちる。
慌てて娘のお気に入りの服を拾い上げ、愛おしむように抱きかかえると、マリアは泣き崩れた。
森の木々の間をアンヌは駆ける。
(お父様!)
国のため、国に住む全ての人々のため、勇敢に戦い、そして右足に一生治らない傷を負って帰って来た日の、力なく笑う父の顔が頭を過る。
(お母様!)
父の居ない家のために、どんな仕事でもこなし、家事にも一切手を抜かずに自分を育ててくれた気丈な母が、夜中に父の名を叫んでうなされた夜を思い出す。
(お父様もお母様も悪くない。……悪いのは……お父様の悪口を言ってお父様を貶め、お母様を悲しませる……あいつらだわ!)
いつの間にか、森の木々はアンヌを避けて、後方へと唸りを上げて飛んでいくようになった。
アンヌの鼻に悪意と暴力と卑屈さと安酒の匂いがひくひくと漂ってくる。
(あの男たちが……)
(アイツラガ……イル)
漆黒の殺意が真紅の衝動となり、体中を駆け巡る。
銀色の髪をなびかせ、四足で駆け抜けるアンヌは、まるで力強く一筆で描かれた一本の線のように森を突き抜けた。
森から現れたのは全身美しい銀色の毛に覆われた、まるで熟練の銀細工師が作り上げた最高傑作のような、巨大な狼だった。
太陽の光に照らされ、体毛が輝く。
黒い鼻がわずかに動き、目的のテントを一瞬で見つける。
青味がかった水晶のような透明な瞳がスッと細められ、黒い裂け目のような口から真っ白い剣のような牙が覗く。
(お父様をっ! 許さない!)
(カミノ……サバキヲ……!)
チリチリと身を焦がすような衝動にかられて、狼は身を躍らせた。
森を抜けた丘陵に広がる宿営地には殆ど人は居なかった。
ほとんどの人は装備を整えに出かけるか、村の猟師たちから情報をもらいに行っている。
ここに残っているのは、朝にジャンを貶めたあのゴロツキたちを含め、昼間から酒を飲んでいる僅か数人だけだった。
巨大な狼は音も無くテントに近づくと、テントごと一人目の男を前足でなぎ払う。男はくぐもった悲鳴を上げ、テントに巻き取られるように5m程も転がっていった。
驚いて仰向けに倒れた二人目の男の胸を船のフックのような鉤爪が並んだ前足で踏みつけると、男は骨からゴキゴキと妙な音をだし、口からは「ひゅー」と言う滑稽な声を漏らした。
三人目の男が「神よっ! 救い給え!」と叫び、銃を拾う。
狼は足の下の男をそのまま蹴り飛ばして突進すると、銃を持つ腕に牙を立てた。
母が作ってくれたお菓子のように男の腕が柔らかく折れ曲がり、街の鍛冶屋で嗅いだことの有る焼けた鉄の匂いが口の中に充満する。
テントに絡まりもがく一人目の男を振り返った狼の頭を、鉛の銃弾が掠めた。
周りには、騒ぎを聞きつけた数人の男と、近くに居た村の猟師が集まっていた。
「獣だ! ジェヴォーダンの獣が出たぞ!」
銃声と騒ぎを聞きつけ、銃を持った人々が集まって来るのも遠くに見え始める。
何発かの銃弾が放たれ、鉛の弾が狼の体にめり込んだ。
(どうして!? 悪いのはこの男たちなのに!)
(タイサン……スル)
ようやく立ち上がった一人目の男の頭を蹴り飛ばし、狼は森の中へと逃げこむ。
その背中に、更に何発かの銃弾が打ち込まれたが、狼は倒れること無く森へ消えていった。
「……フランツの時も、ソレアおばさんの時も、獣が現れる時、あの子はいつも私の前から居なくなって……。亡くなった人たちは皆あの子にあなたの悪口を聞かせた人ばかりです……。あの子は……悪魔に魅入られてでも居るのかしら?!」
娘のワンピースに顔をうずめながら、マリアは今まで心に留めていた想いをジャンに語る。
人を殺すなどと言う罪を犯せるような娘ではないとマリアは信じている。しかし、状況が揃いすぎていた。
「まさか……な……」
信じたくないジャンは首を振り、銃弾を仕舞う。
「アンヌはしっかりした子だ。悪魔など……いや、大丈夫だ……」
「でもあの子は父親の……あなたの事になると、とても頑なで感情に任せて動いてしまうんです。あなたのことが大好きだから……」
「……違う、アンヌが過剰に反応するのは、俺の悪いうわさを聴いてお前が悲しむからだ。お前のことが大切なんだよ」
二人は口をつぐみ、娘のことを想った。
「……とにかく俺たちが信じてやるしか無い。この事は誰にも言わないことだ」
押し黙る二人の耳に、遠くから銃声が響いた。
ジャンは黙ったまま銃を手に表へ飛び出す。
立て続けに銃声がこだました。
「宿営地の方からだ。お前は家に入っていなさい」
「でも、アンヌが!」
「わかっている。俺が見つける」
ジャンには心当たりが有るわけでもなかったが、妻を押しとどめるにはそう言うしか無かった。
銃を持ち、不格好に右足を引きずりながらジャンは道ではなく森へと分け入ってゆく。
怪我をする前、戦争のない時には猟師の真似事もしてきた。
この森には宿営地の方へ真っ直ぐに向かう、人間の使わない獣道が有ることをジャンは知っていた。
そう言えば小さい頃にアンヌと散歩したこともあったなと、妙に冷静に昔のことを思い出しながら、獣道を急いで進む。
宿営地の方からは更に数発の銃声が鳴り響いて来ていた。
森を3分の1ほど進んだ所で、ジャンは道の反対側から何かが近づいてくるのを感じた。
息を整え、片膝をつき、祈りを捧げるような姿勢でそっと銃を構える。
獣道の隙間から銀色の巨大な狼が迫ってくるのが視界に入るのと、血を吐き出した狼が前のめりに倒れ、体が地面につく直前に銀髪の娘の姿に変わるのがほぼ同時だった。
自分の見た光景のあまりの衝撃に引き金も引けずに固まっていたジャンだったが、ハッと気付いて慌てて娘に駆け寄る。
娘は背中と足に数発の銃弾を受けていたが、幸い弾は抜けていた。
娘を抱え、獣道を追ってくる狩猟団の声が聞こえてきたのを確認すると、ジャンは空中に向けて3発、銃を撃つ。
「おーい! ここだー!」
ジャンの声に、狼を追いかけてきた狩猟団がジャンの元へと集まった。
集まってきた狩猟団に「狼には山の方に逃げられた。北へ向かったが、風のように消えてしまった。それから、森で遊んでいた娘が狼に襲われた、俺は一度家に戻る」と言い残し、ジャンはアンヌを肩に担いで家へ急いで戻った。
この村には医者は居らず、居たとしても医者などに子供の治療を頼む気は全く無かった。長年の戦争の経験上、従軍医師に治療を受けた者の方が死ぬ確率が高かったし、弾さえ抜けていれば、清潔にして栄養を取ることで生き残れるというのがジャンの信念だった。
家に着くと、半狂乱になった妻を制しながら指示を出し、娘の血を洗い流して、キツい酒で傷口を消毒する。
シーツで作った包帯で傷口を縛ると、後はジャンに出来る事はもうなかった。
浅いながらも安定した呼吸をするアンヌの顔を見て額の汗を拭うと、ジャンは床に座り込むマリアを椅子にかけさせた。
「いいか、アンヌが気付いたらスープでも何でもいい、栄養のあるものを食べさせてくれ。それから汚れた包帯はすぐに交換するんだ。俺はこれから麓の街の教会に行かねばならん」
「アンヌが大怪我をしているのにですか?」
一方的に捲し立てるジャンに、マリアはやっとそれだけを聞く。
「アンヌのために、今行かねばならんのだ」
ジャンの言葉もそれだけだった。
マリアは納得はした訳ではなかったが、ジャンへの信頼が不安を上回る。ジャンの目をしっかりと見つめ返すと、間を置かずに「わかりました」と立ち上がり、「アンヌのことはまかせてください。……気をつけて」とキッチンへ向かった。
そんなマリアの背中とアンヌの寝顔をもう一度よく見ると、ジャンは家を後にして街への道を急いだ。
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