第1話
ゴツゴツとした岩が階段のように積み上げられた段々畑を、葡萄の葉を揺らしながら秋の風がさわさわと吹き抜ける。
抜けるような蒼空に広がるうろこ雲が、南へ向かって静かに流れて行く。
豊かに実る葡萄畑に、小さな少年が眠っていた。
傍らには少年より少し年上の、しかしやはり幼さの残る少女が立ち尽くすように祈りを捧げている。
遠くで牛飼いが歌い、牛達が家へ帰る鳴き声も、まるで幾重にも重ね合わされたハーモニーの様に耳に届く。
銀色の髪の少女は祈りを終え、ゆっくりと膝を折ると、微笑みを湛えたような表情のまま少年の頬に口づけた。
「ごきげんよう」
真っ白なワンピースをクルリとひらめかせ、少女は歩み去る。
眠り続ける少年の上を散り散りになった小さな雲の影が、幾つも幾つも通り過ぎていった。
「おかえりなさい、アンヌ。今日は遅かったのね」
「ごめんなさいお母様。今日は東の葡萄畑までお出かけしたの」
アンヌ・シャルトルは輝くような銀色の髪を元気良く跳ねさせながら、怒っている母の背中に抱きつく。
暖炉の火にかけた鍋をかき混ぜながら、母マリアは微笑みを堪え切れなかった。
「……仕方がないわね。明日からはちゃんと日が暮れる前に帰ってくるのよ? さぁ、手を洗っておいで。シチューを食べましょう」
小さく肩をすくめて頬を合わせると、頭をなでて娘を送り出す。
「はぁい!」
もう一度強く母に抱きつき、表の水桶へと駆け出すアンヌを見て、マリアは神に感謝した。
(神様。私の宝物が今日も元気良く、笑顔にあふれて平穏な暮らしを過ごせた事を感謝します)
もう一度鍋に向き直ろうとしたマリアは、娘が固まったように外を見て居ることに気付く。
どうしたの? と声をかけようとしたが、マリアにも玄関の先に広がるすっかり暗くなった畑の小路に、うねうねと蛇のように連なる赤い松明の列が見えた。
「……お母様、何かあったのかしら?」
心配そうに呟くアンヌの傍らに寄り添うと、マリアはそっと肩を抱き、一緒に松明を見つめる。
その赤く明滅する光は、何か悪い事の予兆のように思えた。
「東の畑でデルモントさんの所のフランツ坊が死んでいたんだ」
松明の列から抜け出し、話を伝えに来てくれた村の若者が、水を受け取って飲みながら神妙な面持ちで語る。
「フランツちゃんが?! まだ6つか7つじゃない……どうして……?」
マリアはアンヌの手をぎゅっと握りしめる。
アンヌだってまだ10歳になったばかりの子供だし、フランツともよく一緒に遊んでいた。 それに今日、アンヌは東の葡萄畑まで遊びに行ったと言っていたのだ。
「どうも狼じゃないかと言う話だ。村長たちが猟銃を持ちだして東の森を見に行ってる。俺もすぐに行くよ。戸締まりをしっかりして、夜は表に出ないようにしなよ」
背中の猟銃を背負い直すと、若者は礼を言って歩き出す。
「アンヌちゃん、兄ちゃんたちが狼はやっつけちゃうけど、それまでは遠くで遊ばないようにな。フランツは後ろから頭をガブッ! とやられたんだ、怖いんだからな!」
わざと大げさに恐ろしい顔を作り、手を振って去ってゆく若者を見送ると、マリアはアンヌを家に入れ、しっかりと閂を下ろす。
「さぁ、ご飯にしましょうね」
心に広がる不安を振り払うように、マリアは明るくそう言った。
フランツの事件を特に気にした素振りもなく食事を終え、自分の部屋でベッドに入った娘の顔を時々見に行きながら、マリアは後片付けをしていた。
シャルトル家に父親は居ない。
いや、居ないことになったと言った方が正しいだろう。
インドでの戦争でそこそこの功績を上げたものの、戦争には敗れ、パリ条約締結による全面撤退により帰国したジャン・ピエール・シャルトルは、戦うことでしか家族を養えない男だった。
国の外交政策が融和路線へと方向転換された今、彼のような男に居場所はなく、右足に負った傷のために仕事もない。一年以上もただ酒を飲んでは管を巻く日々を送り、ついにジャンは家に帰らなくなった。噂では麓の街で用心棒のような事をしてその日暮らしの生活をしているらしい。
アンヌは小さな頃から聴かされた戦争の功績を今でも覚えており、この父親を英雄視しているが、街へ出た村人たちから時々聞くジャンの噂は、嫌われ者のゴロツキそのものだった。
マリアは「お父様は、別の戦争へ出かけてしまって、これからずっと帰ることは出来ないのよ」と言い聞かせていたが、聡いアンヌは事実を理解してしまっているようだった。
理解してもなお、父親を英雄として愛し続ける娘に、マリアは時々申し訳ない気持ちで泣き出しそうになってしまう。
ジャンの心は壊れてしまい、マリアにはそれを癒やすことは出来なかった。
マリアは愛する娘と2人で生きて行くことを決めたのだった。
アンヌの服をたたんでいたマリアが、娘のお気に入りのワンピースに点々と血のような赤い染みが付いているのに気付いた。
肩の後ろ、娘の美しい銀色の髪に隠れる辺りに点々とつく赤い染みを濡らしたタオルで拭き取ってゆく。
娘は今日、東の畑に行っていた。
赤い染みを一つ一つ丁寧に拭き取りながら、マリアは思う。
(きっと葡萄の染みだわ。アンヌのお気に入りの真っ白な服に染みが残らないようにしてあげないと……)
フランツは東の畑で死んでいた。
やがて、全ての赤い染みを拭き取ると、マリアは満足気に燭台の火を吹き消し、アンヌの隣で眠りについた。
(神様、明日も私の宝物が、笑顔にあふれた幸せな生活を送れますよう、ご加護を)
秋の夜空には、禍々しいほどに大きな満月が浮かんでいた。
フランツの葬儀の後、アンヌも憲兵への届け出のために、村長たちに話を聞かれた。
「フランツとは仲良しでした。でもあの日は一緒には居ませんでした。フランツが『ソレアおばさんたちは、アンヌのお父さんを飲んだくれのゴロツキだって言ってるよ』と言ったからです。何度それは間違ってると言い聞かせても、街の市場の友達も同じことを言っていたと聴かないので、喧嘩になって別々に遊ぶことにしました。その後の事は知りません」
大人に囲まれながらも堂々と話すアンヌに、村長は少し同情の目を向け、軽い尋問のような話はすぐに終わった。
アンヌが母の所に戻ると、マリアはソレアおばさんと話をしている所だった。
「……ねぇ、あんなゴロツキとは別れて正解だったんだよ。本当に。でも、こんな事があって女2人じゃ心配だろう? 私が以前話しをしたピエールと所帯を持ったらどうかねぇ? ピエールは牛飼いとは言っても学もあるし、時々街で読み書きを教えてはお金を稼いでるから安心だよ? あんたもまだ若いんだし」
「ピエールさんは良い方ですが、娘が牛を怖がりますので……」
困ったような笑顔で答える母の背中に、アンヌはいつもの様に飛びついた。
「お母様、村長さんとの話は終わりました。帰りましょう?」
「あらアンヌ。早かったのね。ええ、帰りましょう。それでは、失礼します」
「ソレアおば様、お体にお気をつけて。ごきげんよう」
考えといておくれよ! と言う声を背中に受けながら、2人は頭を下げて小道を歩き、マリアの望むいつもの日常へと戻っていった。
自宅のテーブルで、頼まれた衣服の修繕をしている途中で眠ってしまったマリアが目を覚ましたのは、もう外が薄暗くなっている時間だった。
「……アンヌ?」
燭台に明かりを灯し、娘の名を呼ぶが返事はない。
「アンヌ!」
ドアを開け表に出ると、山の陰に最後の陽光が陰り、今、正に夜が訪れたばかりだった。
(狼がまだ退治されていないというのに! 私は……!)
「アンヌ! アンヌ!」
オロオロと庭の柵を開けて小道を駆け下りようとするマリアの視界の端に、刹那、禍々しくも神々しい銀色の毛並みの巨大な獣の姿が掠める。言葉を失い振り向いたマリアの目に写ったのは、獣ではなく愛しい娘の姿だった。
「お母様……遅くなってごめんなさい」
小道ではなく林の中から現れた娘は、体のあちらこちらに擦り傷を負い、お気に入りのワンピースにもかぎ裂きが出来ていた。
「アンヌ!」
名前を呼ぶ以外の言葉は見つからず、娘を抱きしめる。
叱ることも忘れて2人は手を繋いで家に帰った。
ソレアおばさんが狼に襲われて亡くなったと言う報が届いたのは翌朝だった。
夕暮れ時に牛飼いのピエールと話をして来ると言って家を出たきり、夜が更けても帰ってこない妻を心配した夫がピエールの家を尋ねたが、ソレアはそもそも家に訪れていなかった。
ソレアの遺体は森の奥深くで見つかり、その頭は真正面から噛み砕かれていたと言う。
ソレアの死後は酷い事件が立て続けに起こり、被害者は増え続けた。
村を上げての山狩りにもかかわらず、狼は見つからない。
幾つかの目撃談も寄せられたが、「牛ほどの大きさの巨大な狼のような獣である」と言う事以外、何も分からなかった。
被害者は村の住人に留まらず、麓の大きな街の住人や旅人まで、広範囲に広がっていた。数十人の命が失われた頃から、この狼は「ジェヴォーダンの獣」と呼ばれるようになる。
村の少年ジャックが、畑仕事の手伝い中に現れた銀色の狼を数人の友人と共に鍬や鋤で撃退したという武勇伝が広がると、その噂は国王ルイ15世の耳にも届き、褒賞金を与えらた。
同時に「ジェヴォーダンの獣を退治したものには褒美と爵位を与える」と言う宣言が行われ、国を上げての大騒動に発展していった。
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