4
「理屈では分かる」
真人は暗い眼でつぶやいた。
「あんたが俺やしおりには見当もつかないような、何か目的を持っているんだろうってことは。だけどそれとこれとは別だ。俺は…自分でも分からないけど、兄様を…」
「人間的な感情が生む葛藤は良く分かる。けどなあ、どっちみちあれはもう、話し合いも出来ないような獣と同じなんだ。作られてはいけなかった存在。存在そのものが他の次元に要らない影響を与える因子。まあ……哀れな存在だった」
真人は自分でも抑えようがない衝動が頭に駆け上がってきたことに気付き、歯をきつく噛みしめて堪えた。
ここまで少しずつ感じながらも秘めてきた、亀利谷への反感が迸りかけていた。どんな遠大な目的の元で行動しているのかしらないが、人間らしき情動がどこか欠如した冷徹とも思えるその振る舞い。
うめくように、慎重に言葉を選んだ。
「お前なんかが、哀れむな。お前に兄様の何が分かるんだ? お前に…」
美奈子の手紙が静かに綴っていた、兄様との関係を示したほんのわずかな言葉。だがそれは、真人が今こうして存在していることが、その結果だという確かな証明だった。
老師と白琴会の言われるがままに学生時代を過ごし、愛し合った女性を誤解のまま憎むようになった兄様。
立ち向かうべきだった勢力に呑まれてしまい、自分の息子を息子と知ることもなかった兄様。
その息子は、知らぬことだったとはいえ間接的に父を自ら死なせる役割を果たし。
最後には人間ですらない獣として駆除されてしまった兄様。
真人の、父。
最後は理沙子に寄り添っていた兄様。
ふと真人は、兄様がどこまで人間らしい理性や意識を失っていたのか、と考えた。
理沙子は美奈子と瓜二つだ。もちろん美奈子はすでに亡くなっていて、現在の理沙子と美奈子を比べることは出来ないが、真人の記憶にある美奈子が年を経ればこうなるだろう、と思い描くには充分だった。
兄様はかつて愛した美奈子を憎んでいた。理性を失い本能の獣となった兄様が、最後に従者のように寄り添っていたのが、その美奈子と酷似した理沙子であったということは、何やら暗示的だと真人は胸苦しく感じた。
亀利谷への言葉が続けられず、真人の思考は乱れた。
混乱して沸々としている腹を落ち着かせようと、真人は兄様から視線を外して、理沙子に向けた。
瞳こそ青くなかったが、理沙子も獣のように変貌しているのだろうか。
そうだろう、そうあってほしい、と真人は願わずにはいられなかった。北澤のことを思い出すまでもなく、瞳などどうにでもなるし、光の加減ということもあるだろう。そう必死に自分に言い聞かせていることが自ら良く分かった。
亀利谷が言う女王としての存在のことを考えるまでもなく、この場に立ち込めている異様な臭気を嗅ぐだけでも、理沙子の身にどんなことが起きていたのか想像が出来るというもの。人間の心を残したままで耐えられる時間だとは思い難い。
しかし。
眼前から排除された兄様の姿を、つと顔を向けて追った理沙子は、顔を戻したときには、言い様の無い悲嘆と絶望に満ちた疲れ切った表情をしていて、真人は決して彼女が理性を失っていないということを読み取ってしまった。
理沙子の表情を目の当たりにして身を強張らせる真人をよそに、亀利谷は周囲を見回しながら、壁に吹き飛んだ兄様のほうに向かった。
「当面、襲ってくる敵はいなくなった。仕留めたと思うけど、念のためだ…」
真人にはもう何が何やら分からなかった。
父である兄様は、何の接触もないまま文字通りただの獣として始末され、美奈子を思わせる容姿の理沙子は理性が残っているらしいままに、動物的な性乱交の女主人公だったらしく。
ここまで戻ってきたのは、老師なり黒澤なりを見つけ出し、ここまでのすべてのことを、真人や美奈子や佳澄、真緒、寛子、他にもおそらく山ほどいる、彼らに振り回され人生を狂わされてきた人間達のために復讐でも落とし前でもなんでもいい、とにかくこの一連のすべてを始めてここまで引っ張ってきた連中に、何かをぶつけなければ気が済まないという、そのネトネトした執念ゆえであったが、その意志はここで亀利谷が兄様を斬ったと同時にぷつんと断たれたかのようだった。
兄様のほうにも理沙子のほうにも踏み出せず、ただ途方に暮れて何秒か、あるいは何十秒か、立ち尽くしていた。
横を風が抜けた。
しおりが真人を追い越し、理沙子のいる壇に静かに駆け上がった。
はっとして真人はその後姿を目で追った。
しおりは祭壇の隅に転がっていたシーツらしき布切れを屈んで拾い、無言のままそれを理沙子の剥き出しの身体に覆うように被せた。
「あなたが、理沙子さん…社長、ですよね。私の言うこと、分かりますか?」
理沙子は緩慢に顔を上げ、しおりを見上げた。かすかな声が漏れる。
「…あなたは?」
「空山です…仙開の社員で、北九州でサテライトに携わっていた」
理沙子の目が少し開かれたようだった。
「じゃあ、お前が美奈子の…」
「はい」
「そう…。あ、ハ、なるほどそこにいるのは本多ね。黒澤の言う通り、戻ってきた。ア、ハハ、黒澤の言う通り…」
理沙子は歪んだ笑いを浮かべた。疲労、混沌、無気力。そんなものを伺わせるようなぞっとする笑いだと真人は感じた。そこにあるのは人間としての尊厳も何もかも失った者の笑みだった。
間近でそれを見たしおりも、たじろぎ少し身を引いたようだったが、それでも気丈だった。
「いったい、ここで…阿賀流で…何が起きたんですか。教えてください」
「夢なのか…。現実なのか」
理沙子は相変わらず呆けた笑みを浮かべながらしゃがれた声を吐いた。
「あれから何日経ったのかも、分からない。突然のことだったよ。清水君、いやあるいは清水君だったものと、何人かが、あっという間に。私以外の者はすべて、駆逐された。ここから逃げ出した者もいたが、果たして無事でいるだろうかな」
真人としおりは思わず顔を見合わせた。阿賀流村すべてがもう滅びかけていることを理沙子は知らない。知る術もなくなっているのだろう。
「黒澤だ」
理沙子はうめいた。
「あの男、何を考えているのか。清水が来たとき、私と黒澤は下の部屋にいた。様子を見にここまでやってきて、黒澤は何が起きているのか見てとると、私を清水に押し出した。あとは…見ての通りだ。私は疲れたよ。ひたすら、抗うこともないまま、私は彼らの主であるらしい。自由のない女神。一族の母親のつもりなのか。食べ物と水は与えられる。口移しで、身体を重ねながら、食べることと交尾と排泄と、すべては混然一体で。ここにあるのは生きることと本能が一つになった世界だ」
いつしか真人としおりだけでなく、亀利谷も理沙子の前にやってきていた。
「黒澤というのは、どこにいるんだ? 老師というのもいるんだろう?」
理沙子は瞳を動かして方向を示した。
「黒澤は地下にいるだろうさ。あいつの仕事部屋に。私と黒澤だけが入れる落とし戸がある。この広間に入る前の通路を奥へ。鍵はもうなくなってしまったが…」
「問題ない。場所さえ分かればどうにでもなる」
真人は理沙子と亀利谷に割って入った。
「老師は…? 老師というのもそこにいるのか? いったいこの馬鹿げたことは、黒澤なのか、老師なのか? 誰のせいなんだ?」
理沙子の呆けがさっと消え、顔が引きつったように見えた。再び笑みが戻ってきたが、さきほどまでとは異なり意地の悪さを感じさせる汚らしい笑みに見えた。
「老師は…。フッ、老師か。老師は白琴会のすべてだ。阿賀流のすべてと言ってもいい。フ、フフ、老師に会えば分かる。本多真人、あいつはいかれていたよ。あいつは…」
次第に理沙子の声は暗く小さくなり呪詛のようなぶつぶつ言うつぶやきとなった。
その恨み節にぞっとしながら、粘つくような喉の奥の渇きを唾で無理やり湿らせて、真人は理沙子に訊ねずにはいられなかった。
「…真緒。真緒はいなくなってしまった。死んだとは言えないかもしれないが、もう、この世にはいない」
理沙子の目が大きく開かれる。
「俺は、真緒の親のことを知ってるぞ。俺の親のことも」
そう真人が語りかけると、理沙子が突然高く笑い始めた。この白琴会の広間にはおよそ似つかわしくない高い笑い声。クックッ、ハッハッといつまでも止むことのない苦しげな哄笑。
「私はいつも誰かの傀儡だったな。いや、今なら分かる。私は阿賀流に残り、美奈子は逐電したが、どちらもそうだった。私達の人生はいったいなんだったのか…。なぜ私達は水谷を親として生まれたのか。なぜ私達は人並みの母親になることも出来なかったのか。真緒か……」
理沙子は長く長く長い息を吐いた。
真人は理沙子を哀れんだ。理沙子への敵意はとっくに消えている。そして理沙子や真緒を哀れむことは自分をも哀れんでいるのだということにも気付いていた。あるいは理沙子の容姿が美奈子に似ているということも、疲れ切った真人の心を揺らしたのかもしれない。
かすかに、理沙子との間に心の行き交いが生まれるような気がして、真人の唇は痺れた。
わざとらしい咳払いが、その接点を断った。
「それぞれ思うところはあるだろうが、それはそれとして。そろそろ俺の仕事を進めたいんだ」
そう亀利谷が言いながら、真人達と理沙子の間に進み出た。
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