翌朝。

呑み過ぎた朝の常として、猛烈な喉の渇きと頭痛で真人は未明にいったん目を覚ました。

とにかく洗面所で水をしこたま飲み、ふらふらと再びベッドに潜った。


次に目を覚ました時には、すでにカーテンの向こうが明るくなっていた。はや十時を過ぎている。


頭痛はまるで治まっていなかった。頭痛、目の痛み。喉の渇き。ひどい二日酔いだ。服も昨日のまま、着替えもせずにベッドに寝ていたらしかった。


眩しさに目を細めながら起き上がろうとすると、椅子に佳澄が座っている後姿が見えた。佳澄は机に突っ伏して眠っているようだった。

どうもここは佳澄の部屋らしい。なんとなく昨晩のことを真人は思い出しつつあった。


ギンギンする頭を押さえて、それでもなんとか立ち上がった瞬間、強烈な脈動が胃の奥からやってきて、洗面所に再び駆けた。

胃の中身はほとんどなく胃液だけだったが、盛大に吐き戻していると、背中に手が添えられた。

佳澄だった。


「すまない」

タオルで口の周りを拭きながら真人は佳澄に謝った。

「ご気分、どうですか」


「…最悪だけど、大丈夫。戻したら少しだけ良くなった。それより、昨日はごめん。なんとなくところどころ覚えてるんだ。俺を、ベッドまで?」

「はい」


「何か、君に酷いことを言ったような気がする」

「そんなことないですよ」

佳澄は、すっかり見慣れた穏やかな顔をしている。

「…本当に?」

「はい」


佳澄が、真人を傷付けまいとして隠し事をしている、と真人は察知したが、元を正せば、佳澄に無断でしおりに会いに行った自業自得とも言える。佳澄の優しさに甘えることにした。

そもそも、どうしてこのホテルまで戻って来られたのかも分からない真人には、どこまでが夢で現かがまだ判然としてない。


「ここは、君の部屋だよな。俺はどうしてこっちにいる?」

佳澄が、昨晩の真人の醜態のあらましを話した。


「ご、ごめん。言い訳のしようもない。俺、君に何もしてない?」

「はい。…すごく残念でしたけど」

「お、おいっ」

「続き、してもいいんですよ。バックなら私の顔だって見なくてすむんです」

「お、おいってば。朝から、何をバカなことを。続きって…。昨日もあんまり覚えてないけど、まさかなあ、君、身体で慰めようとかそんなバカなことしようとしなかっただろうな?」

「や、やですねぇ。ミス渋柿的ジョークですよ。そういうことは愛のある人同士がすることです」


「ふ、フフフ、アハハ、愛かッ?」

突然笑い出した真人に、佳澄が怪訝な顔をする。

「知ってるか、佳澄ちゃん。愛がなくてもな、結婚は出来るんだ。愛がなくてもな、それなりに気持ちいいセックスって、出来るんだよ? だから、雰囲気やなんやで、簡単に変なこと言うもんじゃないさ。フ、フフ」


「……」

佳澄は笑わずにじっと真人の目を見返してきた。真人はつい目を逸らす。

「ど、どうしたんだよ、佳澄ちゃん」


「本多さん。何があったのか知りませんが、本多さんがたった数時間でそんなにボロボロになるようなことがあって。それなのに、私は何も本多さんにしてあげられないんですか?」


真人はため息をついて苦笑した。

「いいんだよ。君がいてくれるだけで俺には救いになっているんだ。もう、俺には君が特別に尽くすような価値はないよ。ただただ、白琴会に一発かまさないと気が済まないだけだ。今は、他のことは何も考えられない」

「……」


「とにかく、東京に戻ろう。今から出れば今日中に帰れる。俺が手に入れた情報は、これから共有するから」

「待ってください。何を隠しているんですか、本多さん。地下天の後で、何が?」


真人は少し逡巡してから、口を開いた。

「俺達の味方になりそうな人を見付けたんだ。そいつの案内役と交渉してきた。東京で会える」

「それだけのことで、本多さんがそんなに傷付くはずがないじゃないですか」

口を尖らせる佳澄だったが、真人は佳澄にすべてを話す気はなかった。

「情報提供料、みたいなもので、ちょっとね…」


「どうして、教えてくれないんですか」

「どうしても。佳澄ちゃん。君には言えないよ。君は優しくて頭がいいから。君はきっと、俺に共感して俺の分まで同じ苦しさを受け止めようとしてくれるだろう」

佳澄の表情が少し乱れたようだった。


「でも、いいんだよ。これは俺の問題なんだ。とにかく。東京に戻るんだよ。反転攻勢。黒澤も敵だとはっきりした。というより老師にかなり近いところにいて、俺達もただの駒として使ってるだけだったようなんだ」


「黒澤さんが…」

佳澄はそれほど驚いた様子ではなく、うなずいた。

「…やはり。疑惑はずっとありました」


「それと…」

少しためらってから、真人は付け足した。

美奈子を母と認めることは容易だったが、兄様を父と認めることには納得していない自分がいた。だが、兄様も老師に毒された犠牲者だとも思えるようになっていた。

少なくとも、真人が大好きだった美奈子という女性を愛していた頃の兄様は、悪ではなかったはずだ。

「…兄様のこと、真緒のこと。色々なことが、分かった。そのことは教えるよ。君にも関係することだから」


真人は、佳澄が以前まとめた人物関係図のプリントアウトをノートパソコンの上から引っ張り出して机の上に乗せた。事故死だらけの複雑な人物関係図だ。

これを佳澄と描いていたときに感じたのは、複雑すぎる、という作為的な印象だった。

美奈子の手紙としおりの言葉で導かれた真実から、案の定、その複雑さの多くが偽造であったことがすでに分かっている。


真人は同じ紙の裏側に、ホテルのボールペンでシュッシュッと図を描いた。

美奈子と兄様の下に真人がいて、老師の史郎と理沙子の間には親子を示すものだけでなくもう一本線を引き、そこからさらに下に線を引っ張った先に、真緒の名を書いた。


「これが、俺を取り巻く本当の人物関係だよ。事実はいたってシンプルだった。これだけでも、俺の頭がおかしくなったの、分かるだろ。悲しい家系図だ」


佳澄はじっと図を見つめ、ほんの少しして、がばと顔を上げた。佳澄の顔も強張っていた。

「これは…こんなことが…あぁ…」

両手に顔をうずめる佳澄に、真人はうなずくだけだった。


「これだけでも私には…。真緒ちゃん…」

佳澄は震えていた。むしろよく声を上げずに堪えているものだと、真人は佳澄の震える頭を見つめていた。

「…それなのに、まだ、本多さんを追いつめるようなことが、この他にもあるというんですね?」


「ああ。でも、それはね、君が気にすることじゃないから、いいんだ。それは俺の尊厳の問題だ。俺という個人のね」

「分かりました。そのことは何も訊きませんが、本多さんのことは信じています」

「…ありがとう」


「では、東京に戻ってから、またすぐに行動ですね?」

「ああ。どうなっていくのか見当もつかないけどな。このままでは済まさないし、なんでも思い通りに行くと思うなって、分からせてやらないといけない奴らがいる。人の人生をもてあそぶような連中に、罰が必要だ」


ホテルをチェックアウトしてからの帰京の足取りは重かった。


真人は二日酔いの猛烈な頭痛をミネラルウォーターのがぶ飲みでごまかしながら、沸々とする苛立ちを今もって無理に抑え込み続けていた。

この馬鹿げたすべてのことを導いたのが老師や黒澤だというのであれば、どんな形であれ身をもって思い知らせてやるという怒り。


佳澄は、真人に余計な言葉はかけてこなかった。北九州空港への帰りのバスも、空港のチェックインも、スターフライアーの機内でも。

静かに、それでいて真人の少し先を歩き、少し先取りした行動をして、気を遣っているようだった。自分自身もあの関係図から相当なショックを受けているはずだが、相変わらず気丈だった。

すでに怒りと恨みの他に感情がなくなってしまった感のある真人には、その佳澄の精神力の強さがどこから来るものなのか、興味深かった。


機内では真人の気分は一層滅入った。ただでさえ怒りではらわたが煮えくり返っているところに、二日酔いを抱えたまま、夕方前の羽田への飛行機に揺られたのだ。

行きにはあれほど興味津々で見入ったスターフライアー忍者のユニークな動画さえ、その愉快さが逆に不快に思えた。


羽田の人の波も、蒲田に戻る京急線の混雑も、すべてが不愉快だった。

何も悩みなどないようにして動く周りの人間達や、幸せそうに土産を持っている旅行客さえ、恨めしく思えた。

阿賀流から戻ったときにも同じような想いはあったが、あのときはまだそんな考えを不謹慎だと認める余裕があった。

しかし今は何の抵抗もなくその感情を受け入れる自分がいた。


阿賀流から戻ったあのとき、佳澄は、まだどん底なんかではないと言っていた。

憎しみの他に感情が失われ、前を向く気力が怒りからしか出て来なくなっている今こそ、いよいよどん底なのではないかと真人はうつろに思った。

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