「どういう意味だ?」


しおりは目を伏せた。

「言いたくないの。私の…元妻としての、あなたへの思いやりだと思って」


思わずしおりに掴みかかりそうになり、両手をカウンターに突いて堪えながら、真人は声を荒らげた。

「隠すほうが残酷な場合だってあるんだぞ。正体を偽って俺と結婚していたお前に、そんなことを言う権利があるのかッ? あァッ?」


しおりの渋面が濃くなった。逡巡する時間があり、観念したかその口が息と言葉を吐き出し始めた。

「私は、仙開の人間だと言ったでしょう? でも私は白琴会の信者でもなんでもない。私の親は黒澤さんに深い恩があって。そのために私も、黒澤さんに従って生きるように育てられてきた。黒澤さんの手引きで仙開に入り、あなたに出会い、結婚した」


「それは、さっき手紙を読む前に聞いたことだ。つまり、黒澤はお前の人生も動かしたような予想以上の狸だってことだろう? そんなこと、もう今さらショックでもなんでもない」

「そう。でも、それがすべてじゃないの。あなたへの監視、それから、あなたの生活を管理下において、満足させること、それが黒澤さんが水谷さんに約束した見返り」


真人は苛立ってしおりを遮った。

「それも手紙で読んだ。…何を渋ってやがる。他には?」


「私は、女としてのその役目をあなたに果たしたつもり」

「それももう知ってる」


「でも、いい?」

しおりの声がかすれた。

「私が北九州に移ってからも、あなたへのその見返りは続いていたんだよ」

「…?」

「私がいなくなってから、あなたは誰が監視していたと思う?」

「俺の監視? 離婚してから? その可能性は何度か考えたことがあったけど…」


「黒澤さんは、水谷さんとの約束は守っていた。あなたを手元においておきつつ、生活に一定以上の不自由はないように、むしろ経済的には成功できるように、すべて取り計らっていた。私が会う前も、大学を中退して仕事もコロコロ変えるような性格だったあなたでも。ちょうどいいタイミングでいつも転機や誘いがあったと思うの」


真人は首をひねった。

「ちょっと…待ってくれ。どういうことだ」

しおりは待ってくれなかった。

「私があなたから離れた後も、そう。違った形で貴方の夢をかなえるように、ずっと見張られていたんだよ」

「だ、だから、ま、待てって。誰が…誰が離婚後の俺を監視していたっていうんだ?」


真人からしおりは目を背けて、グラスに向かってつぶやいた。

「北澤っていう人、知ってるでしょ?」


「北澤…!?」

鳥肌が真人の全身を襲った。


「私は本名も知らないけど。北澤と名乗ってる人と、あの出版社。あれは黒澤さんの手駒なんだよ。あなたはずっと、黒澤さんの手のうちにいて、好みの女を好き放題っていう夢も、経済的成功っていう新しい夢も、手ごろな範囲で与えられていたんだ」


「北澤だって!?」

もう一度繰り返し、真人はカウンターを叩いた。


「…! 辻褄が合うじゃないか。ああ、俺はバカだった。そうだ。阿賀流に行ってから、北澤には近況を逐次報告していた。じゃあ、俺の居場所はすべて筒抜けだったのか」

一つの疑惑が解消されたことで霧が晴れていく。

「あの宿を襲ったのも、白琴会に襲わせたのは黒澤なんじゃないのか? そのいっぽうでミスターXとして、自作自演で俺の味方のふりをして接近した…。東京に戻ってからだって、北澤には連絡を取っていた。いま、北九州にいることも北澤は知っている。記事のことで…」


はっとして真人は顔を振り上げた。勢いよく振り上げて視界がぐらぐらしたが、それどころではない驚きですでに心臓が激しく揺れていた。

「あれ? 経済的に成功…。ま、まさか…」


稲妻のように振り向くと、ぶつかったしおりの視線に憐れみを認めて、真人は真実を悟った。

心臓は胃より下、臍の辺りまで急降下した。


「私がただ監視をするだけじゃなくて、あなたに男性としての満足も与える目的があったのと同じで、北澤の出版社もあなたに計らいをしているはずなんだよ」

気のせいか、しおりの眼が潤んでいるように見える。


「お、俺が喜んだあの出版…あ、あれも…あ、あれが!?」

首筋から後頭部を抜けて頭頂部まで何かが駆け上がった。

「きょ、狂言なのかッ!? ば…ち、、、畜生ッ! そんな、バカなッ!?」

真人はカウンターを両手で叩いた。


揺れでジントニックのグラスがコースターから弾み、ぐらついてそのまま横倒しに倒れた。静かなラウンジにガラスの音が響く。

ほとんど空になっていたグラスからは氷が飛び出した。氷を吐いたグラスはごろりと回転し、縁に刺されていたカットライムを支えにして動きが止まった。


バーテンダーが近付いてくる。

しおりが慌ててグラスを持ち、元通り立たせた。


真人はそんなグラスを手で薙ぎ払って粉々に叩き割りたい衝動に駆られた。代わりに両手でがっちりとグラスを握り、手が白くなるまで力の限り握りしめた。

「くそ、くそっ、くそおッ!」


「お客様…」

「すみません、大丈夫です。大丈夫ですから」

しおりがバーテンダーに謝る間も、真人は、手から伝わる怒りで震えているグラスを睨んでいた。食いしばった歯はギチギチときしんだ。


「真人…?」

しおりに声をかけられると、うめくように真人はつぶやいた。

「酒くれ…。トニックはもういらない。ジンそのままダブルでくれよ。もう、いやなんだ」


「そ、それは…」

バーテンダーは渋った。むしろ追い出されても不思議はない振る舞いをすでにしているほどだ。

「私が責任持ちますから、出してあげてくれませんか」

しおりが横から助け舟を出した。

「もし何かあったら、すぐ出禁で構いませんから」


しおりとバーテンダーの間に数秒の攻防があったが、それからすぐにバーテンダーがショットグラスを滑らせてきた。


「ハハ、悪夢に乾杯」

つぶやいて真人はショットグラスを一気に喉に流した。

喉が発火し、脳がぐらついた。

頭がくらくらとしていることはなんとなく分かったが、あとは天井の辺りを自分が彷徨っているような感じになってきた。

「俺は、狂ったか」


「真人…」

しおりが覗き込んできたが、真人の視線はもうしおりの顔に焦点を合わせられなくなっていた。


「やめろ。慰めはいらない。愛されてもいなかった元妻の慰めがなんになる」

「…」


「黒澤に、北澤…。栞に、しおり…」

自分の口が喋っているのかも良く分からない。

「思えば、似てるなあ…。俺はずっと遊ばれてたのか? コケにされてたのか? クソが…」


熱い酒は胃に落ちた。それと共に憎悪も沸々と胃の中で膨れ上がった。

「…亀利谷というヤツは、どこにいる?」

「亀利谷さんは、おそらく東京に。連絡とるからね。あなたは東京に戻るんでしょう?」

「東京…東京…。ああ…。もうここにいる意味はない」

「東京に戻ったら、必ず私の携帯に連絡して。渡した名刺の裏に書いてある。私も東京に行くし、亀利谷さんもきっとあなたに会いたがる」


「ふん…。亀利谷がどれほどのものか知らないが俺は…。いまここに黒澤か北澤がいたら、間違いなく刺す。俺の人生は…なんだったんだ。物書きの端くれでもなんでもない、ただのバカだ。出来レースでいい気になってた道化じゃないか」

「真人…」


それからほどなくして真人は、しおりに付き添われてバーを出たことだけをおぼろげに覚えている。

ほとんどその前後のことは覚えていない。泥酔した酔っ払いの記憶などそんなものだ。短期的な記憶喪失なんてものはアルコールの力を借りれば簡単に起こる。そしてこのときの真人にはそれが必要だったとは体のいい弁明だろうか。


自分で覚えている次の記憶は、ホテルのドアの前に立っているところだった。カギではなくチャイムを鳴らしていた。しおりはいなかった。どうやってか全くわからないがきちんとホテルまでは戻れたらしい。


ドアが開くと、佳澄が顔をのぞかせた。つまり、自分の部屋ではなく佳澄の部屋を間違えて呼んでいたようだ。


記憶も朦朧な真人には、そのとき自分がどんな状態だったのかはほぼ分からない。

ただ、佳澄を驚かせるには充分過ぎる酷い有様だったようだ。


「本多さん…!」

佳澄はチェーンロックを外してドアを大きく開けた。

すでに脚が蒟蒻になっていた真人は、そのまま佳澄に覆い被さるようにドアの内側に倒れ込んだ。

「ちょ…! 本多さん…!? 痛ッ」


佳澄を巻き添えで下敷きにして、真人は床に崩れた。

「本多さん、どうしたんですか!? いったい、何が…!?」

「佳澄…」


「本多さん?」

「俺はダメだ、もう」


「何か、あったんですね?」

虚ろに真人は思った。何「が」あったのか、という聞き方ではないところが佳澄らしく、その気配りの鋭さはこの混乱のなかでもわずかな慰めだった。


「ヒヒ。のーみそがおーばーひーとしたんだよ」

「…」

「おかしいだろ、悲しいのに、苦しいのに、涙が出てこないんだ。俺のこころは死んでしまった。終わった。俺は何の価値もないただの駒だった。物書きも、結婚も、愛も何も俺にはなかった。ぜーんぶ、ウソだったんだよ、ひっ、ヒヒヒ」


おそらく相当に酒臭かっただろうに、ぐったりとした真人に覆い被されていても、佳澄は嫌な顔一つしなかった。

佳澄の腕が真人の頭を抱いて、耳元で囁いた声が聞こえた。

「酷いことがあったんですね。でも全部がウソなんかじゃ…。私では無理だというのも分かっていますが。でも、少なくとも私は…」


「五月蠅いッ」

佳澄を煩わしく感じたのか、腕を振りほどいた。


真人が覚えているのはそこまでだった。

その動きでまた頭がグワングワンと鳴り響いて、自分の頭が床に落ちる意識だけは不思議に良く分かった。

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