翌日も、思っていたよりは冷たい日だった。季節はすっかり秋から冬へ向かおうとしている。

「九州だってのに毎日寒いな」

「九州と言ってもこっちは日本海側ですから。気候的には東京よりむしろ阿賀流に近いぐらいかもしれないですよ」


昼前に遅くホテルを出た真人達が、例によってパンのクロヤの前を通りかかると、すでに行列が出来ていた。

歩みを遅くして店員たちの様子を見ると、充分に驚くべき回転率で客さばきをしているのだが、通りかかる通行人が次々にまたショーケースの前に並ぶために行列が絶えないようだ。吸引力が尋常ではない。


佳澄が真人にささやいた。

「今日、朝ごはん食べてませんよね」

「皆まで言うな。分かったよもう。なんか買っていこう」


「ネットで見て、もう決めてるんです。サニーパンとオムレット。これにしましょう」

「サニーパンにオムレットね。…って、安ッ! 昭和のパン屋かよッ!?」

サニーパンが九十円、オムレットに至っては四十円である。

となると思わず欲が出てしまい、二人分だというのにサニーパンとオムレットを五つずつも買ってしまった。


「こんなに安くて大丈夫なのかな?」

「これでも値上がりしたらしいですよ」

「ひええっ」


駅を抜けて仙開のあるビルに向かうべくデッキを歩きつつ、行儀が悪いと分かりながらもビニールから早速パンを取り出して佳澄に渡す。


周りはビジネスマンとおぼしき人も多いが、観光旅行と思えば、歩き食いもたまには許されてもよいのではないか。

何より、こうしている瞬間ぐらいは、まるで学生時代に戻ったような、何も先に不安がないような、何でも出来る気がするような、そんな時間でもいいではないか。

真人はそう自分に言い聞かせた。


東京に戻った直後に比べれば真人の心は落ち着いてきているが、形容し難い不安の靄が胸のどこかにずっと引っかかっているのも確かだ。

行方知れずの真緒を探すことは、もちろん忘れてはいないとはいえ、こうしたわずかな心の慰めぐらいはあっても罪にはならないのではないだろうか。心への痛すぎる衝撃は、和らげなければ。


クロヤのパンの味は、まさに昭和のパンの味といった懐かしい風情だった。柔らかめのフランスパンに練乳ミルクが挟まれたサニーパンと、クリームを挟んだオムレットは、どちらも小さめの可愛らしいパンで、あっという間に二人ともすべて食べてしまった。


「美味しかったですね♪」

佳澄が音符マーク付きの弾んだ声で言う。

「うん。でも、男だと物足りないなあ。もっと買えばよかった」

「帰りにも買いましょうよ」


「佳澄ちゃん…。すっかり北九州を楽しんでるな。昨日の夜、ちょっと元気なくなってたみたいだから、疲れてるのかと思った。よかったよ」

「昨日ですか? あ、ああ…。そうかもしれません。でも、今日は今日です。これから仙開さんで神経を使うかもしれませんからね。終わった後の楽しみを考えておくことも大事ですよ」

「はは。違いない。じゃあ、後のお楽しみのために、いざ出陣だ」


駅を抜け、北側に出ると、デッキを歩く。

「なんかこっち側のデッキ、むやみに広くないか?」

「そうですか?」

「全体的に、幅というか…」

「ああ、私が東京を狭く感じるのと逆じゃないでしょうか。土地が広いんでしょうきっと」

「なるほどねえ。あるところには土地があるもんだ」


行先を示す案内板があった。

「西日本総合展示場?」

「そこは、国際展示場みたいなものらしいです」

「ああ、アレの聖地ね」

「こっちではアレは行われないみたいですけど」

「なあんだ。って、なんの会話だよ、ったく」


「仙開さんはこっちです」

佳澄に導かれ、真人は駅前の高いビルの裏手に回った。

茶色っぽいレンガ風の外壁で覆われたオフィスビルの建物だ。五階以上はあるようだ。


エントランスから入ると、エレベーターに向かう。

仙境開発の受付は二階となっている。

仙境開発以外の会社も入っていて、ビルの二階と三階を仙境開発が占めているようだ。


二階でエレベーターを降りると、清潔な雰囲気のこぢんまりとした受付が目の前にあった。

「ここだけじゃ分からないけど、雰囲気は阿賀流の仙開と似てるな」

「いよいよですね」


真人は、受付の受話器を取った。

通話の相手に取材のアポがあることを伝えてから、一分もしないうちに、穏やかな表情をした年配の男性が中から現れた。


「初めまして。総務の榎本といいます。今日は私と、現場のLDが担当します。よろしくお願いします」

真人と佳澄を見ても、榎本に特別な反応はない。

まずは第一関門クリアというところか。


榎本は二人を受付のすぐ横にある応接室に通した。テーブルに、向かい合わせの質素なソファがあるだけの小さな部屋だ。


着席すると佳澄がすかさず、偽の名刺を出してテキパキとそつなく挨拶を済ませた。

真人は横でペコリとして自分の偽名刺を差し出すだけで済んだ。

偽名刺と引き換えに、いつぞや阿賀流の仙開でも使ったようなゲストIDカードを手渡される。


榎本がにこやかに話し始める。

「ではまずは総務のほうで、いくつかご質問、お受けしますよ。あとで、現場の時間が空いたら担当を紹介しますので、現場のLDにもインタビューしてください」

「ええ」


真人は佳澄と視線を交わした。

佳澄がうなずく。

「それじゃ早速…。九州を特集する地域誌を作るということで、東京のほうと連携しての取材でして…」


佳澄が何やらそれらしきことを榎本に切り出し始めている間に、注意深く榎本を観察したが、今のところ、疑われている様子などは微塵もない。

それとなく室内も見回したが、この部屋には監視カメラとおぼしきものもないようだ。危険はないと判断してよいかもしれない。


「…九州は健康食品の通販がさかんだそうですから、コールセンターとホスピタリティの特集で。まずは全国の通販業でも有数の高いリピート率を誇るこちらに、ということで…」


会社の沿革、人数、本社とのすみわけ等、ひととおり、当たり障りのないことを佳澄がヒアリングしていく。


「…こちらでいま働いている方には、本社のほうから来ている人もいるんですか?」

佳澄がそれとなくうまい質問を切り出した。阿賀流とどの程度関係があるのかが分かると、その先の質問の切り口も変わってくる。


「今は、ほとんど地元採用ですよ。本社からはときどき応援が来るぐらいで。何年か前までは本社からの出張者がほとんどの体制だったんですが、ちょっと前から、地域密着ということを一つの柱にしていまして…」

「地元に雇用でも貢献されてるんですね。素敵です。そういう企業姿勢みたいなものが、お客様にも伝わるんでしょうか。リピート率も高くて…」


またしばらく、佳澄と榎本のキャッチボールが続いた。

少しずつ外堀から、本丸の質問に向けて近付いていくのが分かる。真人は佳澄に会話を委ねるだけでよい。まったく頼もしい限りだ。


佳澄が榎本との談笑の間に、さもなんでもないように核心の質問を挟み込んだ。もう、攻めても安全だと睨んだのだろう。

「…実は、プライバシーなので明かせませんが、御社の利用者の方からの口コミなんですけれど」

「はあ。口コミですか」


「何年か前のことになるんですが、電話に出たオペレーターさんの対応がとてもよかったそうなんですよ。あらゆるところの接客サービスの中でもダントツだった、と」

「お褒めの言葉ですか。ありがたいですね。うちはセンター内の壁にお褒めの言葉を貼ってモチベーションアップに努めてるんですよ。逆に、クレームも張り出して改善するようにしています」


「それで、そのオペレーターさんというのが、水谷さんと言うらしいんですが…」

「水谷? 水谷…」


佳澄がでっち上げの話で賭けに出たのが、真人にも分かった。

美奈子がどのような仕事を北九州でしていたのかは分からないが、そう低い地位ではなかっただろうということは、双子の理沙子が現在社長であることから推し量ることが出来る。

美奈子クラスの人間が、普通に問い合わせの電話に出ているとはあまり思えないが、例外もあるだろう。ここは賭けだ。


「ええ、水谷さんだか、水なんとかさんだったかもしれないですが。どうしてもその人にお礼を伝えたいって、お客さんが言ってましたよ」


榎本は目をぱちくりさせて、少し考えたようだったが、すぐに答えた。

「水谷さんと言うと、私が入る前の頃に教育担当をしてたLDじゃないかな」


「…教育担当?」

真人は息を大きく吸って、思わず口を挟んだ。

榎本の様子にこれといった変化はない。美奈子の名前で真人や佳澄の正体を勘ぐられるようなことはないようだ。


「ええ。まあ、私は転職組で二年ほど前にここに来たばかりなんですけど。その直前ぐらいまでいたはずの人ですね」

「過去形ということは…。その人は、もういらっしゃらないんですか?」

と佳澄。


「いや、実はちょっと事故がありまして。その辺りの管理責任の関係もあって、私が外から採用されて来たんですがね」

「事故、ですか…?」

さも、初めて聞くような驚きの口調で佳澄が訊ねる。


榎本は気まずそうな顔に変わって小声になった。

「…あ、この辺りは、オフレコでお願いしますよ。私なんかはこの会社短いですから、そう気にしませんが。社歴の長い人には、この事故のこと、タブーのようですから」


「そうなんですか…」

どうとでもとれそうな相槌を打ちながら、真人の心臓は高鳴った。この榎本からは、もう少し当時のことを探れそうな気配がしてきたではないか。


同じ雰囲気を嗅ぎ取ったのだろうか、佳澄が続けた。

「どうしても、直接会ってでもお礼したいっていうお客さまでしたから、残念ですね。たとえばその、水谷さんが教育したスタッフとか、仲が良かった人なんていうのは、いないんでしょうか」


榎本はため息をついた。

「どうでしょうね、うちは離職率が高くて。まあ、うちだけじゃなく業界全体の問題なんですが…。一年を通してだと半分ぐらいの人が入れ替わるんですよね。その定着というのが永遠の課題でして」

「そんなに入れ替わるんですか。とすると、もう、水谷さんも、仲が良かった人とかも…」


「うーん…。うちだと現場の細かいところまではちょっと分からないんですよねえ。第何課に配属とかそういうところはもちろん総務人事で把握してるんですが、現場のことはもう現場次第ですから」

「そうですか…」


肩を落とす真人を、榎本は励ますように言った。

「まあ、丁度そろそろ、現場のLDの準備が出来ていると思いますので。彼女なら水谷さんの下にいたはずですから、訊いてみてはどうでしょうか」


「LDということは…当時の水谷さんと同じポジションですね」

佳澄が確かめるように言った。


「そうですね。水谷さんの下のSV(スーパーバイザー)から昇格しているんですよ。ちょっとだけ場所を変えて、現場のほうに行きましょう。そこでインタビューしてください」

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