「我々の世界は、空間として三次元の方向を持っていて、時間が四つ目の方向をもっている四次元時空の世界だ。これは分かるかな?」

「三次元じゃないんですか?」

「自由方向に移動が出来るのは三次元だね。だが、自由方向はないといっても、時間がなければ空間の位置を正確に特定することは出来ない。君達が待ち合わせをするときにあるビルを使うとする。平面上のビルの位置を示すX座標、Y座標と、何階にあるかを示すZ座標の三つだけで、会うことが出来るかい?」


佳澄が答えた。

「いつ、という時間を決めないと待ち合わせは出来ません。まあ、この人みたいに、時間を決めてもいつも守れない人もいますけど」

「なっ! 俺がいつ…」

真人は抗議の視線を佳澄に向けたが、佳澄は可笑しそうに目くばせをしてきた。会話の潤滑油として真人を出汁に使った、と、そういうことらしい。まったく。


「そうだよね。X、Y、Zの方向に、時間Tを加えた四つの座標が必要だね。純粋な三次元空間、たとえば立方体なら、時間は必要ない。X、Y、Zの三つだけで位置を正確に特定出来る。しかしこの世界はそうではなく、四つの数字が必要だ。四次元空間というのは、そういう意味だよ。逆に、四つの要素の一つでも欠けていると、正確な位置は表現できない。では、この世界は四次元時空と定義していいのか?」


真人は、安藤の問題提起の意図が分からず、眉をひそめた。

「四つ座標が必要だから四次元って、いま先生がおっしゃったじゃないですか」

「我々人間にとっては四次元だとしても、それで宇宙が本当に四次元と決められるわけではないんだよ」

と安藤が言う。


「あっ。あの…たとえ話でよく…。一次元の線しかない世界に生きるものには、二次元の面の広がりは認識出来ない。二次元の面に生きるものには、三次元の空間の広がりは認識出来ない。三次元の空間に生きるものには、四次元の時間の広がりは認識出来ない。ということは、四次元の時空に生きる私達には、仮に五次元以上の何かがあるとしても…?」

「そう、認識が全く出来ない。つまり、あるのかないのかを知る方法が全くないんだね」


「でも、あるのかないのか分からないんだったら、どっちでもいいって話になりませんか?」

訊ねながら真人は、モヤモヤした何かが頭の中でまとまりつつある不思議な感覚をおぼえていた。つい最近、同じような認識できない世界の議論をしたはずだ。


「ところがね、どうもこの四次元時空にあるエネルギーや物質は、バランスが取れていないことが分かってきた。宇宙空間には、色々な物質やエネルギーが満ち満ちているよね。そういうものは万有引力によって、お互いに引き付け合う。ということは、遠い遠い未来には宇宙はいつか縮んでしまうはず。だが実際には宇宙は膨らみ続けていることが分かってきた。反発しあっているんだ。これはおかしなことだ。いま我々が知っているエネルギーや物質の他に、未知の物質やエネルギーが95%近くあって、それが反発力の元になっていると考えないと、宇宙が成り立たないのだよ。そこで、我々が観測できないが確かに存在するものを、暗黒物質、暗黒エネルギーと呼び始めた。いま、その正体を探そうとしているのが宇宙物理学の大きなテーマの一つだね。これは衝撃的だったんだよ。何しろ科学者が予想していた計算結果が現実に合わなかったんだからね。我々人類は宇宙の一割も理解していないということが分かってしまったんだ。僕も定年間近だからね、この謎はこれからの研究者に託していくことになるんだろうが…」


安藤は静かにコーヒーを口に含んだ。

真人も佳澄も口を挟まずに安藤教授の次の言葉を待った。


「この、暗黒エネルギーのことを、違う表現で学会より前に仮説していたんだよ、清水君は。相前後して物理学の領域で出てきた考え方として、宇宙が四次元ではないという理論がある。ブレーン理論とか、超ひも理論とか、名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。宇宙は十次元、あるいは十一次元あるのだが、我々四次元にとらわれた存在にはそれを観測することは出来ないとする理論だ。そう考えるとね、色々な物理学上の矛盾が解消されるように見えるということで、いま研究が盛んなんだ。ところが、清水君はそこまですでに考えが至っていて、暗黒エネルギーは、その我々が観測出来ない次元に本体があり、この四次元世界にはごく一部が染み出しているだけではないか、と考えていたんだ」


「三十年ぐらい前の段階で、ですか?」

「そう。たとえば身近なところでは重力という力も、今ではそう仮説されているんだよ。電気の力、磁力、そういうように、物に働く力というのは、つまるところ物の間を、力を媒介する粒子が飛ぶからなんだが、電気や磁力というのは必ず正と負があるね。つまり力の入り口があって出口がある。それに、ものすごく強い力だ」

「え。磁石なんかより、重力のほうが全然強いんじゃあ? だって、誰も地球の重力には逆らえないじゃないですか」


「いやいや。たとえば磁力は、重力なんか軽く超えるよ。ここに磁石とクリップがあれば、クリップは磁石にくっつくだろう? それは、地球とクリップの間の重力より、磁石の磁力のほうが強いからだよね。重力の強さを我々が感じるのは、地球が我々に比べて圧倒的な質量を持っているから、というだけなんだ。仮に地球と同じ大きさの磁石があったら、その磁力たるや…」

「あ、なるほど…」


「重力というのは、色々異質な力なんだ。弱い力であって、他の力のようにプラスマイナスもない。それは、他の次元という方向に重力が染み出しているからであって、そちらに重力の大部分はあるんだ、と考える人がいる。清水君も、学生時代にすでにそこまでは到達していて、次の展開では、今でいうところの量子力学の多世界解釈をそこに適用していく考え方だったね。つまり、我々が認識出来ない次元がどういうものなのかの仮説を考え始めていたんだよ」


「いったい…他の次元とはなんですか? それが、多世界解釈とどうつながるって、彼は考えていたんですか?」

「さあ。我々にはどうやっても認識自体が出来ない世界だから、想像もつかない。ただ、さっきお嬢さんが言っていたね。こういう例で考えようか。二次元世界の生き物は、二次元がすべての世界で、高さという概念そのものが存在しない。XとYの座標があればすべてが決まるのだから。そのほかにZが必要になる世界など、二次元の生き物には表現する方法が分からない。しかし、二次元世界の住人が認識できず理解できないというだけで、三次元の世界は確かに存在していることになる。二次元の座標と直交する方向に、三次元はあるね」


「そうですね。一次元の線に直角の線を引くと二次元の面が出来ます。二次元の面に直角の線を引くと三次元の立方体が出来ます。…ということは、立方体に直角の線を引くと?」


「そうだね。数学の世界では、そう考えていくと何次元の世界でも計算は出来るそうだよ。数学には現実は必要ないからね。計算さえ正しければ。ただ、物理学ではそうはいかない。じゃあ、立方体に直交する空間とは何ぞやと言われても、想像がつかない。まあ概念だけで言ってしまえば、三次元の立方体を、時間というT軸の方向に直角に移動させれば、それが四次元の空間である、となるだろうね。我々がいる時空間とはそういうことだ、と」


「ひええ、いよいよ分からなくなってきたなあ」

「ははは。僕もこういう思考をするのは久しぶりだ。最近は研究というと数字と睨めっこでね。なかなかゆっくりと言葉を交わして議論、というのは久しいな。そうそう、清水君は議論好きだったよ。独創的でね。次元そのものを宇宙のようにとらえていたんだな。四次元では、空間に時間の座標が加わるね。つまり宇宙空間の中で正確にある「位置」を特定するには、XYZだけではなく、いつそこにあったか、というT情報が必要だ。それはさっきも話した通り。では、五次元になると?」


「五次元になると…?」

真人はオウム返しした。

理解の範疇は超えつつあるが、学生時代の兄様が考えていたことが、ここで見えてきたという確信があった。


「清水君は、四次元世界に多世界解釈を加えたものが、五次元以上の時空間だと考え始めていた。五次元以上の時空では、ミクロに折りたたまれた可能性が重なっていると考えた。まあ、迷路のようなものを考えてみるといい。分岐の数が多ければ多いほど、早い段階で行き止まりになるルートも多くなるだろう? …つまり有り得ない可能性のルートほど、その世界が持続していく確率は天文学的数字に下がっていき、すなわち存続時間が短く、その宇宙は膨らまずに高エネルギーのミクロ世界のまま終わる。終わる世界は、別の宇宙にエネルギーを引き渡して、別の宇宙がそこでビッグバンにより生まれる。それによって無数の可能性世界は膨大に増え続けることなく、常に一定の範囲で調和している。それが、清水君が卒業後に考えようとしていた仮説の概要だよ」


「ひええ…。良く分からないけど、ビッグバンまでいっちゃったよ…。すげえな…」

「まあ、仮説の上に仮説の域を出ていないし、穴も多いのだけれどね。しかし、着想力には目を見張るものがあった。当然、そのまま研究室に残ってくれるものだと思っていたのだけどね…。卒業して里に帰ってしまった…。惜しい人材だったなあ」

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