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「いよいよ満を持して、ってところだな」
上に向かうエレベーターで、真人は佳澄にというより自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「はい。何か…分かるでしょうか」
「さあ。ただ、行動することは無駄にはならないはずさ」
エレベーターを出て、絨毯張りの廊下を進み、安藤教授の研究室に臨んだ。ドアには「在室」のプレート。
「大学時代の兄様が師事した人…。この人が兄様の変節に何か寄与しているんだろうか?」
「私は、さっきの論文を見る限り、そうではないように思います。研究という意味では、順調だったんじゃないでしょうか。ただ、いったい何が原因だったにしても。その頃の兄様を知る人に会えるわけですから、ヒントが見付かるといいですね」
「いったいなんだろうな…」
研究室には呼び鈴が付いていた。押す前に真人は佳澄を顧みた。
「どういう説明でいこうか。君のことだから、何か考えてるんだろ?」
「そうですねぇ…。まあ、私が喋りますから、本多さんは適当に話を合わせてください」
「さすが。任せる」
呼び鈴を押してすぐに、中から声がした。
「どうぞ」
真人と佳澄は顔を見合わせてから、ドアを開いた。
「失礼します」
中は思ったよりも広かった。五十平米はあるのではないだろうか。
入り口付近から奥まで、白を基調とした一つの大部屋になっている。
物理学系の研究室というと、あまたの実験装置が部屋を埋め尽くしているような先入観が真人にはあったのだが、この部屋はそんなことがなく、意外に整然としていた。
左右の壁は書棚が占めていて、部屋の中央には机の島がある。それぞれの机には何台ものコンピューターや機械が置かれている。机によっては小さな天体望遠鏡が置かれているのは宇宙系の研究室ゆえだろうか。
だが部屋にあるものはそれぐらいで、あとは隅に良く分からない段ボールや箱が山積みされているだけだ。
奥のテーブルでコンピュータの画面に向かっていた小柄な老人がすっと立ち上がった。髪は禿げ上がって脇に白髪が残るばかり。細い眼鏡。優しそうだがどうにも頼りなさそうにも見える老人だ。
「いらっしゃい。ええと…」
怪訝そうな顔をする安藤教授に、佳澄がすかさずお辞儀をした。
「お忙しいところ突然申し訳ありません。実は、もう何年も前に東明大を卒業したOBなんですが、近くを通ったもので、つい…」
「おお、おお、そうでしたか。しかし、ええと…最近かな? うちのゼミにいたかな?」
「いえ。私達は先生から教わってはいないんですが、東明大に寄ることを言ったら、どうしても先生に挨拶だけしておけ、とOBの先輩に言われまして」
「ああ、そう」
「それが、清水雅俊さんというんですけど…。覚えていらっしゃいますか? もう三十年近く昔の卒業生なんです」
兄様の名を告げると、安藤のしょぼしょぼした眼が開かれたように見えた。
「ああ、清水君って…。あの清水君か! いや懐かしい。よく覚えてるとも。そうか、清水君か…。元気かな? 何をしているんだろう?」
「ええ、まあ…。嫌になるぐらい元気です。故郷で会社の幹部をしていますよ」
「そうか。それは何より。そうだね、彼は人の上に立てる人間だ。そのぐらいになってもらわないと困る」
安藤はうんうんと一人うなずいている。
「まあ、立ち話もなんだから、そこの椅子にどうぞ。いま、コーヒーを入れよう。インスタントでよければ」
安藤に手招きされ、真人と佳澄はテーブルから引き出された椅子に腰かけた。
湯気を立てるコーヒーがカップで出てきたが、ミルクと砂糖は二人とも断った。安藤はどちらも入れてぼそぼそと言う。
「医者には糖分を減らせと言われるが、これだけはやめられないよ」
「宇宙物理学の研究室というと、もっと色々な設備があるのかと思いましたが、きれいに整頓されているものなんですね」
佳澄が目を輝かせて、敬意を示すように言うと、安藤は肩をすくめた。
「私の研究領域では、ほとんどデータ収集と計算・シミュレーションが仕事だからね。観測は東京からでは無理だ。地方の天文台を使わせてもらうから、ここには高性能なコンピューターと文献があればそれで足りるんだよ」
コーヒーに口をつけ、安藤と佳澄の様子を伺っていた真人だったが、安藤の口は充分にほぐれているようだと見当をつけて、少し切り出した。
「しかし、三十年近く前の学生のことを、よく名前だけで思い出しましたね?」
「正直いうとねえ、他の学生は思い出せないこともあるが、清水君は特別だよ。私が駆け出しの頃の学生だし、私が教えた子の中でも彼は一、二を争う天才だったからね。あのまま一緒に研究を続けたかったんだが…」
「そんなに頭が良かったんですか」
「ああ。成績が良いというよりは、発想が奇抜でね。アイディアや着眼点が、凡人とは頭一つ抜けていた」
「えーと、暗黒エネルギーとか調べてたんでしたっけ?」
「そう、そう。今ではその名前で呼ばれているがね、清水君は、高次元からのエネルギー流出、そういう表現をしていた。当時はそういう名前ではないし、存在さえ誰も考えていなかった。もしあのまま清水君が研究を続けていたら、暗黒エネルギーの理論提唱では、世界の先を越していたかもね」
「その話に私達も興味があるんですよ。高次元からのエネルギー流出とは、どういうことでしょうか?」
「君達は宇宙物理学は?」
「専門ではありませんが、かじった程度でしたら」
「ふむ…」
安藤は、真人達に理解できる表現を探してか、少し唸ってから喋り出した。
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