寝具の中で朦朧としているときの真人には、途中で眠りを中断されずに済んだことをむしろうれしく思う気持ちが訪れた。

起きなければと思いながらも、身体を動かすことにどうしても同意をしない自分の全身にあきらめも感じ、再び眠り始める。


そうしてはっと目を覚ました時には、すでに部屋は暗くなりかけていた。

カーテン越しにやってくる太陽の光はすでに西陽の残滓だけになっていた。


佳澄からのチャイムも着信もなかった。おかげで死んだように眠りこけていた。

いよいよあの連中の生活サイクルに近付いてしまっているな、とぼんやり思ってから、それが現実なのではないかという恐怖に、突然駆られた。根拠などないが、あの意味不明な装置のそばにいたのだ。何が起きていたとしても不思議はない。この朝や昼間の気だるさもまさか。それに、今日、佳澄からの連絡が何もなかったことも。まさか、佳澄の身に何か――。


すでに夕方になっていたおかげもあるのだろうか、居てもたってもいられなくなった真人は文字通り飛び起きて、着替えもロクにしないスウェット姿のまま、慌てて部屋を飛び出し、隣室のチャイムを鳴らした。

チャイムからわずかの間にドアがロック付きで開き、佳澄が隙間から顔を見せた。まずその実在に少し安堵した。

「…本多さん?」

「佳澄ちゃん! 良かった。いたか。お、俺は、ひょっとしておかしくなったんじゃないだろうかと思って!」

「はい?」


真人は自分の表情が強張っていることに気付いていた。控え目なパニック状態であったかもしれない。

佳澄は最初こそ怪訝な表情だったが、すぐにうなずいてドアを開け、真人を招き入れた。


佳澄の部屋に入った真人は、軽い驚きでつい声を上げた。

「うわ…」

真人の部屋と同じシングルルームのはずで、調度品や内装は当然ながらすべて同じものであるというのに、なぜか印象が少し違う。

少し室内を観察してみて、その理由が分かった。一つは香りだ。真人の部屋では漂っていない、かすかなアロマのような香りがしている。その鼻孔への刺激が部屋そのものの印象を変えている。

もう一つは、備え付けの液晶テレビ横に置かれている小さなフラワーポットだ。紫と黄色の花が飾られている。最初は気付かなかったが、真人の部屋にはこんなものはないので、佳澄がどこかの花屋で買ってきたものなのだろう。

香りといい、佳澄の女性的な面を意識させられて、真人は少し困惑した。


「どうかしましたか?」

佳澄が怪訝な顔をする。

「いや…。さすが女子だな、と思って。同じ部屋なのにこれだけで印象がだいぶ違う。…なんて花? 俺、花とか樹とかさっぱりで」

「これは…パンジーですよ」

佳澄が微笑んで答えた。


「ああ、パンジー。言われてみれば分かるし、なんとなく知ってたけど、こうしてポコッとあると咄嗟に分からないもんだなあ」

「ふふ。じゃあ、花言葉とか、なおさら知らないんでしょうね?」

「花言葉ねえ…。さっぱりだな。バラが愛だっけ? そのぐらいしか」

「男性ですねぇ。そういうことも勉強しておくといいですよ」

「はぁ…、気が向いたらね」


真人が曖昧な顔で頭をポリポリ掻いていると、佳澄が椅子を引いて真人に示した。部屋の奥の小テーブルに椅子は向けられていて、佳澄自身はベッドサイドに腰かけ、テーブルを挟んで向かい合うようになった。


「いったいどうしたっていうんですか、本多さん。急に」

「自分でもこの強迫観念みたいなものがどこから来たのかさっぱりだけど…」

断ってから真人は、自分が夜の生き物になりかけているのではないかという疑いを吐露した。


「大丈夫ですよ、本多さん」

佳澄は笑うことなく、静かに言った。

「本多さんの目は青くなっていません。それに、いま本多さんを苦しめているものが何か、私、少し思うところがあるんです。だから焦らずに、今はたくさん休むことですよ。それが一番いいんです。そう思って、今日は何も連絡しないで待っていたんですよ」

「しかし…」

「本多さんは、真面目さんですね。きっと、真緒ちゃんのこととか、私のことを全部抱えこんで自分のせいだと思って、ご自分でどうにかしないといけないって、思ってませんか?」


「そりゃあ、今回のことは俺が発端になっているようだし、まだ何も解決なんてしてないし。君もこっちに来て色々大変だろう? 早速疲れてしまったみたいだったし…」

「もちろん、私、ダウンしましたよ。だからこそ、いいんですよ。本多さんだって。戦うのは本多さん一人じゃありません。私もいます。黒澤さんだっています。敵は大きいですよ。一人でなんでもなんてできません。押すばかりじゃなくて、引いて休んで士気を上げることも大切です」


「そりゃあ、理屈では分かるんだけど…」

真人は肩をすくめた。

「…そういう思いが空回りしているような感じがする。やらないと、って思うのに身体がついてこないんだ」


佳澄は大きくうなずいた。

「それは、やっぱり本多さんの身体と心のSOSですよ、きっと。気持ちと身体がずれてしまったら、元も子もありませんよ」


「……」

真人は腕組みをして唸った。もどかしさが胸の奥のほうで渦巻いている。

「くそっ。おかしいんだよな。夕方とか夜になると嫌になるぐらい冴えてるんだ。だからあいつらみたいだって思ってしまう。物凄く夜型になってるんだ」

佳澄は相変わらず穏やかに真人を見ていた。

「そういうときもありますよ。起きられないのは、仕方ありません。疲れてる時もあります。実は、私も今日は少し寝坊してるんです。一緒に、しばらく夜型でもいいんじゃないでしょうか。無理に朝から動かなくたって。ネットもあるんです。部屋から出来ることもいっぱいあります。しばらく、夜型生活でもいいと思いますよ」


真人はうなずいた。なんでもないような佳澄の一言一言だというのに、聞くたびに魔法のように少しずつ気が楽になっていく。

「そうしてもらえると助かるよ。…今、自分でも自分が良く分からないんだ」

「私も、パソコンを使って出来ることから始めていきますから。本多さんも、ほんのちょっとでいいですよ。少しずつ、出来ることからでいいんです」

「出来ることから…か」


「明日から、一日一個でも。その日に何をしたか、夜にお話しませんか」

「一日一個」

「そうです。何も阿賀流のことじゃなくてもいいと思いますよ。今日はトイレに行った、でも」

佳澄が嫌味な様子もなくそんなちょっとした下ネタを出してきたので、虚を突かれた真人は思わず破顔した。

「私は今日、お買い物に行きました。このお花を買ってきたんです。明日から本多さんも、なんでもいいんです、何か、やったことを一つ教えてくださいね」

「ああ、分かったよ。そのぐらいなら、もちろん出来るさ」


真人の心から、あせりのような混乱が薄れていた。

佳澄におやすみの挨拶をすると、自分の部屋に戻った。


「ははは」

一人、真人は笑った。

まだ寝付けない夜が続くかもしれない。だが、無理をする必要はないのだ。落ち着いていこう。

佳澄の言う通り、出来ることを一つずつ、だ。


部屋に戻って、寝る支度をしているうちに真人は、ふと、プリペイド携帯の充電がだいぶ減っていることに気付いた。


コンセントにアダプタを挿し充電しようとして思い出した。スマホのマイクロSDカードのほうに、阿賀流での取材データが残っている。


真人は、マイクロSDをスマホから取り出した。明日、佳澄が持っているパソコンで取り込もう。

そして取材データのことから連想して、出版社の北澤のことを思い出した。

いったいいつから経過報告を忘れていただろうか。

真人ごときに北澤がやきもきしている…とも思えないが、今のこの状況ではとてもではないが白琴洞のレポートなど書けはしない。少し猶予をもらう必要があるだろう。


出来ることを一つずつ、だ。


真人は北澤に電話をした。

北澤は相変わらずののらりくらりとした調子だった。真人が、詳しい事情は伏せつつ、白琴洞の原稿に時間がほしいと伝えると、快諾した。

「そうですか。いいですよ、切羽詰まったスケジュールで動かすつもりはないですから。まあ予算は少し取りましたから、年度内に校了がリミットですね」


ついでに、スマホは紛失したために電話番号が変わった、と伝え、これで北澤のことはクリアした。

北澤のほうから何も切り出してこなかったということは、やはり阿賀流で起きていることは全国区で報道されるようなことにはなっていないのだ。どこまでも隠されている。


仮に白琴洞の原稿を書くとしても、まず阿賀流で何が起きているのかを、きちんと整理しておくことのほうが先だ。あんな得体のしれないものが闊歩する土地に観光客を呼びたくはない。


北澤には悪いが、真人がまずやるべきことは観光案内の原稿ではなく、いま阿賀流で起きていることを記しておくことだとも思える。


その晩、真人は阿賀流での出来事を物語風に書き進めた。

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