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「あの」
「はい?」
「今日は、色々失礼なことを言ったり、疑ってかかってしまって。申し訳なかった」
真緒はキョトンとして目をぱちくり。すぐに微笑した。
「いえ、こちらこそごめんなさい。お話を聞いて、ご事情分かりました。それはそうですよ、私だってそういう状況なら疑うと思います」
「そのこともだし…俺は、自分が昔のことをうろ覚えなせいで、初めから阿賀流というものすべてを疑ってかかってたように思うんですよね。だけど少なくとも俺がここに住んでいたことは確からしいし。少しは冷静にならないといけない」
「あのう、本多さん」
真緒がおずおず口を挟む。
「ん?」
「せっかく誤解が解けたんです。敬語、やめませんか?」
「あ、ああ。そうですね。あ、まだ敬語だ」
「もう」
真緒が笑った。
「あの…。訊きたいことがあって」
「うん?」
「阿賀流にはいつまでいるんですか?」
「難しい質問だな。色々と調べたいことがある。それがはっきりするまでは滞在することになると思うけど…」
「調べたいこと…。さっきお話された、お姉さんのこととか、昨日のお宿のことですね?」
「そ」
「調べ終わったら…?」
「ん?」
「調べ終わったら、どうするんですか。東京に戻るんですか?」
「ま、そうなるのかな」
真人は適当に相槌をうつ。
今は先のことはほとんど考えていない。
真人が思っている以上にドンヨリした何かが目の前に横たわっているようで、その先の見通しまではとても今は考えが及ばない。
真緒は押し黙り、奇妙な沈黙が真人との間に流れた。
奥のほうからは、寛子と佳澄が何やら炊事をしている生活音。
真緒は静かに真人を見つめている。
沈黙が苦にならないタイプの人種なのだろうか。
上の空気味だった真人も、こうなるとだんだん真緒の目が気になってきた。
ただの自意識過剰ではなく、真緒の自分への興味の向け方には何かあるように感じられる。
寛子によれば、かつて真人達が、野球拳ごっこなる若気の至り的な遊びをしていたことがあるという。
まさかそれを今日までトラウマ的に引きずって、この身は真人のみに捧げるなんて妄念に支配されていたり…はないと信じたいが…。
沈黙にムズムズして、真人は自分から口を開いた。
「えと…ひょっとしてだけど。何かもうちょっと他に、俺に話したいことがあるんじゃあ?」
真緒はちょっと驚いた風に目をパチクリさせた。
「私から、もちろんありますよ。もうお仕事も終わっていますし。やっと本多さんとちゃんと話せます。佳澄ちゃんも、本多さんとキチンと話しなさいって」
真人はうなずいた。
それにしても、こちらには敬語を使うなと言いながら、自分はずっと敬語とは、マイペースな。
「本多さんは、小さい頃のこと、あんまり覚えてないんですね?」
「ああ。ところどころ思い出しそうな気もするけどね。あの吊り橋とか…」
「吊り橋ですか」
「そう。キャンプ場で見かけたよ。あれは小さい頃に見た気がするんだよな。やっぱり形が印象的だったのかなあ」
「そうですかあ」
真緒はぱあっと笑顔になった。
「他にはいかがですか?」
このタイミングで野球拳ごっこを口にして場を壊すほど真人は間抜けではない。
それとなく、外堀から。小さい頃の出来事、交遊関係、なんでもいい。阿賀流での生活を知りたい。
「あとはそんなに…。こっちにいたときはやっぱり君らと遊んでた時間が多かったのかな?」
「そうですよ」
真緒が目を細めた。
「だいたいいつも四人で」
「四人? 子どもの中に寛子さんまで?」
真緒が笑った。
「いやあだ、違いますよ。兄様です」
「あに様?」
「みんなの兄様ですよ。それもお忘れですか?」
「はあ…。いたようないなかったような」
モヤモヤ答えてみた真人だが、何も頭に浮かんでこない。
「いったいどこで俺は想い出をなくしたんだろうなあ…」
「仕方ないですよ。佳澄ちゃんもそう言ってましたし」
「佳澄ちゃん、ねえ」
真人はため息をついた。なんだってミス渋柿にまで心配されなければならないのやら…。
「何度も繰り返しますけど、都会は時間の流れ方が違いますもの。毎日忙しくて、たいしたことでもない小さい頃のことなんて、気に留めてもいられないんじゃないですか?」
「俺の場合さ、そういうことだけじゃないように感じるけどね」
真人は自嘲気味につぶやいた。
美奈子の影がちらつく。決して自分の記憶力ごときの問題だけではない何か。
「そうですか? でも、覚えていないということも、考えようによっては幸せかもしれませんよ」
「そんなことあるかい。人間は想い出と記憶があるから生きられるんだ。認知症がいいことである訳がない」
「忘れたくても忘れられないこともあるんです。田舎は時間の流れが緩やかですから、一つ一つの出来事が克明に」
話す内容と裏腹に、真緒は笑顔だった。ただうつむき加減で、どこか寂しげだ。
かつて何が、あるいは何かが、ここで起きたのかは分からないが、真緒の寂しい表情は真人の胸をくすぐった。
そう言えば真緒にしろ佳澄にしろ、ここに住んでいるというが、真人と同年代なら三十代。とっくに結婚していて不思議はない。
真人は真緒の左手を盗み見た。薬指に指輪はない。
ミス渋柿は…言っては悪いが未婚でもあまり疑問がないが、真緒の未婚は、おやっという感じだ。
まさか本当に、トラウマ的な何かを真緒に植え付けたのが真人だったとしたら、どうしたものか。
真緒には直感的に好感を抱いているだけに、それも満更でもないか、とつい考えてしまう軟派な真人がいる。
そんな真人のすっとぼけたお気楽思考と裏腹に、真緒のテンションは確実に下がっていくようだ。
「時間の過ぎ方が違うからって言い聞かせて。それだけじゃないって分かってはいても、やっぱり私は、私の時間が憎くてしょうがないんですよ」
「…時間が、憎い?」
「私の時間。私にとっての時間という概念。それはあまりにも長いんです」
「う~ん。よく分からないな」
「でしょうね。本多さんの場合は私とは逆ですし」
「逆? はぁ…」
真人は脳を必死に働かせようとしたが、それでも真緒の言葉がだんだん理解不能になってきた。
この感覚は、まったく未知の業界での仕事で食いつないでいた頃の感じと通じるものがある。
共通文化がないゆえの、下手をすると外国人以上に違和感を感じる会話感覚だ。
「だって、時間の長さは不変だろう?」
ひとまず話を続けようと、当たり障りなく会話をつなげてみる。
ところが、この言葉が真緒の何かに触れたようだった。
「時間が不変だなんて」
真緒にしては厳しい口調で吐き捨てた。
「だってそうじゃないの? 空間はどうにでも伸び縮み出来るし、前後左右上下どの方向にだって進める。でも時間は伸び縮みしないし、過去に戻ることも出来ない。ずっと変わらない一方通行の流れだろう?」
「そんなことないですよ。時間も伸び縮みするんです。佳澄ちゃんなら詳しいことが説明出来るんですけど」
「時間が伸び縮みするって、じゃあ例えばあるときの俺の一秒は二秒分になったりするかい。うるう秒とかそんなオチじなくだよ?」
「そういうことではなくて…。時間はただの変化の経過のことだから、時間は時間じゃなくて空間のことなんです。空間のありかたを表現するための手法の一つというだけで」
「…はあ。ん~…」
真人はまたも唸った。
「突然ムツカシイ話だなあ。時間は時間でしょう。四次元の世界だよ。空間が三次元でしょ」
「それが、そうではないんです。あるのは空間だけで、空間が四つある。それを観測したときの表現に時間という表現方法を用いてるだけなんです。ああ、もう、ごめんなさい、佳澄ちゃんならうまく説明が出来るのに!」
「佳澄ちゃん、ねえ…」
うまく説明出来るとしても、ミス渋柿から話を聞く機会は、精神衛生上、出来れば減らしたいものだ。
「ま、まあ、なんだな。そんなに難しく考えなくても。あれだろ、時間の進みが変わることがあるってのはわかるとも。特殊相対論だっけ? 光の早さに近付くと時間がゆっくりになるんだっけ?」
「そう言いますね」
「てことは、時間を早く感じる都会はスピードがのろくて、田舎はゆっくり時間が流れるから超高速移動中かな?」
真緒の反応はない。
少し冗談めかしてみたのだが、外したようだ。
そっと様子を伺うべく、瞳だけちらりと真緒に向ける。
そこで真人は面食らってつい身震いした。
真緒の瞳がじっとりと真人を見つめていたのだ。
瞳にはなんの感情も乗っていない。怒りも呆れも蔑みも。
それで真人は瞬時に悟った。今の冗談は無視されたわけでも見下されたわけでもなく、何かに触れたのだ。
真緒の何かに。
何に?
「違うんだなあ。そうじゃないんですよ」
佳澄が鍋を片手にやってきて、真緒に代わってそう答えた。
はっとして真人が瞬きすると、真緒の謎めいた凝視はすでに消えていた。いったいなんだったのだろうか。
「佳澄ちゃん」
真緒は微笑し、さっさっと鍋敷きを敷いてその上に佳澄が運んできた鍋を滑らせる。
「よかった、私だとうまく説明出来なくて。ご飯の仕度は?」
「出来たよ。お母さんも流しの整理が済んだら食べましょ」
「うん」
次いで佳澄は真人に声をかけた。
「本多さんも、どうぞ。真緒ちゃんとはどんな話を? お邪魔になっちゃったかな?」
「ああ、いや…よくわからないほうに話が行きそうだったから、大丈夫なんだけど…」
言葉を濁したが、真人はどうも引っかかった。
普通の会話の流れで相対論は出てこないだろう。真人が誘導していないからには、真緒がそれを話したかったのだとしか思えない。
「私も佳澄ちゃんみたく説明してみたかったんだけど、難しかったみたい」
「本多さんは、時間の話に興味が?」
真人は数秒考えて答えた。
「なくはない。ただ急に飛び出した話に面食らってね。まさかこんなムズカシイ話になると思わなかった」
「例えば、一般相対論なら、大きな質量があるものの周りでは時空が歪み、時間の流れは遅くなります。でもそれなら、人も物も都市のほうが密集しているのに、どうして田舎のほうが時間を遅く感じるのでしょうか。そこには相対論では説明出来ない何かがあるのかもしれません」
真人は首を傾げるばかりだった。案内所で意味不明な言動だった佳澄が、突然の理学部生ばりのこの解説。
「その程度の量の違いじゃあね。それに、時間の感じ方には主観が入るからね。相対性理論は観測者の感情まで考えちゃいない」
そう言ってやってきたのは寛子だった。
真人は目を丸くした。ただの食堂のオバハンかと思っていた寛子までこんな談義に参加してきた。一体どうなっている?
「都市は主観の刻み幅が短いんだ。観測の連続性が高い。それだけ変化を早く感じるからね。時間ってのはつまり観測された空間の変化のことだから…続きは分かるだろ?」
真人には分からなかったが、佳澄と真緒は理解しているらしく、うなずいている。
寛子は手際よく配膳を終わるとエプロンを外した。
「そう感じるとき確かに時間は早く流れている。だけど空間の変化量は、人間がいるかどうかとか、都市か田舎かなんて程度の物質量の違いには影響されない。そう流れている、ということと、そうある、ということは違う」
「このぐらいにしておこうよ。本多さんがそろそろショートしそう。いいよね、真緒ちゃん」
配膳をてきぱき進めながら佳澄。
「うん。本多さんにうまく説明したかったなあ」
「いいのよ、きっとそういう機会は来るから。さ、夜ご飯にしよう。本多さんも、ね。もう少し柔らかい話のほうが、ご飯もおいしいでしょう」
真人はしかめ面でうなずいた。
こんな会話が彼女達から飛び出したことは驚きで、それはそれで何か意味があるように思えてならないのだが、今はそれより村のことやら、もう少し世俗的なことを聞きたいのだ。
かくして、誰もが奥歯に物が挟まったままのような奇妙な雰囲気のまま、食事が始まった。
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