森のざわつく音を耳に、涼しい通路を少しずつ進む。

砂利敷きの通路は少しずつ上っていき、百メートルも進んだかというところで、左右から迫ってきた山塊に挟まれて今度は下り坂になった。


下り坂を十メートルも下りきると、通路は突然山に突き当たった。

岩は頭上まで張り出し、その表面に草が這い回っている。

通路の行き止まりに、とってつけたようなアーチが付いていた。


アーチには白琴洞入口の看板。

その横に、数字のプラ板を差し替える方式で、現在の洞内の気温が表示されている。


十三度。


鍾乳洞内の気温は基本的に年間を通じ一定なので、白琴洞の平均気温はおそらく十~十五度の幅ぐらいということだ。


国内の鍾乳洞のなかでは低めのほうだが、標高によるものではないだろうか。


いよいよ入口のアーチをくぐる。

色々な洞穴やら鍾乳洞をみてきた真人だが、洞に入るこの瞬間の新鮮な緊張感はいつも変わらない。


人類がほんらいは存在しない空間への侵入。地上から地下へ。

自分のいるべきではない非日常的な世界の入口。


真人は無宗教とはいえ、なんとなくささやかな祈りを捧げてしまう。


たとえば乗った飛行機が離陸するときなども、そうだ。少し通じるものがある。

人間には確固たる地面が必要で、空を浮くというのはどうしても落ち着かない。

地面から離れてはいけなかった、なんて言っていたのは、どこの天空の城の王女様だったか。


地面の下に降りていくときには、そんなふわふわした落ち着かない心理とはまた少し違うが、空が見えなくなるという圧倒的な不安感がある。


決して閉所恐怖症でも暗所恐怖症でもない真人だが、地底はどうしても人間ごときが手を出していいものとは違う世界に思えて仕方がない。


人間は地震の仕組みひとつだって本当のところはよく分かっていないではないか。


息を大きく吸って、真人は暗闇の中へ入った。


入口すぐの場所だけに、足元と天井近くに明るいランプが設置されていて、すぐに眼が暗順応した。


入口付近は、身長百七十五センチの真人が頭上を気にしなくてよいし、手を伸ばしても天井に届かないのだから、高さ三メートルはあるだろうか。

幅は、真人が両腕を伸ばすには少々狭い。二メートルあるかどうか。


足元はコンクリートできちんと舗装されている。観光洞としては必須事項だ。


壁、天井とも剥き出しの岩肌がしっとり濡れていて、足元のコンクリート通路の両脇には、豊かな水量の水が流れている。


おそらく外より少し暖かいはずなのだが、そのせせらぐ音が涼しさを感じさせる。マイナスイオンうんたらというヤツだ。


洞は奥に向かって少しずつ細くなりながら進んでいる。


真人はスマホで何枚か写真を撮りながら進んだ。

暗所での撮影だ。露出を最大にしても画質はたかが知れているが、そこは自分の類いまれなる筆力でカバーしようではないか。

書いていて自分でちょっと恥ずかしくなったが。


通路は高低差なく、少しくねって進む。天井と壁があっという間に迫ってきた。

岩はじっとりしたまま茶と鼠色のあいのこ肌を見せ続けているが、水路はいつのまにか姿を消していた。


あれほど賑やかに聞こえていた流水の音も、気が付くと失われており、自分の呼吸音と足音の他に、何の音も聞こえなくなった。


立ち止まって目を閉じ聴覚を集中させても、水音はまったくしない。

洞内の複雑な岩の形が、天然の吸収材となって、音の振動を消してしまうのだ。


静かになった通路をさらに進む。

自分の衣擦れの音さえ大きく聞こえる。


数十メートル進むごとに、特徴的な鍾乳石の景観を示すプレートが掲示されており、鮮やかなライトアップに照らされている。

ちょったした見所、というわけだ。


青や赤の鮮やかな照明で照らされているスポットが多いことには、観賞用だけではない学術的な理由がある。


洞内は日光から隔絶された空間で、太陽光線がないことで保たれている独自の環境と生態系がある。


たとえば蛍光灯の照明を当てると、太陽光にも含まれている電磁波を、その閉鎖環境に持ち込むことになる。

そういったことによる環境変化を最小限に抑えようとしているわけだ。


見所になっているポイントをカメラに収めながら、ひたひた歩く。


濡れた天井から落ちる水滴が首筋に滴って、どきりとした。


鍾乳洞は主に石灰岩で出来ていて、何万年、何十万年という長い間の、水とその石灰岩の相互作用によって形作られる。


流水は岩を削り、石灰岩から染み出たカルシウム分を含んだ水滴は、石筍や石柱といった、鍾乳洞固有の特徴的な構造物を作る。

文字通り、自然の力だけが作り出した偉大な芸術品である。


少しホール状になった場所に出て真人は、岩が折り重なったように圧倒的な重量感で迫る天井を見上げた。


規模の大小に関わらず、鍾乳洞という場所では、人は正面に気をとられがちになる。

暗さで視覚が制限されるゆえの動物的本能だろうか。


しかし、ここぞというときには真上を見上げるか、後ろを振り向いてみることを真人はおすすめする。


人工の地下構造物や廃墟では感じることが難しい、地球の力を全身で感じることが出来る。


四方八方を岩に囲まれ、頭上には圧倒的な重さの山塊が乗っている。


いつも鍾乳洞やら洞窟やらに潜るたびに襲ってくる強迫観念が訪れる。


いまこの瞬間に大地震でも起きて落盤が起きれば、即死かないしは生き埋めか。

いずれにしても、誰に知られることもなく真人の生涯はあっけなく幕を閉じる。


もちろん厳密に言えば、受付は真人が洞内に入ったところを見ているし、よこまちストアの女子達も、真人が白琴洞に向かったことを知っている。いつかは捜索の手も伸びるだろう。


そう考えてみることは出来ても、いまこの瞬間の圧倒的ともいえる洞内の迫力の前には説得力をもたない。


外界と隔てられた別次元。

日常的な文明世界から、どこまでも地球そのものに近づいていく自然世界へ。


その反転を、本格的な冒険とまではいかないが、割に易しく手に入れることが出来る。


ちょっとした非日常体験がお手軽に味わえる。

それが鍾乳洞というものの魅力の一つなのだろう。


静かな白琴洞を奥へ。

途中に、奥に枝洞があるとおぼしき、狭い岩の隙間が何箇所か見られた。


通路のすぐ横手に見えたこともあるし、そのままでは手が届きそうもない高さに、窪みのようになった奥に底知れず口を開けている隙間もあった。


寛子の話では、村中の地下に枝洞があるということだった。

それはさすがに誇張が入っているだろうが、分岐や未調査の洞があるということは確からしい。


ときどき滴ってくる水滴にひやっと首をすくめながら、ルートの最深部とおぼしき辺りにたどり着いた。


背は低いが少しだけ開けたホール状の空間になっている。


これまでのゴツゴツした感じの床と違って、眼前には白い飴状の鍾乳石が床一面に広がっている。

その白い床に水が張っていて、地底の池になっていた。

石の白さで池も真っ白に見えるが、池の水自体は透明のようだ。


洞内に滝や地底湖がある例は珍しくない。

岩手県の龍泉洞が世界的にみても代表的な例だろう。

ここのものは、それらに比べればせいぜい池というところだが、白さはなかなかに印象的なものだ。


天井から頻繁に滴が垂れて、儚くも涼しい音を不規則に立てる。

その滴りが洞内に反響して、何人かが重奏をしているようだ。


傍らに掲示されているプレートによると、ここが白琴洞の名前の由来となった場所ということだ。


真人はしばらく目を閉じて、天然の楽器演奏に聞き入った。


静かで暗い洞内に、ぴちょんぽちょんと不規則な水音。


ガラスの水面に、ぽわんほわんと広がっては消える波紋。


世界がきゅうっと縮み、水面だけが真人の認識している空間になる。

そしてまた、ぴん、ちょん。


ぼうっとしているとこのまま悟りでも開けそうな気がしてきて、真人は顔を上げた。


あとは、残りの見所を押さえつつ出口に向かうだけだ。

非日常から日常へ。


忘れずに写真を追加しつつ、頭のなかではモヤモヤと白琴洞紹介をどう展開するかと考えながら、再び歩き出した。


だいぶゆっくり歩き回ったが、とうとう出口にたどり着いた。


光に顔をしかめながら外へ出た。

少し涼しく感じる。風の力だ。


地底、鍾乳洞、洞穴。どれも好きだが、一方では外に出られたときのこの絶対的な解放感を味わうたびに、地底の底知れぬ力に震える。


真人は大きく伸びをして振り向き、自分が今までいた山塊を仰ぎ見た。


人間は、手のひらにうごめく常在細菌と同じように、大地にへばりついた微細な存在にすぎない。

圧倒的な地球の年月の前に、ひたすら畏敬の念があるばかりだ。


真人は手近にあったベンチに腰かけた。

ちらり腕時計を見ると、一時間近く潜っていたことになる。


中にいるときは興奮で気付きにくいが、鍾乳洞を歩くのはそれなりに脚力が要る。

アップダウンが多く滑りやすい道を、乏しい明かりで数百メートル歩くのだ。


少し休憩をしながら、記憶が新鮮なうちに、洞のことを振り返っておこう。

原稿の方向性ぐらいは、おおよそ今のうちに見当を付けておきたい。

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