真人は早速レンタカーに乗り、旅館に向かうことにした。


役場の辺りを抜けると県道は川沿いに少し進み、すぐに橋になっていた。

阿賀流に入ってからずっと見えていたこの川は、上神川(うわがみがわ)というらしい。


川幅は五十メートルかそこら。上流域らしく、河原の石はそれなりにごろごろした大きさをしている。


阿賀流の先の山間から湧き出て、いずれ他の川に合流して日本海のどこかに注ぐようだ。


県道は川の対岸に渡り、川岸に張り付いて緩やかに上り続ける。


夕暮れの道を道なりに十分足らず走ると、ほどなく目的の旅館に着いた。

何軒かの温泉旅館が集まっているようだった。


上神川はさらに細い渓流となって足下を流れている。左右の木立は厚く、頭上にまで被さっている。


道に沿って木の電柱が頼りなく立っていて、電線はそこに橋渡されているものだけ。

台風でこの電柱が倒れれば停電する、おそらくそんな土地だろう。


ここまでの車窓は、懐かしい感じがした。

もっとも、決して阿賀流自体の記憶が戻ったわけではない。


ぼんやりと郷愁を覚える日本の田舎風景。

これまでにたびたび訪れた鍾乳洞や景勝地に相通じる、ノスタルジックな感覚。


あくまでそんな景色がリフレインした懐かしさで、その意味では阿賀流村それ自体は、いまだに未知の土地とイコールだ。


昔、ここで暮らしていたのに、その記憶はない。

それでいて落ち着く。


人間の数が都市圏とは全く違う。

人間が減るとそれだけ時間の流れが緩やかになる。


真人の荒んで滅茶苦茶だったこの十年ほどの傷みはなんだったのかと自問する。


真人がボロ布のようになり、周囲の人も巻き込み傷付け続けてきたこの年月の間も、ここはほとんど何も変わらなかったのだろう。


それにしても寂しいものだ。

子どもの頃には見ていたはずの風景をロクに覚えていないとは。

記憶とはなんなのか。

赤ん坊はいつ頃から記憶があるのか。

記憶していることと、記憶を引き出せることの間にはどれだけの隔たりがあるのか。


もちろん、真人の脳のしわの何処かには、この土地の記憶があるはずだ。

それを引っ張り出すことも出来なくなってしまうとは。


脳内の信号はパイプのようなものだと聞いたことがある。


いつも使っているパイプは流量も多く、淀みなく、公共水道のようにほとんど無意識に使うことが出来る。

だが使われないパイプは、放っておくと忘れさられ、どんどん詰まっていく。


一度詰まったパイプは、掃除をして勢いよく水を通せば、また流れ始める。

掃除道具は、ここ阿賀流村で見付かるだろうか。

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