2-3
「紫苑?紫苑なのか?」
扉の右側、西日を背にして机の真ん中に座る少女。
横顔しか見えないけれど、スポットライトでそこだけが照らされているように輝く、見覚えのある少女が文庫本を読んでいる。
忘れるはずだった面影がそこにあった。
この少女が紫苑であるとは断言できない。けれど、僕は最後の最後でようやく会えた、そう思っていた。歓喜の海に、おぼれてしまっていた。溺死しそうなほどに。
後ろでは「どうしたの?」と百合が肩に手を置いてくるが僕はそれを無視して、自分勝手に少女に見とれてしまっている。
話したい。紫苑が転校してからの事、僕の思いすべてをさらけ出して、またあの時のように二人で。
高校デビューなんて、もうどうでもいいんだ。紫苑を忘れるための手段を、紫苑がいる場所で使うなんて、天地がひっくり返ってもできやしない。「ひさしぶり」そう、言いたい。
彼女がいるのならば、僕は踏み出そうとした一歩を元に戻すくらい造作もないことだ。
けれど、僕は怖い。怖くて、近づけない。
もしも、彼女が紫苑似の誰かだったら…もし僕の事を忘れてしまっていたら…僕はもう立ち直れやしないだろう。
出入りしてくる生徒は、見てはいけないものを見るような目ですれ違っているが、今の僕には視界の片隅にすらはいってはいなかった。肩にある百合の手の感触でさえ感じなくなるほどに、僕の考えは錯綜している。
こんな時まで僕はどうやれば最善か、どうやれば僕自身が傷つかないかだけを必死に模索していた。今の僕にはこれくらいしかできない。自分を守ることしかできやしない。
そんな、迷走から救い出してくれたのはずっと後ろで声をかけてくれていた百合だった。
勢いよく僕を180度回転させて、向き合うと思い切り頭を僕のおでこにぶつけてくる。
「どうしたの!しっかりして」
物理的な衝撃で湯気が出そうなほどにフル回転しきった脳が一度急停止する。精神的な衝撃が来る前に、目の前がぐるぐるしている僕の手を引いて、元来た道に連れて行く。
僕は半ば放心状態で抵抗することも、行動の理由を聞くことも想像することもできない。されるがままといった感じだろうか。
心配そうな顔で何かを言われた気がするが、鼓膜を刺激することなく通り過ぎてしまったようだ。いや、振動はしたが神経がうまく伝えられなかったのかもしれない。わかるのは頭突きによって揺れた脳は、脳みそとしての役割を全くと言っていいほど果たしていない、という事だ。
渡り廊下を抜けて校舎へ入り、職員室の前を通ってさらに奥へ足早に進む。そして、ある教室の前に来ると勢いよく扉を開けて中に行くと僕をベットの上に座らせた。
数日前までいた病院と似たような雰囲気と消毒の臭い。ここは保健室だ。
ようやく僕の脳が元の機能を取り戻そうとし頃、頭の上に何か冷たいごつごつしたものが乗せられた。
「大丈夫?苦しそうにしてたけど…それに私の声も聞こえていない様子だったし」
僕は自分の手で氷を支えて、大きく深呼吸をした。
「ごめん。ちょっと突然のことで…もう大丈夫」
気持ちも落ち着いてきたので、百合の方を体ごと向けて頭を下げる。
「ありがとう」
彼女がいなけれずっとあそこでフリーズしたまま動けなくなっていただろう。今思えば頭突きをかまして来たのは、見た目に似合わずといった感じだが、言及はしないでおく。あれで我に戻るきっかけになったのは確かだ。
「よかった。理由は聞かないけど、大丈夫ならよかった。今日はもう帰った方がいいわ」
「うん、そうさせてもらうよ」
今後どうするか、紫苑であろう少女とこれからの事は帰ってから考えることにしよう。今晩ゆっくり考えて明日に備える。
今、僕にできることと言えばそれしかないだろう。
「じゃあ、行こっか。匙くんは電車通学?」
「そうだよ」
「そっか……私も同じだから駅まで一緒に帰りましょ」
少し彼女の表情が曇ったように感じたがすぐ元に戻ったし、一日しか関わっていないので勘違いかなと受け流す。
お互いが鞄を持って来ていたのでそのまま保健室を出て、学校を後にした。
帰り道はほんと他愛もない話ばかりで盛り上がった。百合が僕に気を遣ってくれていたからかは知らないが、本と学校の話は避けていたように思える。友人に一番近い感覚を覚えながら歩いていた。
けれど抵抗が少しあるのも確かだ。少女を見てしまった僕は踏み出そうとした一歩を半歩ほど引いた感じになっている。片足で不安定に停止している。そこからは一ミクロンさえ動きやしない。
駅に付き百合が切符を買っていたのには驚いたが(長期的に見て安い定期での通学が一般的なのだけど)、彼女の事情やこだわりだろうと思う。
「委員長として、一緒に帰るクラスメイトを見送る義務がある」
と、よくわからない理屈で自分が乗る電車のホームと異なる、僕が乗る電車のホームで待ってくれている。「そんな、いいよ」と断ったが、頑なに付いてくるので諦めて一緒にいることにした。百合は意外と大胆で頑固だ。
電車が到着して、「さよなら」と乗り込む。
彼女は、僕をずっと見たまま、視界から消えるまで手を振っていた。その顔が名残惜しそうに見えたのは僕の自惚れだろうか。
けれど確かに僕の瞳にはそう映ったんだ。
電車の中では、一日すっかり忘れていた「記憶を司る者」についてを考えていた。紫苑の事を考えると自分がどうなるかわからないし、さっきみたいに誰かが助けてくれるとも限らないので頭の片隅に追いやる。
「記憶を司る者」って長くて呼びずらいので「メモリー」とでもしておこう。なんの捻りもないが、前者よりはましだろうし。
そのメモリーについては何の答えというか、仮設を立てられないまま家までついてしまったが、明日以降真剣に考えることで一旦寝かせることにする。
帰宅後はいつも通り、両親がいないので鈴と二人でご飯を食べて、寝る前、一般的に誰でもすることを済ませて自室へ入る。
僕が今、本当に悩むべきことはここからだ。高校生活を送るうえで最も重要事項として、唐突に浮上してきた問題。
紫苑と思われる少女にどうアプローチするか、だ。あと、根本的にアプローチしようか、しよまいか。
これまで僕は紫苑に対して「現象的片想い」を続けていた。
あの日の公園では「本質的両想い」だったかもしれないが、彼女が僕の日常からなくなった時から、僕は幻想の紫苑を本物の紫苑とし、恋をしていた。中学になると、紫苑の面影、あの日の紫苑に恋をし、縋っていた。
その時点で僕は今の彼女を、きちんと見ようとしていなかった。僕の中の紫苑が変わるのが怖かったからだ。だから、毎日彼女がいない図書室に「番人」と呼ばれるほど入り浸っていたのかもしれない。
図書室の少女を見てから、目の当たりにしてからはそう思っている。
当然のことながら紫苑に似ていると言っても歳相応の変化はしており、昔も大人びてはいたが、より幼さは抜けた感じだった。体つきも髪型も、高校生らしくなったといった様子だ。
「美人だったな」
思わず漏れた言葉に一人で照れながら、首を左右に振って切り替える。誰かに見られていたら完全に変態のレッテルを張られていた…。
まぁいい。
紫苑であってもそうでなくとも、一応話してみよう。
ここで、話さなかったら気になって「現象的片想い」は続き後悔すると思う。それに片足立ち状態からは抜け出せない、そんな気がする。疲れるだろうし…。
けれど、僕は臆病だ。
いざ話そうとするとまた立ち止まってしまうかもしれない。だから、少女を紫苑だと思わないようにしよう。
本人だと思って違うより、そっくりさんだと思ってそうだった方が心の傷も浅く済む(そもそも忘れられていたら立ち直れない、が本心たけど…それは考えない)。
そして、彼女から気付いてくれたらそれでいい。そうじゃなったら話している中で確信が持てたら僕が確認しよう。
予想外続きで何度目かわからない決意をもう一度固め直す。もうこれで終わりだと心に言い聞かせて…。
「久しぶり、紫苑」そう言うのが、一番いいのだろうけれど、僕にそんな勇気はない。
だから僕は明日、図書室であの少女を見つけたら、まずこう言おう。
「隣いい?」って。
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