1-5
‘…私は…ど、どうなってもいい!…わす…たく……い、けれど…さ…を…’
少女の声。そう、必死に叫ぶ、少女の声だ。
嗚咽交じりに、嘆き、祈るように叫んでいる。
何を言っているかは途切れ途切れにしか聞こえない。なぜ僕が声を聞いているのか、それは僕に向けて言っているのか、それとも他の誰かに言っているのか、わからない。
少女は自分自身を犠牲にしてまで何かを頼み込んでいる。そんな気がする。
この部屋には僕一人しかいない、それに何も見えないのに。
けれど、ノイズ混じりだけれど、その言葉だけは、はっきりと聡明に聞こえる。
『‘助けて’』
瞬間、光が迫って来て、僕の意識は現実に引き戻された。
一週間後退院です、そう告げられて今日がちょうど一週間目だ。
午前中には病院を出なければならないので、入院中の着替えなどを鞄に詰めていく。
両親は来るわけがないが、休日という事もあって、朝早くから鈴が来てくれているから救われる。蘭子さんも手伝いに病室に来てはいるが、特に荷物が多いという事でもないので、持て余しているようだ。
僕は彼女に感謝している。暇つぶしのお話相手、だけでなく精神的な寂しさ、空白を少し埋めてくれたような気がする。蘭子さんは、僕の事を「友人」と言っていたが、僕は、彼女の事を「姉」のように感じていたのかもしれない。
興味はないが、嫌いじゃない。そんな存在。
「今日までありがとうございました。準備はすべて終わりましてので帰らせていただきます」
「了解。けど、もう帰っちゃうのね」
相変わらずの上目遣いで「さみしくなっちゃう」と口を尖らせる。
子供か、と言いたくなるが、やめておこう。
「また、良い話し相手が見つかるといいですね」
「その言い方、他人事みたい…。まぁいいわ、いいわ」
蘭子さんはこれからも、楽しいことがあると言いたげに、笑みを浮かべている。気にはなるが、病院から出れば他人になるので、僕は聞かない。
「そうだ、ちょっと携帯貸てくれるかな?」
友達がいない僕は、蘭子さんがなぜそんなことを言って来るかが理解できなかったが、悪用されることもないと思ったので、「いいですよ」とすんなり渡す。この時点で、他人になるという気遣いは無駄になったのだが、全然僕は気付かずに、手際よく入力していく彼女を見ている。
「お兄ちゃん、この人とどう言う関係?」
鈴が耳元で聞いてくるけれど、どういう関係と聞かれて即返せる的確な関係の言葉を僕は思いつかなかったので、
「気が合う隣人みたいなものかな」
と、だけ答えておく。
鈴は納得していない様子ではあるが、蘭子さんが入力を終えて、携帯を僕に渡して来るので回答を保留してくれるようだ。この時、画面を見て何をされたか気付く(「蘭子お姉さん」と登録したメールアドレスの画面を、わざとらしく表示したまま渡されたから)のだが、こんな経験のない僕は、反応に困ってしまう。
「困ったことがあれば、連絡頂戴ね」
僕の心情を読んだかのように、ニヤニヤしながらウインクしてる姿に、苦笑いしかできない。本当に怖ろしい人だ。
うろたえている僕に、もう帰ろうと、鈴が脇腹を小突いてくるので、会話を終わらせて外に向かう。
「時間もあるし、玄関まで送るよ」
蘭子さんがそう言うが、断るわけにもいかないので一緒に部屋を出て、エレベーターを降り、受診者のいない受付を通って自動ドアを出る。
ようやく、暇な病院を出れる喜びと、出遅れはしたが知り合いのいない新しい学校生活への期待で、意外と前向きな気分でいる。しかし、不安も無きにしも非ず。現に久しぶりに両親に会うことを考えると、帰宅するのが憂鬱になる。
春の穏やかな陽気に触れたからだろうか。ふと、脚を踏み出すのが怖くなり、立ち止まってしまう。
不思議そうに「どうしたの?」と僕を見つめる鈴は、両親の事で家に帰るのに渋っているのだと思ってか、「大丈夫…私がいるから」と服の袖を掴む。
その気持ちはうれしいし、大外れというわけでもない。だけれど僕の恐怖の根源はそこではない。
〝紫苑のいない日常。非、日常がまた始まる″
小学生の時から情けないが、この空気に触れるといつもそう思ってしまう。ある意味一途と言えば聞こえがいいが所詮僕は僕自身の、心の安寧、を紫苑に押し付けているに過ぎない。
病院では蘭子さんが、代役として、その役割を果たしていてはくれたが、これからそうはいかない。
――トンッ
後ろから力強く、しかし痛みは全く感じないように背中を押される。暖かみのある優しい後押しだ。
「ありがとうございます」
誰がしてくれたかわかっている。ほんと、怖ろしい人だ。
「鈴もありがとう。僕は大丈夫だから、心配しないで」
勇気が出た。
まずは、心から鈴のお兄ちゃんになれればいいな。そんなことを思いながら「ほんとぅ?」と見上げる彼女の頭に手をのせる。照れながら目をそらして、でも満足げなのを見て、お兄ちゃんに一歩近付けたのかな、なんて己惚れてみる。
まぁこんな日も嫌いじゃない。
「では、失礼します」
微笑みながら、見つめる蘭子さんに深々と、ありったけのお礼を込めて頭を下げる。
「頑張り給え!少年」
何時代の人だ、と心の中で突っ込みつつどこか心地よさを感じる。
僕が変わる一歩として、不器用でもいい、らしくなくていい、おでこの前に手を持っていき、
「はい、頑張ります」
少々、迷走している感は否めないが、初めての試みなのでしょうがないと割り切る。
蘭子さんも僕と同じ、敬礼の格好をして答えてくれる。
「では」
僕は、荷物を持ち直して病院に背を向けて一歩を踏み出す。
どんどん離れて行っているのに、蘭子さんはずっと手を振り続けていた。
そして、門を出て曲がる前にもう一度振り返ってお辞儀をすると、
「少年!君には期待してるよ!だから…きっと紫苑ちゃんも待ってるはず」
最後の方はよく聞こえなかったが、頑張れと言う文面だと思い、「はい!」と返事をして、家路についた。
「……きっと、君は私の期待に応えてくれるよね?匙君」
不敵な笑みを浮かべ、建物に入っていく女性のことなんて知る由もない僕はファミレスに寄って帰ろうなんて呑気に話しながら歩いていた。
携帯のバイブレーションを無視して。
携帯に届いた序章のメールに気付いたのはその日の夜だった。
帰宅すると、休日なのにも関わらず両親は仕事に行っているらしく玄関は静かであった。彼らは多忙なのだ。
僕は家の前で力が入っていたようで、一気に力が抜けたので安堵しているのだろうと思う。やはり、両親と会うのは、必然的に会ってしまうのは、慣れない。
そんな僕に気を遣ってか、鈴は僕の肩に手をのせて、心配そうに「大丈夫?」と、覗き込んでくる。
「大丈夫だよ。久しぶりに外歩いたから疲れたみたい。少し昼寝でもするよ」
「わかった。おやすみ」
僕は出来すぎた妹に感謝しなければならない。けれど……。
「おやすみ」
これ以上考えるのは野暮だ。せっかく一歩踏み出したのだから後退するわけにはいかない。こんな心の愚行を抑えるように僕は足早に自室へと向かう。
数週間いなかっただけなのに妙に懐かしさを醸し出す部屋に入り、端子を開けて布団を床に敷く。慣れた動作だが以前より少し疲れる。
寝転んで、目を瞑ると以外にも早く眠りに落ちた。
少女の、叫び、を聞いたのはこの時で、僕は夢だと思ってしまった。
僕が目を覚ましたのは、もう時計が八時を指した後の事だった。
携帯に時間表記を見て、寝すぎたかな、なんて思いながら何気なく届いていたメールを確認する。件名は「期待のホシへ」だ。怪しいと思ったが、不思議と僕はそのメールをごく自然に、半ば無意識に開いていた。
『ワタシはキミに期待している。
キミの命はカノジョの大切なものによって救われた。救われてしまった。
キミが守ろうとした事によって、キミが守られてしまったんだ。
実にいいよ、ワタシが求めていたのはキミたちのような人間だったのかもしれないと思うほどに。
だから、儚き者には試練を与えることにした。
カノジョの大切なものを、「鍵」を探しだせたのならば、キミたちお互いの命を救ってあげよう。
けれど、それが達成されなかったとき、キミたちのどちらか、もしくはどちらもが死ぬことになる。
猶予は11か月。事故からちょうど一年後だ。
せっかくだからお気に入りのキミにはヒントを上げるよ。「記憶の欠片は、心の中に」
じゃあ、健闘を祈ってるよ。』
普通であれば、こんなメールはいたずらだと、誰もが無視、および消去、あるいは着信、受信拒否をするであろう。
だけれど、僕にはなぜか真実だと、理由なくわかってしまう。僕がおかしいのだろうか、心がいかれてしまったのか、それともこのメールには精神干渉するような非科学的な何かがあるのかはわからない。
けれど僕の頭は、脳みそは、事実である、カノジョとやらを助けなければならない、そう思ってしまったのだ。
もう一度内容を読み返して、戻ってみると送り主の名前が登録されていた。「記憶を司る者」、そんなふざけた名前だ。
明日から学校だというのに、変な不安要素を抱えてしまった。
そう思った刹那、急に睡魔が僕を襲う。お昼からさっきまで、結構寝ていたのにも関わらず。考えるなと言わんばかりに僕の意識を遠くへと、いざなっていく。
抵抗する暇もなく、僕は光を見失った。
始まりの宣告は、カノジョと僕を引き合わせる、引き合わせてくれることにも気付かぬままに。残酷な明日は、奇妙な未来へと僕を引きずり込む。
僕の突飛な非日常の幕開けは、唐突に、無慈悲に訪れた。
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