Sweet Christmas

里田慕

Sweet Christmas

 まったく、どうにもむしゃくしゃする夜ってのはあるもんだ。


 これはもう、その日の気分がどうとか、そんなんじゃない。原因だってあらかたわかってる。


 だいたい、アホかって言うんだ。


 そりゃ、そんなでっかい会社じゃないから、それなりにやりくりせにゃならんてのはわからなくはない。少しくらいのちょろかましに目くじら立てるほど、私だって若くはない。


 だからってさ……。


 うぅ、飲んでやる。

 口をつけると、空になったビール缶を床に投げ出して、冷蔵庫の中を覗く。もう一本、もう一本っと。


 だからってさ、しがないパート社員に経理を全部任せて、あそこまでやらせるか?

 どこか雑費だよ。あんた達のふところ銭じゃんか。

 素性も知らん私にこんなことやらせてさ、ドーンと机にふんぞり返って、お、その領収はこっちにつけといてくれ、な~んて、よくも言えたもんだ。

 税務署に持ってたら、一発で追徴課税うん千万だろ?


 何にも知らんと思ってるのかね。

 それとも、頭の中に別の味噌がつまってるのか?

 はぁ、まったく。あれでヘイへイとしてる神経って、どう解釈すりゃいいもんか。パートの私にゃ何もできんと思ってるのか、どうせやめれんとタカくくってんのか、女が叫んでも誰も聞かんと思ってるのか……。


 はあ……。考えてる自分がバカみたいだ。あ、このチーズ鱈うまいな……。

 能天気に笑うTVの音がうるさい。切ってやる。


 何となく携帯を持ち上げて、ディスプレイを覗きこんだ。

 だいたいさ、昨日から何で出ないんだよ。


 履歴の最初の番号を発信して、ひといき待つ。――ダメだ。でないよ。


 ふぅ。


 大きく息を吐いてから、黄色く光る蛍光灯を仰ぎ見た。う~む、ユラユラ、ユラユラ……。

 ちっと、酔ったかなぁ。


 くそお、出会い系にでも繋いでみっか。


 ボタンを押して、ネットに繋ぎかけて、ベッドの上に放り投げた。


 やめやめ。こないだ、ひどい目に会ったもんな~。

 わけのわからんエロ話に持ちこもうとするバカ男。何でメアドなんて教えちまったかなぁ。おかげで、手間ばっかかかった……。


 いや、違うだろ!だいたい、松雄が……!


 と、着メロが鳴った。後ろにそっくり返って、投げ出したばかりの携帯を掴む。


「はい、多佳。へろへろ~」

『あ、あんた、飲んでるね』

 呆れたような声が聞こえた。


「悪い?」

『別に。まだ八時だから。ねぇ、素子、昨日ビデオとった?』

 あぁ、そうだ。月曜九時のあれ。昨日、見逃しちゃったんだよね。わたしも多佳に……。


「あ、あんたも、見逃したの?」

『あ、とってないな~。たく、超盛りあがるとこだったのに。事故の後、どうなるかっていう……。あ、そうだ』


 がさがさと音が聞こえた。


『あのさ、あんたどうせあさって暇でしょ。クリスマスだし』

「まあね……。決めつけられると、ちっとやだけど」


 多佳の丸い顔を思い浮かべつつ、ベッドの上に飛び乗った。


『頼みごと、してもいい?』

「いいけど。高くつくよ」

『ジーニョのランチで手打たない?』

「へいへい。で、何よ」


 多佳の頼み事は、店頭販売されるコンサートチケットの購入だった。たく、なんであんな、女子供に人気のあるアイドルグループのチケット、クリスマスに販売するかなぁ。かえって売上落ちるのと違うか?


『じゃ、よろぴくね~』

 携帯からの声が消えると、枕の上にばったり。


 ま、いいか。あのイタメシ屋のランチ、うまいしなぁ。どうせ、クリスマスに用はないし。


 ベッドの向こう、レースカーテンにはにじんだ光。酔っ払ってるせいかな?余計にぼんやり見える。

 街の音がちょっとだけ耳に届いて…って、このメロディも目茶苦茶聞き覚えがある奴だ。

 まったく、なんでこの時期になると、猫も杓子も聖夜、聖夜かなぁ。

 いつまでお幸せゲームやってんだよ、この国は。


『ぐたぐたしてもらっちゃ困るんだよ。まったく、あんたは!』


 面白いもんじゃないよな、あんなお祭りごとを支える立場になってみれば。

 クリスマスって言えば――まあ、その他の日だって大して変わらんかったが――ばたばたした修羅場ばっかりが思い浮かぶ。


 ずんだらなオヤジに、口ばっかのオフクロ。どこぞの名店で修行――なんて肩書きなぞあるわけもない、しがないケーキ屋。

 もっとも、クリスマスにかき入れなきゃどうにもならん、てのは当たり前だけど。


 はあ、寝よ寝よ。ホント、つまらんことばっかり思い出す。なんもかんもがうまくいかんような。

 こういう時は、さっさと寝るのが吉、吉。




「この請求、何よ!」

「いや、それは……。まあ、そのさ」

「ある分で飲めって言ってるでしょうが。あんた子供?」


「いや、ついつい、なあ」

「また、ホイホイおだてられたんでしょ、むこうだって、わかってやってんだから」


「いや、わかってるけどさ。でもさ……」

「とにかく、しばらく出入り禁止にしてもらうからね」


「……悪気はないんだよ。ママさんも、舞ちゃんも……」

「悪気のあるなしで食べられてりゃ、何にも言わないよ、わたしも。だいたい、クリスマスの稼ぎ、一月で使う人間が何処にいるっての?

 この間抜け」


「……ッチ。俺だって、好きで飲んでんじゃねぇよ」

「あ? 何?好きじゃなきゃ、財布の底まで誰がはたく?

 あんた、考え方が間違ってんの。わかってんの、このアホ!」


「姉ちゃん」

「ん?」

「今日のは結構ひどいね」

「んん、やらしときゃいいよ。私はもう、諦めた。お前も、寝な」

「うん……」




 ホント、寒いなぁ。もっと分厚いコートにすれば良かったか。

 リダイヤル、と。……やっぱ、ダメか。

 

『電源が入っていないか、電波の届かない所に』の自動メッセージ。多佳の奴、長須とよろしくやってるとこ、ってわけか。

 お、いかんいかん、嫉妬モードだわ。


 それにしても、いきなり店頭発売中止はないよな。そんなら最初から期待させるなって。

 チケットショップ前のちょっとした騒ぎを思い出す。ま、私はあの連中に興味ないからいいが、もしLOVEなアーティストだったりしたら……、やっぱあれくらいは荒れるだろうなぁ。っていうか、あの程度で済むか?

 係の兄ちゃんに一発蹴りくらいは入れてるかもしらん。


 う、ひどい風。コーヒーでも一杯飲んで、家に帰ろうかな。

 それにしても……、全然連絡がとれない。

 もう、これで四日め。仕事が忙しいのはわかってるけれど、何も連絡してこないってのはおかしくないか? 夜自宅にかけてもダメだし。

 まったく、松雄の奴。普通の女ならそれだけでオシマイだぞ。この時期に連絡一つよこさん時点で。


 余計な気を遣わないでいいから楽だよ、お前って――そりゃ、お互いだけどさ、なんか蔑ろにされてる気がしないでも……。


 十二月だとさすがに寒いオープンカフェ。それでも、あっちでもこっちでも、カップルが湯気を立てるコーヒーに口を近づけている。

 うあ、ベタベタしてるなぁ……。よく恥ずかしくないもんだ。

 げ、思いっきりキスしてるな、アイツら。昼間だってのに、目の毒だ。


 電車に乗ってからも、どうにも目に付くバカップルの姿。

 まあ、それを気にする私も私か。まったく、踊るあほうに見るあほう、どっちもこっちだよな。


 駅を出ると、もう日は西に。何とも日暮れの早いのは、やっぱり十二月。今日も、なんてことはなく過ぎてしまった。

 ――さて、明日からまた、あの馬鹿おやじどもに使われなきゃならん。


 ん?


 アパートの前の路地に、見慣れた車。

 シルバーの四角い、名前は何て言ったっけ……、あ、やっぱり、松雄の車だ。


 空っぽの運転席を覗き込みながら入り口の階段に足を乗せ掛けると、踊り場から響いてくる足音。

 上を見上げると、見慣れた角刈りの顔が顎を寄せていた。


「おお、素子。出掛けてたのか」

「……おひさ。どうしたんだよ、携帯、出ないしさ」

「お、おお」

 少し垂れ気味の目が寄せられて、唇が尖った。ちょっと照れ気味な顔。


「悪かったな。ここんとこ、忙しくってさ。所長の奴、俺を過労死させる気かっての」


 踊り場まで上がって、ハーフコートを着たでかい身体の横に並んだ。


「……やっぱりそっか。ま、許す。顔見せてくれたしさ」

「おおこわ。面通しってか。……む、それとも、やっぱりクリスマス?」

 無遠慮に見える口元が、にやっと笑いを返す。


「なに調子外れのこと言ってんだよ、違うって。今だって、バカップル眺めて鬱陶しくて死にそう……、おい、なんで下りるんだよ」

「いや、もともと、お前連れ出すつもりだったからさ。何か予定あるのか?」

「いや、別になんもないけどさ……」

 じゃ、いいだろ――いつも以上に強引な松雄の背中について、車に乗り込んだ。……ま、いいか。


 乗り慣れた車の助手席。

 環状線へハンドルを切る松雄は、いつもと変わらない調子だった。どうやら、ホントに忙しかったらしい。

 まぁ、こいつの仕事は外回りだからなぁ……。今回は、私の方がちっとむしゃくしゃし過ぎてただけかもしれない。


「お前んとこも、相変わらずだなぁ」

 一通り会社の悪態をつき終わる頃には、車は郊外へ。お、これは松雄の家の方じゃんか。


「なんだ、あんたの家の方にいくの? 私のとこでめし食っても同じじゃない、それなら」

「ま、いいじゃんか。たまにはさ」


 長男の松雄は両親と同居している。まあ、付き合って二年間、すっかり公認の仲ではあるんだけれども。


 流れていく道路の両側の景色には、ところどころに煌びやかなネオンと飾り付けが見える。車が停まれば、何処かで聞いたようなメロディばかりが流れ込んでくる。


「お前さ、ほんとにクリスマス、用なしにしてるよな」

 車線が増え、窓の外の景色が流れを早め始めると、松雄はポツリと言った。


「ん…、まあね」

 黒いポロシャツの胸元を探る手。箱を振ると、口を近づけて煙草をくわえる角張った顔。


「あ、悪ぃ」

 ライターを擦って火をつけてやると、松雄は少しだけ窓を開けた。

 こいつがモク吹かす時って、だいたい何か……。


「……理由知ってるじゃん、松雄。ウチの親、ケーキ屋だったからさ、この時期って言えば、ろくな思い出がないって……」

「まあね」

「盛り上がる奴はご自由に、って感じだけど、私はどうもねぇ。どうかした?」

「いやさ。お前と付き合い始めたのがおととしの秋だろ。クリスマスも3回目だしさ、たまにはらしいことしてもいいかな、と思ってさ」


 環状線を走っていた車は、街路樹が並ぶ交差点で突然に左折した。


「いいって。なに考えてるのかしらんけど」


 松雄の住む街まではまだ数キロ。こんなところで曲がっても、市街に戻る格好になる。何を企んでるか知らんが、こいつらしくない。


「まあ、いいだろ。ちょっと寄りたいところがあるだけだからさ」


 踏み切りを渡った車は、どこか見覚えのある通りを走っていく。

 大学のキャンパスの横を過ぎ、商店街を過ぎ、古い住宅街の中へと進み……。


 ――おい、まさか。


「松雄、ちょっと待てよ、なんでこんな方に用があるんだよ」

「何だよ、買い物するだけだって」


 数年ぶりに見る寂れかけた街並み、買い物、クリスマスの話題。

 三つの要素が重なった瞬間、少し険しい表情で煙を吐き出す唇から、煙草を奪い取った。


「もしかして、お前、私の家に? やめろって……つまんないことは」


 緑のネットの張られた広場の隣で停車すると、ウィンドウの向こうには昔のままの細長い校舎。


「まったく、なんでそう、話の通りがいいかな、お前は」

 ウィンドウを下ろすと、松雄は小学校の方へ視線を逸らした。


「だから、くだらないことはしなくっていいって言うの。こういうのは、個人の問題でしょが」

「まあね。でもさ、それがそうでもないんだよなぁ」

「どこが。好きで家出てきたんだから。あ、まさか、お前……。やめてくれって……、そういうのはなしって約束……」


 結婚、という言葉がちらついて、すぐにおかしい、と気がつく。

 だいたい、こいつに私の家の場所を教えた記憶がない。松雄の実家は二つ隣の市だし、まさか、わざわざ調べた?


「約束? あ? もしかして、ご挨拶とか何とか? あぁ……お前なぁ」

 松雄はでっかいため息を付くと、私の肩をパンパンと叩く。


「いくらなんでも、気回し過ぎ。何で、お前に黙ってそんなことせにゃならんわけ。お、それとも、願望?」

「馬鹿言うな。殴るぞ、テメェ」

「勘弁。お前の正拳くらったら、それこそ、お嫁にいけない身体になっちゃう~」

 落としていた視線を戻して、いつもの少しすかした顔が見えた。


「とにかく、そんなんじゃない、素子。ただ、予約してたケーキを買いに行くだけ。それだけ」

「どこが、それだけだよ。なんで、わざわざこんなところでケーキ買うわけ?

 自分ちの近くで買えばいいじゃない。うまいところ、あるでしょが」

「……たく、口減らんな、お前は。手は出る、口は減らん、ホント、しょうもねえオンナ。たまには黙って連れられてろよ、まったく」

「なんだぁ、喧嘩売ってんのか」


 松雄は大きくため息をついた。取り出した煙草を再びくわえる。

 でも、今度は火はつけてやらない。


「……話さなきゃいかんか?」

 目と顎だけでうなずく。

「どうしてもか?」

 さらに大きくうなずく。どう考えたって、性質の悪いだまし討ちだ。しかも、シナリオが悪すぎの。


「しょうがないな……。ケーキを食べる時に、って思ってたんだけどな……」

 松雄は私から目を離すと、人通りのほとんどない小学校前の通りを見ながら、煙を吐いた。


「お前んちも忙しい家だって聞いたけどさ、俺んちも、小さい頃から暇なしな家だったって知ってるだろ」


 私も前を向いた。その話は、何回か聞いた。松雄の家は、オヤジが長距離の運転手で、オフクロが飲食店の厨房勤め。確か、失敗した事業の穴埋めで必死だった、って聞いた。


「小学校のころ預けられてた託児所がさ、この向こうの西町にあってさ。この辺りって、夜中に家に帰る通り道だったんだよ。深夜にオフクロが迎えにくるだろ、ボーッとしながらこの学校のこと、よく眺めてたからなぁ」

「……ふうん。初めて聞いた」


「俺さ、ずっと忘れてたんだけど、この間、急に思い出したんだよな。長須と多佳と飲んだじゃんか、そん時、お前の昔話出ただろう。

 例の「サイアクのクリスマス」って奴。

 それでさ、俺も何かクリスマスの思い出でもあるかなぁって、なんとなくな。

 そんなんあるわけねぇだろ、俺んちもそういうの適当だったからな、そう思ったん

だけども、一つあったんだよ。これが」


 唇を尖らせて煙を吐いた松雄の表情は、穏やかで思わしげな感じだった。何だか、口を差し挟むのが悪いくらいに。

 どうも、予想していた展開とは違っていた。


「小学校に上がるころだった思うんだけどさ、託児所でクリスマスパーティがあったんだよな。

 園長がサンタに化けて、「メリークリスマス」ってプレゼント代わりのケーキを置いてくわけ。

 毎年、すげぇ楽しみでさ。「やっぱり、サンタはいるんだなぁ」って、ガキらしく思ったりしてたんだよな。


 どうしてかは、よく覚えてないんだ。ただ、その日はオフクロの迎えが遅くて、ま、たぶん、店が忙しかったせいだと思う。

 暗くなった園で、一人で待ってたんだよ。迎えが来て、車に乗ってから、急に寂しくなっちゃってさ。

 ……なんでだったかなぁ。どうして俺んちにはサンタが来てくんないのか、とか思ったのかもしれない。

 ウチには来た、って思いっきり言う奴もいたからなぁ。


 とにかく、「ケーキが食べたい」って駄々こねてさ。「サンタがくれるはずだ」とかわけわかんないこと言ってた気がする。

 「こんな時間から、無理に決まってるでしょ」って言われて、ますますへそ曲げて大泣き。家は貧乏だからサンタが来ないんだ、とか言って。……オフクロ、辛かったろうなぁ。


 でさ、この間、その話聞いたら、しっかり覚えててさ。

 電話したり、車で走り回ってくれたり、かなり頑張ったみたいなんだよ、そんとき。

 でも、もちろん、十二時過ぎだろ、ケーキなんて売ってるところ、あるわけがない。あの頃、コンビニも数なかったしさ。

 泣きながら助手席に乗ってたし、あのまま食べなかったんだろうな、て覚えだったんだけれど、なんかどっかで違う気がした。


『ちょっと遅れたけど、メリークリスマス。松雄くん』

 確かに、サンタが言ってくれたような気がするだよ。夜見た夢かなぁとも思ったんだけど。


 で、オフクロに聞いたら、「ああ、覚えてるんだ」って。

 諦めようと思った時、一軒だけやってるケーキ屋があったんだってさ。クリスマスの12時過ぎ、周りの家の明かりも全部消えてる中で。


 場所とか聞いてる内に、あれ、ってさ。

 それでこの間、車でここまできて、全部思い出した。泣きながら店の近くまできて、そこだけ明かりがあって、カウンターの向こうにサンタが立っててさ、俺とオフクロが入っていったら、にっこり笑って、

『こんばんは。プレゼント、残ってるよ。ワシも忙しいから、みん

なのところは回り切れないんだよ』

ってさ、でっかいケーキをくれた。


 オフクロの話じゃ、それから毎年、仕事が忙しい間はその店からケーキを買ってたんだってさ。家が落ち着いてきてから、だんだん行かなくなったらしいけどな。

 一度、「どうしてこんな時間まで店をやってるんですか」って尋ねたら、

「ケーキ屋が夢を売れる一年一度の日だから。簡単に店を閉めるわけにはいかないでしょう」

って言われたらしい。


 そんなこと思い出したら、今年はその店のケーキを食うかなぁって。食べたら懐かしいだろうなぁと思ってさ。

 お前と付き合いだして、ちゃんとクリスマスやってなかっただろ。だから……、どうしたよ」


「……何でもないっての」


 この辻を曲がってしばらく行くと、その店がある。

 馬鹿オヤジ……。


「お、まさか……」

「馬鹿野郎。そんな話でメソメソするか。……冗談じゃない」

「そうか?

 ま、いいや。だからさ、俺が買いたくて行くんだから、お前とは関係無いわけ。いいだろ、だから。お前、ケーキそのものは好きじゃんか。って言うか、鑑定軍団なみだろ。あ~だ、こ~だ」

「ああ、もうわかった。でも、私は車の中にいるからな」


 再び走り始めた車。小学校を横にして、嫌になるくらいよく知っている角を曲がる。

 そして、細い脇道へ。人通りが少ない、どう考えたって、店を開くにはあまり向いていない……。


 寂しげに立ち並ぶプラタナスの街路樹。予定では、キャンパスから続くファッショナブルな通りになるはずだった……。


 道を挟んで反対側に停車すると、松雄の黒いコートの背中が店へと渡っていく。間口の狭い、ちっぽけなケーキ屋に。


 本当は、見るつもりなんてなかった。


 大喧嘩の末、タンカを切って飛び出してきたのが、ついこの間にしか思えない。二度と敷居をまたぐまい、そう思った場所。


 でも、どうしても見ずにはいられなかった。


 ……どうせ、昔のまんまだ。


 横目に入ってくるボロくて陰気臭いオレンジ色の……、え……。


 嘘だろ。


 確かにあるはずの、古びたケーキ屋はそこにはなくて、広く透き通ったガラスに色とりどりのペイント、大きなツリーがディスプレイされた入り口には、綺麗なネオンが輝いて、いまどきの洋菓子店にしか見えない。


 マジか。いつこんなに小ぎれいにしたんだよ。だいたい、そんな金なんか、どこにも……。


「よ、お待たせ」

 ドアがバタンと開いて、白地に薄く金のツリーの絵が散らされた箱を持った松雄が乗り込んできた。


「ほれ、持ってくれよ」

 見覚えのない箱。昔は確か、素っ気ない赤と白の箱だったはず。

 あ、そうか。どっかのチェーンが買い取ったんだな。でなきゃ、こんな……。


 コツコツ。


 ケーキの箱を抱え込んだ私の左手で、ガラスを叩く音。


 振り向くと……、見覚えのある顔が、車の外で腰を屈めて覗き込んでいた。


「け、憲太郎」

 白いコック服に、色の合わない赤いサンタ帽。でも、その下のオヤジ似の丸顔は、間違いなく弟のもの。

 私にも似たおっきな唇に笑みを浮かべると、指で下を促がす仕草。

 ……あ、そうか。


「久しぶり、姉ちゃん」

 ウィンドウを下ろすと、数年ぶりの顔は、変わらない柔和さで――ううん、少し彫りが深くなったのかもしれない――目の前にあった。


「びっくりしたよ。今、そちらのお客さんに、……あ、どうもありがとうございます…、シェフのお姉さんだと思うけど、車にいるからって言われてさ」

「あ、ああ。別に、寄りたかったわけじゃないんだ……」


 真っ直ぐな瞳を見ていることができなくて、松雄の方を指差した。

「こいつが、ここでケーキ買うっていうからさ」


「ふうん……。そうなんだ」

 憲太郎は軽く頷くと、小さく息を吐いた。


「……店、良くなっただろ。結構、流行ってるんだ」

「お前が……?」

「うん、まあね。まだまだ、素人に毛が生えたようなもんだけど。

 でも、美味しいって言ってくれるお客さんもいるし、何より、ノウハウがあるからね」


 ケーキの箱だけを見てた。どうしてかわからない。でも、何かが胸に溢れて止まらなくなりそうだった。


「……そっか。お前がやってるんだ。大変か?」

「そうでもないよ。俺、昔から好きだろ? 姉ちゃんとおんなじでさ」

「馬鹿野郎、どこが……」


『しょうがねぇオヤジだけどさ、ケーキは美味いよな』


「……じゃ、行くからな。頑張れよ、憲太郎。……松雄、出して」

「いいのか?」

「何が。早く出せよ」

 憲太郎の身体がウィンドウから離れた。そして、響き始めたエンジン音と共に、耳に残った声。


 ――オヤジもオフクロも、元気だから。


「大丈夫か、素子」

 車が走り始めて、松雄が口を開いた。

 抱えたケーキの箱が、どうしてかにじんで見える。


「うるさい。黙って前見て運転してろ」

 手の上に、落ちる。そして、ケーキ箱の上にも。


「絶対、こっち向くな、松雄」

「ああ、わかった」


 だんだんと暗さを増していく空。車が走っていく西の空は、蒼いベールに覆われている。


「食べるだろ、それ。美味いと思うぜ」

「……うん、そうだ、な。食べよう。クリスマス、だもん……」


 うん……。どうしようもない馬鹿オヤジにオフクロだけど、ケーキだけは美味しいんだ……。


 信号で止まった車、手が背中にかかって、ポンポンと叩いてくれる。


「ほれ」

 突き出されたちょっとごわごわしたタオル。


 私は、その後ずっと涙をふき続けていた。次から次へと溢れ出して、どうやっても止まらなかった。


 そして、よく知っている家の前でもう一度車が停まった時。

「メリークリスマス」

 運転席から、大きくてすこしいなせな、でもあったかい声が響いた。




 おわり

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Sweet Christmas 里田慕 @s_sitau

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