第47話 その日

 帰宅すると、郵便受けに渚町で撮影される映画『弱小合唱部よ、宇宙連合軍から地球を守れ!』の劇中歌、『その日』の歌詞が印刷された紙が入っていた。

 『事務所から許可もらった』と八坂のメモも入っていた。『よろしくお願いします』くらい書いておけよな。


 部屋に入ると、2Lのミネラルウォーターを1本だけ冷蔵庫に冷やして、残りの14本は冷蔵庫の脇に積んだ。俺が八坂を蹴ったことを知った結菜がさらに10本買い足していたのだ。

 結菜は雑貨屋で購入していたお揃いのお箸、味噌汁茶碗、サラダボウルを取り出して、丁寧に洗っていた。


 八坂の部屋からは、早くもドンドンと音が響いてくる。美樹が専門店で購入していた新製品の超極薄コンドームをさっそく試しているようだった。


 この日は俺が夕食を作ることになった。両腕をプルプル震わせながら、きゅうり、アボカドを切り、レタスをちぎってサラダを作る。その様子を見て、結菜は愉快そうに笑っていた。

 あとはピーマンとキャベツを切って、豚肉と一緒に炒め、ホイコーローを作る。

 味噌汁だけは結菜が、茄子と豆腐の味噌汁を作ってくれた。


 作った料理を結菜が買った食器に盛りつけ、一緒に食べる。

「いただきます!」

 俺と結菜は同時にホイコーローに箸を伸ばす。俺は腕が震えているので、なかなか上手く掴めない。

「うん」

 結菜はそう頷くと、いつも通り豪快に食べた。

「どう? おいしい?」

「普通においしい。落合っぽい感じ」

 微かに褒められている気がした。何とか豚肉とピーマンを掴んで、俺も食べてみる。うん、普通においしい。そして、結菜が作ってくれた味噌汁を飲んでみる。

「おいしいっ!」

「隠し味にヨーグルトを入れるとおいしくなるのよ」

 結菜が教えてくれる。俺の個性のないホイコーローとはまるで違う。

「食べるの遅いほうが食器洗いね」

「そんなずるいよ!」

「早く食べてチラシ作りするんだから」

 ウーッ、本当に八坂が出る映画の手伝いをするのか……。八坂の部屋からは相変わらず騒がしい音が聞こえていた。どうやら、新製品のコンドームを気に入ったようだ。


 食器を洗い終えると、劇中歌の『その日』を渚町の皆で歌うように呼び掛けるチラシを、作り始めることにした。

 結菜は先にシャワーを浴びていて、いい匂いが部屋中に漂っていた。

 まだ収まることのない八坂の部屋から響く音が俺を苛立たせていたが、『その日』の歌詞を見ると、幾分か心が穏やかになった。



『その日』(歌詞)


『未来を夢見るから、平和を想像しきれない

今日も涙が降っているとわかっていても

僕らは傘を貸すことさえできてやしない


でも諦めたことはないよ

いつかその日が訪れることを信じて


武器を手に入れよう

傘さえ持たずに、手をつなげるように、

両手を空けられる勇気を手に入れよう


盾を捨てよう

拒まぬように、手をつなげるように、

過去が詰まり過ぎている荷物を捨てよう


その日はきっと訪れるのだから



昨日を振り返るから、平和がまたぼやける

今、泣いている人がいるとわかっていても

僕は友達と笑うことをやめたりはしない


でも、忘れたことはないよ

皆一緒に笑える日が存在するんだ


武器を手に入れよう

いつでも誰とでも、手をつなげるように、

両手を空けられる勇気を手に入れよう


盾を捨てよう

いつでも誰とでも、手をつなげるように、

過去が詰まり過ぎている荷物を捨てよう


その日にきっと近づけているから



許せないことがあって、許せないことを生んでいく

魔法で消すことはできないから、愛で立ち向かうしかない

愛は決して武器でも盾でもなく裸の心

ゆっくりでいいから信じる心を育てて行こう


武器を手に入れよう

いつでも誰とでも、手をつなげるように、

両手を空けられる勇気を手に入れよう


盾を捨てよう

いつでも誰とでも、手をつなげるように、

過去が詰まり過ぎている荷物を捨てよう


その日はきっと訪れるのだから

その日にきっと近づけているから

人の心はその日を描くことができるのだから』



「こんな風に強くなれるかな? 優しくなれるかな?」

 結菜は『その日』の歌詞に目を通すと、俺にそう尋ねた。「なれるよ」とは答えられなかった。隣の部屋に、絶対に仲良くなれない人物がいる。

「まあ、そんなに深く考えないで、今、俺たちにできることをやろうよ」

「あら、落合のクセにご立派な発言をするじゃない」

「渚町、好きだから」

「……私、落合のそういうところ好き」

「えっ?」

「もう、前から思っていたけど、落合って耳遠すぎ」

 そんなことない。はっきり聞こえていたから、驚いてしまったのだ。

 結菜は立ち上がって、タンスから何やら取り出すと、正座してトントンと自分の太ももを叩いた。

「ここに頭を乗せて」

「えっ?」

「ほら、また聞き返す。いいから、早く頭を乗せて」

 結菜の手には麺棒が握られていた。

 俺は横になって、結菜の太ももに頭を乗せる。

「こら、じっとして」

「く、くすぐったいよ」

 結菜に耳掃除をしてもらうなんて、恥ずかしかった。嬉しさよりも、恥ずかしさが勝っていた。心がくすぐったかった。

「はい、反対が向いて」

 微かに結菜の声が聞こえてきたが、眠くて動くことができなかった。

「もう、3歳の子供じゃないんだから。フフフッ」

 結菜が笑っている。もうこのまま完全に眠ってしまおう。



 翌朝。玄関先で美樹を待った。

「おはよう」

「おはよう」

 八坂が先に出て来て、結菜にだけ挨拶をすると、また美樹を置いて行ってしまう。

「ごめん、待っていてくれたんだ」

「昨日買った下着、八坂君気に入ってくれたみたいだね」

「エヘヘッ。正のおかげ。ありがとう」

 美樹は屈託のない笑顔を浮かべる。この笑顔を見れば見るほど、八坂の奴に腹が立った。


 『南かぜ風』の前で、佐藤と三上と合流し、学校へ向かっていると、『逃げ出したカブト虫を捜しています』の張り紙の隣に、『渚町夏祭り大会』のポスターが貼られていた。今年は8月11日に開催されるのか。そして、俺はプログラムを見て、思わず歩みを止めた。

「どうした、正? その日はゆいぴーが……」

「俺、これに出る!」

 プログラムに書かれていた『大声大会』を見て、これだと思った。

「これに出て、渚町の皆に、一緒に歌ってもらえるように呼び掛ける! そして、優勝してみせる!」

「優勝はともかく、宣伝にはいいかもね」

 三上が賛同してくれる。

「でも、正、大丈夫なの? その日は、結菜の応援が……」

 美樹の声を遮って、

「落合がこんなにやる気になっているんだもん。しっかり応援させてもらいます」

と結菜も微笑んでくれる。

「ヨシッ! 見ていろよー!」

 この大会で優勝して八坂の奴を見返してやるのだ。声量は俳優にだって必要なものだろう。大声大会で優勝したら、俺に嫉妬するに違いない。



 翌朝から朝練を開始した。早番の日以外は結菜も付き合ってくれて、ネットで調べて練習メニューも作ってくれていた。

 まずはストローを口にくわえて、ゆっくりと息を吐き出すトレーニング。結菜に「30秒はできるように」と言われたが、10秒吐き続けるのがやっとだった。

 それから、空の2Lペットボトルを口にくわえて、中の空気を吸い込んでへこませるトレーニング。バコッとへこませたいところだが、なかなか上手くいかない。声量アップに欠かせない腹式呼吸を覚えるためのトレーニングだと結菜が言っていた。

 最も辛かったのは、腹筋を鍛えるための『クランチ』というトレーニングだった。脚を『4』の形になるように組んで、右ひじを左ひざにくっつけるように、体をねじりながら腹筋運動をするトレーニングだった。

 これらのトレーニングを朝5時に起きて、1時間ほどみっちりやってから、肺活量を増やすためにジョギングも行った。


 朝早くに大好きな渚町を、結菜と一緒に走ることができて気持ち良かった。セミたちは朝早くからタイトルのない名曲を演奏していた。

 ジョギングの途中で海にも立ち寄り、『杉山最高』『佐藤、受験ファイト』『カブト虫が見つかりますように』『美樹、目を覚ませ』『八坂のクソ野郎』『支配人ありがとう』と、その日その時、叫びたいことを叫んだ。もちろん、『結菜が好きだ』とは決まって叫んでいた。

 映画の撮影が始まっていて、たまにスタッフの人に注意されたが、その衝動を抑えることはできなかった。夏なのだから。


 時間を見つけては、カラオケボックスにも通った。結菜はネットで懸命に調べてくれたようで、腹式発声ができるように指導してくれた。俺ばかり歌うのも悪いと思ったのだが、結菜は絶対に歌おうとしなかった。よほど音痴なことにコンプレックスがあるようだった。完璧な人間はいないんだな。八坂のコンプレックスを発見したら、いじり倒してやろう。


 その間に、佐藤たちが『その日』を歌う動画を撮影し、YouTubeにアップしていた。ほとんど佐藤の声しか聞こえない動画だったが、美樹と三上も心を込めて歌っている様子が映っていた。

 そして、俺たち5人は、『その日』の歌詞と歌の動画のURLを載せたチラシを駅前や商店街で配った。

「映画の撮影にご協力ください!」

「よろしくお願いします!」

 暑い日差しが降り注ぐ中、皆で懸命にチラシを配った。

「渚町の皆で、宇宙人から地球を守りましょう!」

 これも練習の一環だと思い、俺は腹の底から声を出した。でも、一番チラシを受け取ってもらえたのは結菜で、佐藤と美樹と三上も順調にチラシを配り、俺だけがいつも苦戦していた。それでも、俺は声を出し続けた。大声に驚いて、子供を泣かしてしまうこともあったが、とにかく声を出し続けた。


 最初は10秒しか息を吐き続けることができなかったが、1週間も経つと、ストローを口にくわえて、息を40秒ほど吐き続けられるようになった。

 空の2Lのペットボトルもバコッとへこませることができるようになっていた。それにしても、渋谷で罰として持たされた2Lのペットボトルがこんな風に役に立つとは思ってもいなかった。

 苦手だった『クランチ』のトレーニングも、連続で100回できるようになっていた。

 すべてはトレーニング法をネットで習得していた結菜の指導のおかげだった。結菜のためにも、絶対に大会で優勝してみせるのだ。俺はさらに気合いが入っていた。


 祭り本番2日前の夜。カブト虫を捜しながら、結菜とジョギングをした。三上には手伝うなと言われていたが、もうすぐ8月も中旬になってしまう。何もしないなんて、俺と結菜には無理なことだった。それは、佐藤と美樹にしても同じことだろうと思う。

 そうして、カブト虫を捜しながらジョギングをしていると、実家のすぐ近くを通りかかったので、浴衣を取って行くことにした。

「悪いけど、ちょっと待ってて。すぐに取って来るから」

「うん。こんなに汗びっしょりの時に挨拶なんてできないし、ここで待って……」

 突然、結菜が言葉を失う。実家の表札を凝視している。

「結菜、どうかした?」

「宇野……誠……」

「ああ、それは俺が文通していた時のペンネームでさ、なんだか外せなくてそのままにしてあるんだ」

「……」

 すると、玄関から楓が出て来る。

「声がすると思ったら、やっぱりお兄ちゃんだ。あっ、今晩は」

 楓は結菜に気づくと、礼儀正しく挨拶をした。こういうところはしっかりしていると言っていいのか、ちゃっかりしていると言っていいのかわからないが、好印象を与える挨拶の仕方だった。

「結菜、こいつは妹の楓。まだ中3だけど俺より大きくて」

「こいつって何よ」

「楓ちゃん……」

「はい、楓です。結菜さんでよろしかったですか? それとも……」

 楓の様子もなんだか変だ。

 結菜に目をやると、一筋の涙を流していた。

「結菜……」

「私なのよ……。私なのよ……」

 結菜にそう言われても、俺は何も理解できない。

「私が、小西茜なのよ! 私が、誠君と文通していた小西茜なの!」

 その言葉の意味を、俺はすぐには理解することができなかった。結菜が……茜さん?

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