第45話 虎の威を借る狐
翌朝。結菜は朝番だったので、俺が起きた時にはもう部屋に居なかった。
『行ってきます!』と書かれたメモが残されていた。
俺が熟睡していたこともあったが、きっと起こさないように静かに支度をして行ったのだろう。「いってらっしゃい」と言えなくて寂しい気がしていたが、結菜の優しさを感じて心がポカポカしてきた。
俺のほうはアルバイトが17時からだったので、朝食兼昼食用に『南かぜ風』にパンを買いに行くことにした。結菜に会いたかった。
驚いた。渚町でこんな光景は初めて見た。『南かぜ風』に100m以上もの行列ができていた。
「こんなにかわいい子が働いているんだろ」
「ツイッター見た時は驚いたよ。テレビに出ているアイドルより何倍もかわいいよな」
どうやら結菜が『南かぜ風』で働いていることが、SNSで拡散したようだった。夏休み期間中ということもあり、若い男たちが鼻息荒く並んでいた。
アイドルの握手会で噂を聞いたことがあるが、こいつらアレをした手で結菜に触れたりしないだろうな?
俺が店先で困惑していると、結菜が出て来て、
「落合、おはよう! よく眠れたみたいね。よかった」
と声をかけてくれる。
「お、おはよう」
並んでいる男たちの視線が刺さる。
「ちょうどよかった。今日、大変なことになっていて、手伝ってよ。まだ時間、大丈夫でしょ?」
「ああ、任せとけよ。何でも手伝うよ」
俺は結菜に手を引っ張られて、『南かぜ風』の中に入る。並んでいる男たちの羨望の眼差しが心地よかった。
『南かぜ風』の中は、お客さんでごった返していて、パンが残り少なくなっていた。
おかみさんがレジで奮闘していて、マスターは奥の工房でパンを作っていた。
「私がおかみさんとレジ変わるから、落合はお客さんが買ってくれたパンを袋に入れてちょうだい」
「わかった」
「あっ、落合君悪いわね。せっかくの休みなのに」
「気にしないでください! いつもお世話になっているので、何か手伝わせてください」
「それじゃ、結菜ちゃん。ここ任せるわね」
「はい」
おかみさんは結菜にレジを任せると、工房に入ってマスターのパン作りを手伝う。
パンを選ぶふりをしていた男性客たちが一斉にレジに並ぶ。
「結菜、俺がレジをやる」
「えっ?」
俺は結菜の返事も聞かないで、立ち位置をかわる。
並んでいる男性客たちがギロッと俺を睨むが、
「いらっしゃいませ。2点で360円になります」
と意に介さず接客をした。
「ありがとうございます」
結菜がパンを袋に入れて、男性客に渡す。レジに立って、お釣りを渡したりするよりは、よっぽど手が触れるリスクが低くなる。『南かぜ風』に寄って良かった。こいつらの手が結菜に触れていたらと考えただけでゾッとした。
15時過ぎには、材料もなくなり、『南かぜ風』はいつもより大分早く閉店となった。
「落合君、今日はありがとうね。これ、取っておいたから食べてちょうだい」
「ありがとうございます」
おかみさんがパンの詰め合わせをくれた。
「明日も手伝いにきます」
俺がそう言うと、
「落合、明日は私がもっと頑張るから大丈夫」
と結菜に断られた。
「だって、あんなにお客さん来たらたいへんだろ」
「それはそうだけど……。今日の落合、変だったから……」
「変って、何が?」
「ちょっと怖かったっていうか、柔らかくなかったっていうか……」
「そうかな? それなら、明日はもっと笑顔で接客するように気をつけるから」
「しつこい! 明日は大丈夫だから来ないでよ!」
そこまで怒ることないではないか。
入口に『完売』の張り紙をしたマスターが戻って来る。
「大繁盛ですね」
俺がそう言うが、マスターに笑顔はなかった。
『完売』の張り紙を見て、残念そうに帰って行くお客さんたちがいた。
「明日の分の材料を買いに行って来るよ。明日は、こんな時間に閉店するわけにはいかないからね」
「あっ、私もお手伝いします。力には自信がありますから」
「はははっ。結菜ちゃんが一緒なら百人力だ」
ようやくマスターに笑みが浮かぶ。
今、俺はマスターにさえ嫉妬した。結菜が俺以外の男を笑顔にすることが癇に障った。俺は大きな人間ではなかったけれど、こんなにも小さな人間だっただろうか?
『南かぜ風』を後にして、部屋に戻る途中、嫌な奴と遭遇した。
「俺、お前に嫉妬なんかしてないからな。俺は今、幸せなんだ」
「フッ」
八坂が鼻で笑う。
「お前、いい加減にしろよ!」
「随分と強気だけど、お前が俺より勝っている点が一つでもあるのかよ」
言い返せない。
「田中と同棲しているからって、調子に乗るなよな」
一番嫌な奴に、一番痛いところを突かれた。
「美樹から聞いたけど、お前ら付き合っているわけではないんだろ。俺、田中にコクってみようかな。田中だったら俺の彼女にしてもいいかも」
ドサッと何かが落ちる音がした。
振り向くと、美樹がコンビニの買い物袋を落としていた。
「ご、ごめん。聞くつもりはなかったんだ」
美樹はそう謝ると、落とした袋を拾う。
どうして美樹が謝るんだ? どうして美樹は怒らないんだ?
「今日は気分じゃないって言っただろ」
「お部屋の掃除だけでもしようかなって。エヘヘッ」
「そういうのうっとうしい」
「ご、ごめん」
また美樹が謝る。
体が反射的に動いた。何度も結菜に蹴られて、いつの間にかその動きを覚えていた。
俺は八坂の顔面に飛び回し蹴りを喰らわせた。
八坂は壁にもたれかかるように倒れる。
「このクソ野郎! 美樹に謝れ!」
スカッとした。
「痛ッ」
美樹にビンタをされた。
「海太、大丈夫?」
抱え起こそうとする美樹を、八坂が払いのけて、自分で立ち上がる。
「お前、本当は俺が怖いんだろ? 俺に田中をとられないか心配でたまらないんだろ? 映画の撮影が終わったら、ケンカの相手をしてやるよ」
何も言い返せない。
八坂が立ち去って行く。あいつはきっと“略奪を許された能力者”だ。誰かが大切にしているモノを、平気で奪い取ることが天に許された人間なのだ。
「正、こんなことしていると、本当に海太に結菜を奪われちゃうよ……また、明日ね」
美樹はそう言い残して、八坂を追いかけて行った。
何も言い返せないから、暴力を振るった。しかも、立場上ケンカをすることができない相手に……。
結菜を好きなだけではダメだ。自分の弱さをそれで補うことはできない。
結菜を好きになることで、自分が強くなるわけではないのだ。俺は大きな勘違いをしていた。
俺は完全に八坂より劣っている。嫉妬する理由は山ほどあった。結菜と同棲している幸せでそれをごまかそうとしていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます