第20話 特別授業2日目

「なるほど、それでとぼとぼ歩いていたわけか。すまないな。私がいれば……」

 杉山はそう謝ると、コーヒーをすする。

「先生がいても、あの状況は……」

「確かに役に立てなかったかもしれないが、石ころ一つでも、川の流れは変わるものだ」

 今、役に立たないといけないのは俺のほうなのに……。教頭の離婚に杉山は関係なかったと、薫たちに伝えることさえできなかった。

「おかわりはいかがですか?」

 星野さんにそう聞かれると、

「お願いします。喫茶店のコーヒーよりおいしいです」

と杉山は褒めたたえた。

「よかった。鹿児島にある別荘で、野生に近い畑で栽培した豆だけを使っているんです」

 星野さんは嬉しそうに、杉山のカップにコーヒーを注いだ。


 他に安全に杉山と話ができる場所が思いつかなかったので、星野さんに電話をした。

「わかった。君と、先生の自宅の住所を教えなさい。別々に弟子を迎えに出そう」

 星野さんは詳しい事情も聞かないで、そう言ってくれた。

 そして、俺と杉山はここで落ち合った。

「それで、落合は、誰の仕業だと思う?」

「わかりません。薫にも、教頭先生にもそんなことできると思いません」

「彼はお前たちの味方だ。心当たりがあるだろう」

「えっ?」

 俺たちを職員室に呼び出したのは、意図的に助けるためだったのか……。


「私の婚約者を侮るな」

「すみません。教頭に助けてもらえなかったら、俺は今日、結菜を守ることができませんでした。あんなに敵意を持っている奴らに囲まれて、どうすることもできないと諦めてしまいました。結菜が、結菜がどうなってしまうのかわからないのに……。佐藤も、美樹も……。助けることができなかった。俺は心の中で大切な人を見捨ててしまったんです。最低です……」

 人は急に強くなれないこと思い知らされた。力がほしいと思っても、その時にはもうどうにもならない……。でも、だからといって、それを諦める理由にしてはいけなかった。

「さっきも言ったが、石ころ一つで何かが変わるものだ。落合、あがくことを忘れるな」

「わかっています……。もう絶対に今日みたいなことはしません!」

「随分と男らしい目になったじゃないか」

「さすがは、彼女の息子だ」

 杉山が俺を褒めると、星野さんも同意してくれた。よかった。俺は、今日という日だけは、絶対に成長をしないといけない日だと決意していた。どうやら俺は、“成長しない能力者”ではないらしい。それなら、どんな能力を持っているのだろう?


「よし、成長したご褒美に、今日のできごとが誰の仕業なのか教えてやろう」

 俺は2日連続で特別授業を受けることになった。教頭の元奥さんの吉岡先生と、新しく奥さんになる杉山から。

「その正体は、空気だ?」

「空気? 空気って、あの空気ですか?」

「そうだ。もともと、田中の容姿を妬んでいた空気があった。佐藤と付き合わないようにしていた空気もあった。それに、望月が田中の悪い噂を流したことによって生まれた空気が融合していく。それから、ボンボンの佐藤を妬んでいる空気だってあったし、彼氏がいる美樹に嫉妬している空気だってあっただろう。的になることのない落合を羨む空気もあったはずだ」

 俺を羨む? クラスに、学校にそんな奴がいたのか?

「そのバラバラだった空気が、お前たちが揃って学校をサボった昨日、融合してしまったんだ。全員の的にしてしまう狂暴な空気に」

「人が集まるということは、実に恐ろしいことですからな」

「ええ、特に学校はそうなんです」

「僕はそこでは働けないな」

 星野さんは、杉山の言うことを完全に理解しているようだった。でも、俺はぼんやりとしか理解できない。確かに、その場の空気というものがあり、嫌なことでもやってしまうことはある。でも、あんなに巨大化するものなのだろうか? あんなに誰もが受け入れてしまうものなのだろうか?


「心配するな。明日にはその空気も変わる」

「えっ?」

「私が退職届を出すからな。学校中、ろくでもない話でいっぱいになって、お前たちのことなんてなかったことになる。まだ、始まりかけたところだったからな。今日、それが完全に始まっていたら、話は別だが……」

 杉山がゴクッとコーヒーを飲む。

 助かったと思ってしまった。杉山が学校を辞めるというのに……。

「どうして、学校を辞めるのですか?」

 辞めないでください、とは言えなかった。

「もっと、セックスに集中したいんだ」

「えっ?」

「彼、とにかく凄いんだ。何回しても、もう1回、もう1回って」

 教頭のEDを杉山が治したのか? 夜は豹変するタイプだと思っていたが、きっと性格と同じように、肉体にも相性があるのだろうな。経験がないから、想像でしかないが。

「それで腰を悪くして、整骨院に行って来たんだ」

 驚いた。教師が、セックスのやりすぎで学校を休むなんて。素敵なことだと思った。


「痛み止めを飲んで、ごまかしていたんだが、立っているだけでも辛いようになってしまって。すまなかったな、あの日のホームルームで一言も喋られなくて」

 俺は間違っていた。俺が気づいた、と思っていた以上に、世の中の男女はやりまくっていた。もしかしたら、80歳のおじいちゃんとおばあちゃんもお楽しみになっているのかもしれない。例えば、自転車を貸してくれたファンキーなおばあちゃんとか。まだ現役の女かもしれないのに、ラブホテルで興奮を抑えるために利用して、申し訳ないことをしたなと思った。


 翌日。俺たちが登校すると、綾が駆け寄って来て、

「ねえ、知ってる? 杉山先生、学校辞めるんだって。やっぱり、松山と不倫していたのよ」

 目をキラキラさせてそう言うと、綾は薫たちの輪に戻って行った。

 本当に杉山の言う通りになった。昨日とはまるで違う空気になっていた。俺たちに襲いかかろうとしていた空気が、杉山のほうへ行ってしまった。いや、行ってくれたのだ。

 とはいえ、俺はその空気という存在に完全にひれ伏したわけではない、俺は何があっても結菜を守ることを諦めないと誓っていたので、薫たちの的になるかもしれないが、ウサネズミのぬいぐるみを鞄につけたままにしていた。そして、結菜の鞄にもぬいぐるみはついたままだった。

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