自己の感情と存在の定義

 自分たちの落ち度の可能性。

セナは考えた。

マネキン男の件はまだ終わっていないのか。


 男とマネキンがいた古びたアパートは、次の日には跡形もなく消え去っていた。

残留した男の魔力は失せ、彼の魔法で生み出された産物は、虚実の深い海へと落ちていった。


 調べておいた方がいい事柄なのは確かだ。

その前に夕食の食材を買いに行かないといけない。

おつかいを頼もうにも、レナも夕奈もいない

レナが街を案内がてら、本屋に夕奈を連れ出した。

いまここにいるのは、セナとねこうさぎだけ。


「ねこうさちゃん、買い物行ってくるから留守番よろしくね」

「うにゃ」

薄いピンクのコートを羽織り、かかとがそれほど高くないヒールを履き、扉を開けた。

灰色の階段の出迎え。

無機質な空間に、ヒールが響く。

最後の1段を降りようとしたとき、思わず立ち止まってしまった。


 殺気、瘴気、怨嗟の情念が霧をなしている。

「誰がいるの?」

猫の顔のバッグに手をかける。


「ばれたか」

グレーのコートに身を包んだ女性が、セナの前に姿を現した。

「ここを襲うということは、アカシックレコードへの到達を目的じゃない魔術師ね」

「私はただの代行者。依頼を受けたから貴女を処分する」

「わざわざ他人の手を借りるということは、協会内部の人間の回し者か……」


 相対する2人。

お互いに動きを見せない。

「かかっておいでよ。魔法は魔法を理解するものにしか見えないんだから」

しょせんは精神を病んだ人間の妄想の産物。

心の中で呟いた。


「狭い階段で戦えば、確実に私は負ける」

「食いしん坊さんを知ってるんだね。それならここは諦めたらどう?」

『安達セナは私の前に来る』

「私がわざわざ敵の前に?」


「いらっしゃい」

「えっ?」

目の前にあるのはアイリの顔。

光のない瞳がセナを捉える。


 繰り出されるコンパクトな十徳ナイフ。

とっさに体をひねり、脇腹を抉ろうとする一撃を避ける。

しかしその反動で、彼女から体のバランスが崩れてしまった。

ふわりと浮く歪な感覚。

転倒。

視界にはアイリの顔はなく、代わりに澄んだ空が広がる。


 カタストロフ。

命の終局。

無慈悲な収穫。

十徳ナイフが向けられる。

わずかに傷をつけるだけでも、殺せる魔法なのだろうか。

末期まつごゆえの冷静な分析。


「にゃああああああああ!!!!!」

空から降ってくる白い塊。

迫る迫る、視界に広がる。


「窓から外見てたら、怪しい風体の人がいて、しかも危なそうだから来ちゃった」

自慢げにねこうさぎは尻尾を振る。


 突然の登場に、アイリはたじろいだ。

正体不明の敵が現れたのだから、当然のことではある。


「僕には‘命令’しないのん? 唇の動きを見る限り、フルネームを知らないとだめなのかな?」

「黙れ、畜生!」

ねこうさぎは見るからにむすっとした顔を見せる。

「どこかの誰かさんみたいな言い方をされるのはやだなぁ。あ、ちなみに僕はねこうさぎだよ」


 呆然とするセナ。

わざわざ名前を明かしているのだから。

いったい何をするのか、固唾を飲んで見守る。


『ねこうさぎ、私の胸元に飛び込んで』

刺しやすいところに誘導するつもりだ。

体格差を考えれば、もっともな命令。


 しかしねこうさぎは微動だにしない。

ただ口元を動かしている。

「その命令は食べちゃった。僕は存在を食べる生き物だからね。概念も例外じゃない」

「な、なんで……」

狼狽。

「なんちゃって言霊なんて、僕には通じないよ。僕は妄想に生きる人とは違うのん。妄想の上位存在に、物理的に存在する魔法か、僕以外の人間に無形の魔法を使うことでしか、勝つことはできない」


 アイリは恐ろしくて仕方ない。

なぜなら弱点を平気で明かしているからだ。

概念的な魔法はねこうさぎには通じない。

しかし、その場にいる他の人間には通用するし、それを阻止することもできない。

ねこうさぎが食べられる無形物は、自分に向けられたもののみ。


 その事実にセナも気づいた。

それを理解したからこそ、余計に恐ろしい。

レナと喧嘩したとき、ねこうさぎに向けられた殺意を食べてしまえば、彼女の魔法は無力化される。

それは大幅な戦闘力の低下。

勝とうと思えば、あの場で勝てたということ。


「おかしいね。なんでセナに僕を殺せと命令しないの? 本当に言霊を使えるならできるはずだよ。言霊は魂に、根本的なところに訴えかけるものなんだから、逆らえないんだよ?」

アイリは動いた。

俊敏のお手本のような動き。

ねこうさぎも小動物らしく俊敏な身のこなしをみせて、電撃的な一撃を避ける。


「複雑な命令はできないんだね。しょせんは表面的なところで、むりやり動かしてるに過ぎないなんちゃって言霊。せいぜい歩く、掴むぐらいで、道具を使うことはできないっぽい」

唇をぎゅっと噛みしめて、目をぱっちりと見開いて、ねこうさぎを凝視する。

大事な人を殺された気持ちで杯を満たす。

愛する人を抹殺された憎悪で火を灯す。


 アイリは地を蹴った。

数瞬。

ねこうさぎの眉間の先に、十徳ナイフはあった。

黒い目を思いっきり見開いて、ギリギリのところでかわした。

白い毛がはらりと散る。

「むぅ、毛並みが乱れるじゃないか」

顔をしかめるねこうさぎ。

渾身の一撃を避けられ、アイリも顔をしかめる。


「食いしん坊さん!」

セナは叫んだ。

猫柄のバッグからそれは飛び出した。

深淵より暗い黒色のそれは、一直線にアイリへと向かう。

「ちっ!」


 アイリはそれを避けて、1人と1匹を見た。

状況の不利。

彼女は踵を返して逃げ出した。


 一瞬の間。

時が動き出したように、ねこうさぎが彼女を追いかけた。

「待って!」

「攻撃はしないよ」

セナの制止を振り切って、ねこうさぎは追撃をかけた。


******


「このグレーのコートよくない?」

「いいですね。すらっとした印象を与えるので、レナさんみたいなスタイルの人にピッタリだと思いますよ」

夕奈とレナは本屋でファッション誌を見ている。

冬のトレンドは押さえておきたいといったところだろう。


「君はそういう服が好きなのかい?」

低い男の声に、心臓をつかまれたような感覚。

嫌悪と畏怖の二正面作戦。


 夕奈は声がした方を見た。

短く切られた銀色の前髪。

強固な意志を垣間見れる、薄い黒目。

きれいな鼻筋に、やせた頬。

180センチほどの身長で、それを薄いグレーのパーカーにデニム。

当たり障りない凡庸なコーデだが、容姿がそれをカバーしている。


 「君は魔術師、そうなのだろう? 普通は見えないはずの動くマネキンを君は見えていた。燃えるような夕日を背景に迫るマネキンをね」

正体不明の声が語りかける。

「だが君はあまりに異常だ。魔法で猫だか兎だかわからない、完全に独立した生き物は生み出せない。魔法とは生み出した本人に隷属するもので、本人の意思のみで動く」

ねこうさぎのことを言っている。

初めてこの狂気の世界にやってきたところを見ていたようだ。


「君はいったい何者なんだい?」

夕奈自身が聞きたい質問だ。

「不確実な存在、とでも言ったところか」

しょせんは魔法という虚飾に彩られた世界。

確実性のある存在などあるのだろうか。


「私自身、不確実とも言えるんだがね」

理解不能。

「なぜならさっきから話しているのに、連れの子はまったく反応しない。それが私の存在の不確実性」

セナは雑誌のページをめくっている。

警戒する様子すらない。


「認識できなければ、それは存在しないこと。自己の存在とは自分ではなく他者。我が思おうと、胡蝶の夢かもしれない」

衒学的な言い回し。


「またどこかで」

男は夕奈からゆったりした足取りで離れていき、外の雑踏に消えた。

足音も立てず、最初からいなかったかのように溶けて消えた。

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