俺に煙草を教えたのは
凛
第1話
俺に煙草を教えたのは、あの人だ。
「身体に悪いんだから、吸うにしてもほどほどにしておけよ」
成人したての頃、煙草を吸ってみたいと相談した時、あの人はあまり気乗りしないとでも言いたげに、くしゃりと俺の頭を撫でた。
子供扱いされたみたいで悔しくて、思わず悪態を吐く。
「ヘビースモーカーが言うこと?」
「確かに」
くつくつと喉を鳴らして笑うあの人の口からは、ふわりと紫煙が漂う。当時の俺には、それが大人独特の格好よさのように見えて……早く追いつきたくてたまらなかったっけ。
長い指に挟まれた一本の煙草。それは、嗅ぎ慣れたあの人の匂い――甘ったるい、バニラの芳香。
「あなたの匂いがする」
ポツリと呟けば、「そりゃあ、愛用品ですから」と機嫌よさげに笑った。
初めて肺いっぱいに煙を溜めた時は、ろくに味なんてわからなった。ただただ苦しくて、何度も咳き込んだ。
それでも、俺に煙草は向かないだなんて思ったことはなくて。
格好いいからだとか、大人ぶりたかったからとか、そういうことじゃない。単純に、あの人に追いつきたい。その一心で、俺は身体に悪い大量の煙を無理矢理体内に押し込んだ。
そうしているうちに、だんだんと慣れてきて。
いつしか俺は、ヘビースモーカーと言われても差し支えないほどの愛煙家となってしまっていた。
あの人と、同じように。
あの人は、初心者向きだという煙草をいくつか紹介してくれた。
ブラックチョコレートのようなコクのある味とか、弾ける果実のような味とか、すっきりとしたメンソール系とか。
あの人のアドバイス通りに色々と試し、結局俺が選んだのは、赤いパッケージの有名ブランドだった。タールとニコチンは他のものより少し強くて、最初はくらくらしたけど、まろやかなその味わいが俺好みだったのだ。
互いに煙草を片手に喫煙室で顔を合わせるようになってから、ふと、あの人が唯一俺に薦めなかった煙草があることに気付いた。あの人自身が吸っているものだ。
「これか?」
いつもの甘い香りを漂わせ、
「ガキにはまだ早いよ」
笑って、俺の素朴な疑問を一蹴したあの人。
俺の前ではあくまで『大人』という体勢を崩さない彼に対する、何とも言えないもやっとした感情を、その時の俺はまだ持て余していた。
誰もいなくなった後の、俺とあの人の発した紫煙が混ざり合う喫煙室で、密かにその吸い残しを口にした。どうやらこれがシケモク、というやつらしい。まぁ、どうでもいいことだけれど。
イメージしたようなバニラの味はしない。そもそもバニラビーンズだって香りだけのものなのだし、さほど期待なんてしていなかったけど。
それでも、どうしてだろう。
(……甘い)
シケモクは身体に悪く、普通の煙草より苦みが強い。それは後に知ったことだけど、その時口に広がった味は、何故だか酷く甘かった。
◆◆◆
「先輩、煙草吸わはるんですね」
顔を合わせるなり、挨拶からの流れでいきなり後輩からそう言われて、俺はただ驚いた。
「よく知ってるね」
隠しているつもりはないが、仕事場で吸うことはない。そもそも社内全域が禁煙で、備え付けの喫煙ルームがあるわけでもないのだ。
俺を始めとするこの会社の喫煙者たちはだいたい、ここから歩いて数分ほどの小さな公園に足を運ぶか、車ごと適当な場所に移動してから吸うのが一般的になっている。もちろん営業で外回りをする社員については、言わずもがなだろう。
当然エチケットとして、ガムなどを噛んで口臭のケアをしているし、身体に染みついた煙草の香りはコロンで誤魔化している。
社内での仕事が多い俺が、公園へ立ち寄って煙草を吸うのは昼休みの話だ。同僚たちと食堂へ行くことの多い、非喫煙者であるこの後輩が知っているとは考えにくいのだが……。
「昨日の昼外食しとったんですけど、会社出て行く時に公園を通ったんですよ。そしたら先輩が煙草片手におんなったから」
一緒におった同僚も、珍しなぁ言うてましたわ。
のんびりとした特徴的な口調で話す後輩に、なるほどなぁと納得する。意外と、見られているものだ。
「何で男の人って、煙草好むんでしょうね。何や、うちもちょっと気になってきましたわ」
「女の子はやめといたほうがいいよ。身体に悪いからね」
そう口にしてふと、あの人が俺に言ったことを思い出す。
女性でも煙草を口にする人はいるし、そもそも俺は女ではない。それなのにあの人はどうして、あんなことを言ったのだろう。別に止められたわけじゃないけど……。
俺が彼女にそう言った理由と、あの時の彼の言葉を照らし合わせて、ちょっとだけ自惚れを抱く自分がいる。
我ながら気持ち悪いけど、それくらい許してくれたっていいだろう。
「うちのこと、心配してくださるん?」
悪戯気に見上げてくる彼女の、整ったショートカットをくしゃりと撫でて、俺は「もちろん」と笑った。
「大事な後輩だもんな」
一線を守るために必要な、釘。
直後、キラキラと俺を見上げていた後輩の大きな瞳が寂しく翳ったことに、俺は敢えて気付かないふりをする。その変化を、そして奥にある感情を、彼女は隠しているつもりなのだろう。
でも、悪いけど分かりやすい。
あの人にとっての俺も、そうだったのだろうか。
「……やっぱ、うちも煙草吸おうかな」
「何で?」
鈍感を演じて首を傾げれば、彼女はますます寂しそうに、恨めしげに眉を下げる。
可哀想だけど、答えてやれそうにないことは確かだ。
「……」
大きな瞳が、潤んで光る。今にも零れ落ちそうで、綺麗な光景だ。きっと落ちない男はいないだろう、そう思う……のに。
心の中に燻る、もやもやとした紫煙。霧のように俺の心中を覆い隠して、本当の感情を俺にさえ悟らせないようかたくなに守っている。
自覚したら終わりだということも、そのために俺が取るべき行動も。
全部、分かっている。
それでも……。
「……想いを寄せるお人に、ちょっとでも追いつきたいと思うんは、あかんことですか?」
勇気を振り絞ったのであろう一言に、曖昧な笑みだけを返す。
誤ったベクトルに突き進む感情を、そうと分かっていてもなお歪められぬそれを、いったい誰が正すことができるというのだろう。
ただ一つ、分かることは。
彼女は、俺を選ぶべきじゃない。ということだ。
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