終幕

終幕 君のこと


 幕は降りる。最後の拍手が鳴らぬまま。


 ○


――太陽が斃れていく。

 空はまだ黄昏の最後の明かりに照らされている。されど、教室に差し込む灯は、もう僅かにしか残されてはいない。

 蝋燭の残り火のように、静かに、速やかに、光と熱は奪われていく。

 無人の座席には夕闇が腰を据えていき、やがて訪れる夜の下地となるだろう。

 彼と彼女は、滔々と語り続けた。三年間の思い出を。三年間の記憶を。

 語らざるは三年間の想い。

 その会話の花も次第に萎れ枯れゆき、やがて二人は、沈黙のまま西の空を眺めるのみ。

「……沈んじゃうね」

 死に行く陽を見送りながら、彼女が呟く。

 それはそっけなく、ただ見たままの事実を口にしていると、簡単に知れた。

「うん」

 彼は努めて優しい相槌を打つ。

「今日も終わりだね」

「うん」

「明日から春休み後半戦だね」

「うん」

「大学の準備もしておかなきゃ。とも君は、春休みに予定ある?」

「うーん……」

 彼は特に何も考えていない、という風を装って首を振った。

「そっか。実はさ、彩ちゃん達と卒業旅行の予定立てているの。海の見える温泉旅行」

「へぇ」

「宿泊先がね、団体割引になるらしいから、他に行きたい人がいたら呼んでね、って言われてて、それで……。とも君も、どうかな」

「それは楽しそうだね」

 その言葉を聞いた彼女は、手を合わせて笑顔をつくる。

「じゃあ行こ、一緒に」

「うん」

「あ、とも君が来るなら、古寺くんや、神保くん達にも声をかけてもらえないかな。みんなで行けば、きっと楽しいよ」

「うん」

「そうそう、小鳥ちゃんがね、運転免許もう取っちゃったんだって。送り迎えは任せろ、って言ってたんだけど、その、えっと、ちょっと不安かも」

 えへへ、と彼女は笑う。

「温泉だよ、温泉。それに修学旅行と違って、ずっと自由時間なんだよ。そう考えると、なんだか今からワクワクしちゃうな」

「うん」

「県外の大学に行っちゃう人もいるし、壮行会もやらないと。夜は旅館のお夕飯を食べて、浜辺に繰り出して、季節はずれの花火とかして、騒ぎたいって言ってた。でも最後はちょっと、近所迷惑になるから、本当のところ心配かな」

「ねえ」

 彼は、訊く。

「いつから、知っていたの」

「…………」

 彼女は、笑顔を崩さなかった。

 けれども、声は確かに一度止まった。

「……いつだったかは、覚えていないけれど」

 お下げ髪を指先でいじりながら、彼女は窓の外を見る。

 眼鏡の奥の瞳に、赤の空を焼きつかせるように。

「二年生の時に、タニアさんがやってきて、私に色々な話をしてくれたの。魔法の話とか、夢の話とか。それで、ある日、大事な話があるって言われて」

「…………」

 一拍待てども、彼はもう相槌を打たない。

「いつも、ほわほわしてる人なのに、その時だけ、とっても思いつめたような顔をしててね。お話を聞かされた私より、タニアさんの方が心配なぐらいだったって、どうしてか、そんなことが強く印象に残ってるの」

 彼女は肩の力をふっと抜いた。

「あー、そっかー。って、そんな感じ。ショックとかは、無かったかな……。それよりも気になったことがあったの。どうしてタニアさんが、そんなことを知ってるのか。ううん、それよりも、どうして最初から、私に構ってくれたんだろうって」

 そこで彼女の視線は一度、横にいる者の方を向こうとして、しかしそうしなかった。代わりに、その小さな唇が僅かに動いた。

「ありがとう」彼女はその言葉を掻き消すように続けて言った。「ずっと前から、私の心配してくれたんだよね。ごめんね、全然気づかなくて。それに、気づいてからも言い出せなくて」

 彼女は彼を見ずに言い続ける。

「今日のこれも、私のためにしてくれたんだよね。最後に、もしかしたら、もし……」声は少しばかり躊躇う。「……忘れずにいられるなら。覚えていられるなら、って」

 沈黙が、一瞬だけ二人の間を通り過ぎる。

「……とも君。最後まで、迷惑かけちゃったね」

 返事は無くとも、彼女はそれに構わない。

「私ね、とも君が何をしようとしてるのかは分からないけど、それが私のためだってのは分かるよ。だから、もし、それが上手くいかなくて、失敗して、私が全部忘れちゃったら……」

 いつも通りの穏やかな笑みで、彼女は言った。

「とも君も、私のことは忘れていいよ。気にしなくていい、かな。無責任だけど、とも君のことが、もう何も分からなくなってるだろうから。みんなにも、そう伝えておいて欲しいな。ありがとう、っていうのと、もう心配しないで、って」

 最後まで、彼女は声に震えを見せることすら、なかった。

 普段とは別人のように、長々と喋ったせいだろう。彼女は大きく息を吸い込み、そっと吐き出した。

 そして、そこでようやく、彼の方に顔を向けた。

「僕は嫌だ」

 いつの間にか、彼は彼女の机に身を乗り出していた。

「絶対に嫌だ。忘れるのは嫌だ。誰が何と言おうと忘れてやるもんか。君と、君と出合って、過ごしてきて、思ったり感じたりしたことを、忘れるのは嫌だ。たとえ君自身に言われたって嫌なものは嫌だ!」

 机の天板が激しく叩かれ、音が鼓膜を打った。

「そりゃあ大変な目に遭ったさ。死ぬかもしれない時だってあったさ! でも楽しかっただろ! ワクワクしただろ! ドキドキしただろ! どんなに文句が出てきたって、何だかんだ言ったって、この学校は最高だよ。ああ、そうさ、最高だよ! こんな変な人ばっかりで、変なことばっかり起こる学校が、僕はもう気に入ってたさ」

 何度も、何度も天板が叩かれ、しかしその力は段々と弱まっていく。

「そうじゃない、そうじゃないだろ! 学校なんてどうだっていいんだ。僕は、君とのことが、無かったことになるのが嫌なんだ、本当に嫌なんだ。だけど、一番嫌なのは、君が僕のことを忘れてしまうのが、絶対に、絶対に嫌だ。嫌なんだよ」

 乱れた息に、彼の声は途切れ途切れとなる。

 それでも構わず、彼は言葉を吐き出し続けた。

「君は、本当にそれで良いの。僕のことなんか忘れたって良いやって言うの。君が、どう思ってるのなんか、残念だけど僕には何一つだって分かんないよ。でも、でも、おこがましいし、自惚れだけどさ、絶対に、そんなこと、君は思っちゃいないんだろ。そうだろ……!」

 最後に、天板を打った彼の手は、もはや痛みと痺れで、弱々しい音しか立てられなかった。

 その手を、彼女の両手が包む。

 いきなりのことに気が動転し、叩きつけられ続けた手の痛みがまず心配になったのだろう。

「あ、あの、手、てが……」

 そして労わりの言葉をかけようとして、自分の声が震えているのに気がついた。

「あ、わ、わたし……わた、しは……」

 言葉を正そうとする彼女の頬を、何かが伝って落ちていく。

「私、わた、し……あ」

 泉のように零れ出す涙を、彼女は拭うことすらせず、ただ落ちるままに任せた。

「私は、私は……」彼の手を握りしめ、気丈な心が溶けていく。「私も、忘れたく、ない……。とも君、私、私……嫌だよ……」

 嗚咽に身を震わせ、彼女は本心を曝け出す。

「本当は、忘れたくない。みんな、みんな……とも君、私、忘れたくない……とも君のこと、みんなのこと、嫌だ、嫌だよぉ……」

 それは、残酷な光景であったのかもしれない。

 全てを受け入れていた彼女が、全てを失う時に、望みを再び得てしまったのだ。

 そのきっかけを作った彼は、感覚がまだ戻らない手で、ぎこちなく握り返す。

「東森さん」

「どうして……」涙と悲しみに声を震わせても、なお彼女は言葉を搾り出す。「最後は、笑って、お別れしたかったのに……どうして、どうしてこんなこと、したの……?」

「君は、そうやって、自分のことを蔑ろにしすぎる」ゆっくりと言葉を搾り出しながら、呼吸を整えていく。「自分を大事にって、言ったじゃないか。自分一人で、抱え込まないでよ。君はもう、死んじゃ、駄目なんだから」

「でも、でも、これで、最後なの、に」

「まだだ。まだ、終わっちゃいない」

 陽は消えいく。時は止まらない。

 夕闇が二人の足首を捉える。

 最期の光を背に、彼は語りかけた。

「まだ、忘れてはいない。そうでしょ、東森さん」

「うん……うん……」

「僕のことを、僕たち二人のことを」

「まだ、忘れて、ない……」

「みんなのことを、先生達のことを、先輩達のことを、後輩達のことを」

「忘れて、ない……!」

「ここで過ごした三年間を。ここで起きた全部のことを」

「まだ、忘れて、ない……!」

「そして、君自身のことを」

「忘れて……ない……」

 闇が二人を沈めんと、その身体を這い登ってくる。

「……そっか」

 彼は彼女の身体を抱き、優しくその頭に手を載せる。

「もう……いいよ」

 そして闇が二人を、

「もう、大丈夫だ。終わりにしよう」

 本当に、そうだろうか?

「うん。だから――これでもう充分だよ」

 そう。

 そうか。

 そうであるか。

 それでは。


 これにて、終幕とならん――


 ○


 絵具を溶かすように、教室が消えていく。


――以上を持ちまして、演目は全ておしまい――


 黄昏だけを残したまま、世界が変わっていく。


――皆様、お足元にご注意の上、お忘れ物の無きよう――


 もう、忘れたものは何もないよ。


――それは結構――


 お疲れ様。それから、ありがとう。


――さてさて。カーテンコールは必要かな?――


 うん。

 最後はみんなで、みんなと、一緒に。

 夢を終わろう。


 〇


 僕は、教室が溶け出していくのを、東森さんを抱えながら見ていた。

 後に残ったのは、電気の点いていない暗い部屋――病室と、窓を照らす黄昏の残光だけ。

「…………え?」

 僕の腕の中で、何が起きているのか理解できていない東森さんが、放心したような声を出した。

 僕は彼女――今は病院服姿だった――の背中の方、つまり病院のベッドへ、彼女の細い、あまりにも細い身体を、ゆっくりと倒した。今ベッドはリクライニング機能が働いていて、寝椅子のような形になっている。なので、東森さんはベッドに背中を預けても、まだ上体は起こしたままだった。

 パチリという音と共に、頭上の蛍光灯に明かりが灯る。

 病室の扉の近くで、スイッチから手を離したのは、橋口さんだった。

 彼女はとても緊張した面持ちで、ゆっくりと口を開く。

「……私が、誰だか分かるか?」

「え、あの」

 東森さんは、何を問われているのか、理解できなかったようだ。

「彩、ちゃん……だよね?」

「…………」

 橋口さんの上体が持ち上がり、そして、溜め息と共に下がった。

「――成功だ」

 その言葉を、もう一度繰り返す。

「成功だ。全て、なにもかも、成功だ!」

「やったあああああ!!」

 突然、病室の扉が勢いよく開き、そこから皆が――滝上さんと、神保くんと、最後にゆっくりと古寺くんが――飛び出して、僕らがいるベッドの周りに集まった。

「東森! 私が分かるか! 私が!」

「小鳥、ちゃん……?」

「ははは! そうだ、そのとおりだぜ!」

「俺は、なあ俺は?」

「神保くん……」

「おおお! 正解だ正解だ、大正解!」

 天井近くまでぴょんぴょん飛び跳ねる神保くんを避けながら、古寺くんが苦笑する。

「俺はどうかな。忘れられていたら地味にショックだが、まあ、恨んだりはしまい」

「あの、どうして、古寺くん達は、ここに……? それに、ここはどこなの……?」

 その問いには答えず、古寺くんは手を振って一歩下がった。

「東森、やっぱりお前は良い奴だよ。橋口、解説は任せた」

「さて、何から話したものか」橋口さんは腕を組んでこちらに歩いてくる。「東森。君は、本当の自分が、病院に入院しているということを、タニアから聞いていたね?」

「う、うん」

「今の君の身体がそれだ」

「えっ」

 東森さんは、信じられないという目で、自分に向けられた橋口さんの指を見た。

 僕は改めて、東森さん――本当の、東森さん――を見る。僕が知る彼女よりも、別人のように細い身体と顔つきだった。三年間の病院生活は、彼女の身体をこんなにも弱々しいものにしてしまったのだろう。それでも、少なくともまだ健康な状態にはあるようだった。

「種明かしをすると、今まで君達がいたのは、滝上によって作り出されたお芝居の世界だ」

 いえーい、と手を挙げる滝上さん。ついでにその手を神保くんが叩いてハイタッチする。

「簡単に言えば、二度寝させたのだよ。君を」

「二度寝……」

「そう。目覚めた君をね」橋口さんは、東森さんの頭を撫でる。「夢の記憶を忘れる最も大きな原因は、夢そのものがデリケートなせいにある。目覚めの世界の情報が頭に流れ込むと、それがノイズとなって夢を消し去ってしまうんだ」

 夢にとって、目覚めの世界は、激流にも等しい過酷な環境だ。

 だから僕らは、いつもいつも、朝の目覚めと共に夜の夢を忘れ果ててしまう。

「じゃあどうすれば良いか。簡単だ、二度寝をすればいい。もう一度まどろみに戻れば、ノイズの影響を受けることはなくなる。そして再び目覚めるまでに、忘れないうちに夢を記憶に深く刻み込む」

 何度も何度も、その内容を繰り返して。

「つまるところ、我々が君に行ったのは、そういうことだよ。滝上が夢を見せ、徳井が記憶を誘導する。私と古寺と神保は、まあ、そのお膳立てだね。裏方だ。それに、タニアの名前も外せない」

「あの、いつから、その、お芝居の夢だったの……?」

「君が徳井に起こされたと、そう思った時からになる」 

 つまり一番最初っから、だ。

「あの時点で、君はもう本当の目覚めを迎えていたんだよ」

「そんな……全然、気づかなかった」

「はは、私にかかりゃ、ざっとこんなもんよ。本物だと思っただろう?」

 滝上さんは得意げに胸を反らした。

「ちなみに脚本は俺だ」

 対し、古寺くんがむすっとした表情で手を上げる。

「なんだよ古寺、めでたい席でむすっとしやがって」

「苦労して書き上げた台本を、無視されまくった気持ちが分かるまい」

「しゃーねぇだろ、徳井はともかく東森の行動まで台本通りいくわけねぇんだから。多少のアドリブは必須だよ必須」

「嘘付け。お前自分についてのところだけ悪乗りしてただろ。なんだ偉大な友人って」

「そこらへんは役得だ」

 嘯く滝上さんに、古寺くんは溜め息をつく。

「喋りっぱなしで辛いのは分かるが、もう少し真面目にやれ。徳井も頑張っていたんだぞ」

「俺も頑張ったんだ……!」

「おめぇが頑張ったのは紛れもねぇから少し黙れ」

 なぜか手を上げた神保くんに、滝上さんが裏拳を叩き込む。不憫な……。

「私も、ささやかながら協力はしたよ」

 橋口さんは窓のところまで行くと、カーテンの裏に隠してあった真鍮筒を手に取った。蓋を閉めると、窓の風景は、真っ暗になった。

 今の本当の時刻は、とっくに真夜中を過ぎている。

「滝上の語りがあれば、こんなものは必要無いけどね」

「いやぁ、そんなことねぇよ。脚本通りに進めると時間の進みがおかしくなるからな。そいつリアルタイムで風景が変化するから、時計代わりになってホント助かった助かった」

「はい! はい! 俺も! 俺も頑張ったぞ!」

「神保は運搬係だ。日没までに、学校からここまで君達を運ぶためのね」

 橋口さんは真鍮筒を制服のポケットにしまいこむと、窓に背を向けて歩き出した。

「計画はこうだ。まず学校で君を眠らせる。次に神保が君と徳井と滝上を病院まで運ぶ。病室に君を置く。ここまでが第一段階」

「俺の出番これで終わりだからな、頑張ったぜ」

 ああ、確かに神保くんは頑張ってくれた。

 まさか人間三人抱えたまま文字通り一っ飛びで運んでくれるとは思わなかった。

 今日一番怖かった瞬間かもしれない。

「そして時間が来て、夢の君が消えたら、第二段階。滝上の語りで日没前の教室を見せ、目覚めた君が、まだ夢を見ていると錯覚させる。そして、夢を記憶に定着させるわけだが……」

 橋口さんは、魔女のような笑みを浮かべて、僕を指した。

「彼がその進行役だ。だがその役目は、思い出を一つ一つ記憶させること、だけじゃない。目覚めても夢を忘れないようにするコツはもう一つあってね、しかしこれは当人にはどうにもできない条件が必要だ。その夢が悪夢や、その逆に胸を打つような、心を掻き乱し記憶に強く焼きつく強烈な夢であること、というね。……それだけ泣けば、絶対に忘れえぬ思い出になるんじゃないかな?」

「いやぁ、最後の啖呵は名演、名演。お前、役者の素質あんじゃねぇの?」

 滝上さんが拍手を送ってくる。

 僕は少し記憶を遡り、そこで気づいた。

 確かに彼女が泣きだしたのは、事前に言われた通りの結末だった。けれど。

「あ、そういえば、すっかりそのこと忘れてたよ」

「え?」

「えっ」

「え」

「え……?」

 四人が四人それぞれの反応を見せてきた。

「お、お前まさか、あれ素だったのか」

「滝上、え、ええ演劇部部長なのだろう、気づかなかったのか」

「あんなセリフ素で吐けるやつ普通いねぇよ……!」

「俺も流石にあんなのは書かん……」

「お、俺こういう時、なんていうか知ってるぜ。ごちそうさまでした……だっけ」

「神保、無理しなくていい」

 酷い言われようだった。

 どうでもいいけれど、橋口さんがうろたえるなんて、非常に珍しいものが見れた。

「……まあ、ともあれ」その橋口さんはすぐさま立ち直って、いつもの冷静な表情に戻った。流石だ。「こうして計画は進められ、かくて君は記憶を失わずにすんだ、というわけだ。ここまでで質問はあるかな?」

「え、えー……と……。無い……です」

 東森さんはそう答えたけれど、もしかしたら何も理解できていないのかもしれない。どこかぼんやりとした表情で、橋口さん達と僕とを交互に見ていた。

「うん。では」橋口さんは頷き、手を振った。「そろそろ撤収しよう。もう面会時間をとっくに過ぎてしまった。逃げるぞ」

「あれ、そういえば、なんでこんな時間まで、僕らのことバレなかったの?」

 日が落ちてからずっと、東森さんと一緒に滝上さんの語りの中にいたから気づかなかったけれど、こんなに時間が経過していたなら、見回りの人か誰かに見つかっていたはずだ。

「ああ。それか。難しいことじゃない。我々は神保のお母様から、特別にこの病室へ入れるよう、何とか手をまわしてもらったが――」そこで橋口さんは、これぞ魔女の顔、という、とびきり凄い笑顔を見せてくれた。「――ここだけ三次元空間を捻って誰も入れず邪魔できないようにしてはいけない、とまでは言われてないからなぁ」

「うん、ちょっと待って、何やってんの。というか誰に頼んだのそれ」

 明らかに橋口さんの魔法じゃできない芸当だ。SF同好会だろうか、それともオカルト同好会だろうか。候補が多すぎてとても十以下に絞り込めない。

「さあて、誰だろうね。ただこれだけは言っておこう。東森に助けられたことがある者の中には、それなりに恩を返したいと思っていた者もいる、ということだ」

「それは……」

 何のヒントにも、なりはしない。

 彼女に助けられた人は、一体何人いることやら。

「だから東森詠子。君は礼を言うな。君に礼を言うべき人間が好きでやったことだ。これで借りは返したぞ、とね」

 橋口さんはそう言って、さあ帰ろう帰ろう、と皆と一緒に入り口に向かう。

 それに続こうと、僕は椅子――滝上さんの語りが無い今は、ただの病院のパイプ椅子だ――から立ち上がろうとして、少しふらついた。ああ、ずっと座りっぱなしだったもんなぁ。

 と。

「あ、あの……」

 東森さんが、入り口の皆に向かって声をかけた。僕の服の袖を、掴むというよりは触れるように、握りながら。

「本当に、全部忘れずに、記憶できたの、かな」

「ふむ……確認する必要は、あるか?」

 橋口さんは横の三人を見る。

「一応やっといたほうが良いんじゃね。そこらへんよく分からんから、丸投げすっけど」

「餅は餅屋だ。橋口、頼んでいいか」

「俺も役に立ちそうにないなー」

「そうか、では……と、言いたいところだが」それは、とてもとても下手な演技だった。「まずはタニアに成功の報告をしなければ。彼女が今回一番の功労者だ。すぐに、かつ詳細に伝えてやらないと。というわけで後は頼むよ」

 橋口さんは僕と滝上さんに目配せをし、僕が何か言う前に、滝上さんが素早く応えた。取り出した紙とペンで何かを走り書きすると、それをもっともらしく前に掲げてみせた。

「おっほん。えー後は若い二人に任せまして。それでは皆さん、お耳を拝借」

 そして。


――夢の続きよ、最後の夢よ。我らが二人にもう一度――


 気がつくと僕らは、またあの教室の中にいた。

 橋口さんも、滝上さんも、古寺くんも、神保くんも、もう姿は見えない。

 ここにいるのは、僕と、そして、君だけ。

「みんな……えーと……なんていうか……」

 最後に、いい笑顔で去っていった。悪意は、無いのだろうけれど。疑いはないけれど。

 これは、少し、とっても、こそばゆい。

「えっと、とも君」

「うん」

「なんか、ごめんね。残ってもらって」

「気にしてないよ。それに、こっちこそ、ごめん。ずっと黙っていて。このことを予め教えるわけには、いかなかったんだ。もし、本当の夢じゃないって知っていたら、目覚めてすぐに夢が消えていたかもしれないから」

 それが目覚めの世界だと知った瞬間に、全てが消えるかもしれなかったから。

 その可能性は、決して低くは無かったんだ。

「それでも、ごめん。騙していて」

 謝る僕の言葉に、彼女は無言で首を振って応えてくれた。許して、くれた。

 それだけで、僕はどれだけ救われただろう。

「ところで、確かめたいって、口実だよね」

「えーと、その」

 コン、と小さい咳払いの後、東森さんは僕を見る。

「本当は、その、聞きたいことが、あったから……」

「聞きたいこと?」

 彼女は椅子を指す。僕はそれに従って腰を降ろした。

「とも君に、まだ話してもらってないこと。ううん、違うな。もう少しだけ、お喋りがしたかったの」

「僕も。僕も、君と話したい」僕は彼女の手をとる。「でも、無理はしちゃ駄目だよ。目覚めたばかりなんだから、本当なら安静にしてなきゃ」

「まだ、眠りたくは、ないかな」

 彼女の声は、弱々しく喉を震わした。

 ああ……そうだ。

 彼女は、ようやく終わったんだ。

 長い長い、夢を見ることを。

 今はその名残を、僕と一緒に見ているんだ。

「……それじゃ、眠りたくなるまで、話に付き合うよ」僕は彼女から手を放し、肩と腕のあたりを優しく持つ。「でも無理の無い範囲でね。身体の調子が悪くなったら、すぐにお医者さんを呼ぶから」

「うん」

 頷くけれど、この人はすぐ無理をしてしまう。三年間そうだったように。

 ここは、僕がしっかり見ておかないと。

 窓の外は、いつか見た夕暮れ。

 もう時間が進むことも、陽が沈むこともない。

 これから先、もう二度と訪れることのない教室で、僕らは最後の夢を見る。

「さて、じゃあ何から話そうか」

「あの」彼女はおずおずと口を開いた。「気になったことが、あって」

「なに?」

「最初にとも君が言ったこと。私に言いたいことが、あるって」

「ああ、そういえば、そう言ったっけ……」

 もう何時間も、何日も前のことのようだ。

「結局、言いたいことって、何だったのかな」

「それは……」

 僕は少し迷い、けれども、言うことにした。

「……うん。それはね。ほら、僕は君に、本当の君に会うのは、これが最初だから」

「そうだね、夢では毎日会っていたのに」

「だからさ、まずこう言わなきゃいけないと思うんだ」

 今まで一度も会えなかった君に。

 今まで一度も言えなかった、その言葉を。


「〝はじめまして、東森さん〟」

「……うん。〝はじめまして、ともる君〟」


   おわり

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