第2話 九州説と近畿説(ラスト・シャーマンより)

 「ラスト・シャーマン」では、邪馬台国の位置は現奈良県に設定しています。

 邪馬台国といえば、九州説と近畿説に分かれて、論争が長く続いていますね。

 意外に思われるかもしれませんが、私は、邪馬台国のあった場所についてはニュートラルな立場です。



 なぜなら当時、大陸から文化が入ってくるとすれば、その玄関口は九州です。

 当然、そこでは、ほかの地域に先駆けて、大陸の影響を受けた文化が発展するはず。

 ですから、九州ですすんだ文化の形跡があったとしても当然だと思うんです。




 実は私も、この物語を書いている途中、「やはり邪馬台国が奈良にあったというのは不自然」と思い、舞台を九州に変更しようかと思ったこともありました。

 当時交通交易の主たるルートであった海から離れた内陸にある奈良に、他の地方より優れた文化が発展するとは、どうしても考え辛かったのです。

 どう考えてみても、九州の方が大陸の影響を受けているだろうし、そんな交通の便の悪いところが発達するとも思えなかったのです。




 でも、発想の転換をして、本当に邪馬台国には進んだ文化があったのか……と考えてみると、にわかに近畿説にも信憑性を抱くようになりました。

 大陸の文化の影響を色濃く受けたような国が、巫女の占いにまつりごとを任せるなどという、どちらかと言えば原始的なことをするだろうか。

 邪馬台国を、逆に大陸文化から隔離された場所と定義すれば、四方を山に囲まれた奈良の地にあったとしても不思議ではないと思うのです。

 つまり、私の見解としては、「当時九州の方が文化は進んでいた。しかしながら、優れた文化があった場所が邪馬台国とは限らない」というものです。




 魏志倭人伝によると、邪馬台国の女王卑弥呼は、魏の皇帝から倭国の代表として認められ、金印と「親魏倭王しんぎわおう」の封号を賜っています。

 これは一見、邪馬台国が倭国内で一番影響力を持っていたからともとれますが、少しうがった見方をすれば、魏にとって、一番扱いやすかったのが邪馬台国であったとも考えられます。

 九州は地理的に大陸文化の影響が色濃く、武器なども比較的手に入りやすかったであろうと想像されます。

 そして、魏に敵対していた呉に距離的に近く、呉の人間も多く出入りしていたでしょう。

 一方の邪馬台国は、神を信じ、占いに政を委ねているような原始的な国で、武力で抑えやすい。

 魏の皇帝が、そのように考えたとしても不思議ではない気がします。




 しかし、邪馬台国が仮に発展途上の国であったとするなら、その後いきなりそこで朝廷が開かれ、文化的な都が造られたというのは逆に不自然です。

 けれど、卑弥呼の死後〜飛鳥時代までの約400年間、中国の文献から倭国の記述は姿を消し、「空白の4世紀」と呼ばれ、その間の倭国の様子は定かではありません。

 その間の私の想像は、卑弥呼の死後占いに頼る政が行われなくなり、もともと優れた文化があった九州で朝廷の基礎が作られ、それが東征して奈良の地に都を造ったのではないかというものです。

 ですから、卑弥呼の死後の邪馬台国(倭国の中心)がどこにあったかと問われれば、それは九州であると答えるかもしれません。




 「ラスト・シャーマン」は今回、このような仮定から書き上げました。

 もちろん、私は歴史に詳しい訳ではありませんし、数々の矛盾点もあるでしょう。

 勝手ながら、そのあたりはフィクションとしてお楽しみいただければ幸いです。

 もしかすると、いずれ九州に邪馬台国があったと仮定した物語を書くかもしれません。

 このように様々な歴史物語を導き出す作業は、とても楽しいものです。

 そんな想像力をかき立ててくれる「邪馬台国」の魅力は、このような謎めいた部分にあるのでしょう。



 あなたの想像の中では、邪馬台国はどこにありますか?



2014年9月6日

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