6.



 闇に満たされた夜の校舎。

 いまだ混乱の波が引かない学校を、僕たちは疾駆した。

 廊下を抜け、階段を駆け上がり、一路、屋上へと向かって走った。

 先頭は針見はりみ先輩、次に僕、その後ろに布津ふつが続いた。


「――布津! 一緒に来てくれるのは、はあっ、ありがたいけどさっ」


 話しながらの会話は息が上がり、自然、断片的にならざるを得なかった。


「なんだ、或人あると

「いやだからっ……別にここまで僕に付き合わなくてもいいのにって!」

「何言ってんだ。それこそいまさらっ……つっ、だろ?」


 追いかける布津の呼吸も途切れ気味であった。


「……なんか、悪いね」

「いいんだ。俺が勝手に……ふぅっ、やってるだけだからなっ」

「ふふっ。お二人とも本当に、ええ、本当に仲がよいのですね」


 会話を聞いていた針見先輩が楽しそうに笑った。

 そのような、場違いにも和やかな雑談を交わしつつ、僕たちは走った。


 時おり耳に響くのは、悲鳴と喧騒。窓の向こうでは土砂降りの雨と断続的な雷鳴が猛威を振るっていた。

 事態は混沌としているらしい。だが、そんな外野の事情は僕にとって些事でしかなかった。妹がすぐそこで怪異と対峙している――ただその一点のみが、僕が重視すべき事柄であった。


 他のことは、割とどうでもよい。

 


                 *



 最上階まで来れば、ゴールは目前である。屋上へと続く階段は普段利用されることが少ない場所で、立ち入った途端に若干の埃っぽさを覚えた。


 見上げると、通常は施錠されている筈の屋上への鉄扉が大きく開け放たれているのが窺えた。雨風が吹き込み、踊り場の床に水溜まりを作っていた。僕は最後の階段を勢いづけて上がり切り、一直線に外へと飛び出した。


「――言鳥ことりっ!」


 果たしてそこには我が妹、言鳥の姿があった。



                  *



 言鳥はセーラー服のまま雨に打たれ、右手に刀のようなものを携えていた。自慢の姫カットが雨水を吸い込み、ぐっしょりと重そうである。


「えっ、おにいちゃ……兄さん!? どうしてここに――」


 言いかけて言鳥は僕の背後に針見先輩がいるのを認め、


「ああ、そういうこと……」


 と、何かを悟った様子でぎりりと目を細めた。

 顔が怖い。

 濡れそぼる髪がつっと垂れ下がり、それがまた怖ろしさをを相乗させていた。


「言鳥、何してるんだ。そんなに雨に降られて……」

「……いいから、兄さんはもうにかかわらないで」


 

 この事とか何か。

 妹を大切にすることを差し置いて僕が優先すべき事象など、この世にひとつとして存在しないというのに。


「何言ってるんだ言鳥。さあ、一緒に帰ろう。いいかげん風邪を引くよ」

「だめ」

「なんだい、何が駄目だと言うんだい」


 妹は相変わらず言葉が足りない。


「だめのものはだめなの。を何とかするまでは……」

「アレ?」


 言鳥は軽くうなずき、忌まわしげな表情で振り返った。

 つられて僕も視線を動かした。

 


                 *

 


〝何か〟が立っていた。

 飾り気のない雨夜の屋上。

 き出しのコンクリート平面が広がる、その中央辺りであった。


 それは女性のようだった。ようだった――と、素直に「人間の女性」と断言できなかったのは、彼女が漂わせる独特の空気に拠るものだろうか。


 その女性は雨に濡れるのも厭わず、そこに凝然ぎょうぜんとしていた。彼女は白く裾の長いバスローブのような、あるいは作務衣のような衣服をまとっており、なるほどそれは遠目には経帷子きょうかたびらを着た幽霊のイメージにも酷似していた。見方に拠ってはロングスカートに見えないこともない。

 僕は人物の特徴を掴もうと目を凝らすも、長くばらけた髪は女性の頭頂から肩までをまったく隠してしまっていて、ここからではその目鼻立ちさえも不鮮明だった。



                  *



 やがて目が闇に順応してくると、次第に周囲の様子が見えるようになってきた。

 ややして僕はぎょっとする。


 


 太く赤黒い、血のような線。雨で流れ落ちていないところからして、耐水性のインクだろうか。円や直線、その他文字のようなものが複雑にコンクリートを覆っていた。

 そして。

 どうやら件の女性はそれら模様の中心に立っているらしかった。



                  *



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る