2.



                  *



 無限に湧き起こる〈トイレの花子さん〉を前に、私は刀を構えた。


 闇夜。照明は消えていた。ただ一筋、小窓から差し込む月光が演劇のスポットライトを思わせた。ふっと、アンモニア臭と消臭剤のにおいが鼻腔びこうを突く。ひんやりとした空気が場を満たしていた。


 舞台は真夜中の学校の女子トイレ。

 主演は私、暮樫言鳥くれがしことり

 おかっぱ頭の少女たちが、にたにたと不気味な笑みを浮かべて私を取り囲んでいた。目元まで隠れた髪から覗く彼女らの面貌は果たして金太郎飴を切ったように全員同一で――まったくモブもいいところである。どうにも役不足だ。




                  *



 辺りは暫くしんと静まり返っていた。

 これだけ大勢が密集して衣擦れの音ひとつしないのは、花子さんたちが物理法則の外に存在することの証明でもあった。


 私が握っている刀は暮樫家に代々伝わる退魔の秘刀――という名目の、刀の形態をしただ。


 以前、布津ふつ先輩に「物騒なもの持ち歩いているな」と言われて、これがプラスチック製であることを明かすと、即座に「竹光ですらないのかよ」との指摘を受けた。流石の簡潔で的確なツッコミ。毎日のようにあの愚鈍な兄の相手をしているだけのことはある。


 しかしこの見せかけの刀、平時は模造刀以下の代物だが、ひとたび暮樫家の人間が力を籠めれば、霊的存在を両断する強力な武器へと転じる。


 使っている私が言うのもなんだけれど、意味が分からない。


 籠められているのが霊力なのか念力なのか、はたまたオーバーソウル的な何かなのかは実のところ私もよく理解していないのだが――叔父曰く「こういうのはポーズが大事なんだよ」とのことである――兎に角、一心に念じてばっさりやると、幽霊や妖怪の類を霧消させることが出来る。その実効性だけはよく把握していた。




                  *



「――それじゃあ花子さんたち、


 そう私が告げたのを合図に、花子さん一体一体が俄かに殺気を帯びた。


 〈トイレの花子さん〉は一般に、呼びかけに答える怪異だ。個々の事例ごとに異同はあるものの、おおよそ「花子さん、遊びましょう」という声に対してトイレの個室から何かしらリアクションがある――というのが典型だ。この学校ではどういう訳か吹き溜まりのようになって歪み、増殖し、変質してしまっているが、本来の性質に訴えれば向こうもそれなりの態度で応じてくれる。


 ……などという、尤もらしい説明は彼女たちにはそれほどの意味を為さない。


 彼女らが発生するのに理由はない。

 正しくは、

 そして、何故そこにいるのか分からない故に、は怪異なのだ。



                  *



 私が刀を向けると、花子さんの群れに動きがあった。

 刹那、飛びかかってきた一体に刀身を突き刺した。

 たちまちそれは赤い水玉になって四方に弾けた。


 ぐちゃっ。


 嫌な音がして床のタイルが赤く染まった。

 粘っこい飛沫が私の頬まで届いた。

 息つく間もなく次の一体が襲い掛かる。


 ぐちゃり。一刀で倒す。

 そしてまた次の一体。ぐちゃり。

 次の一体。ぐちゃり。


 次。ぐちゃり。次。ぐちゃり。次。ぐちゃり。次。ぐちゃり。次。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり――――……。


「はあ。はあ。はあ。はあ……」


 流石に息が乱れる。

 すべての花子さんを潰し終えた時、女子トイレは一面赤黒く染まっていた。自分でやっておきながらひどい有り様だ。つと、あとの掃除が大変だろうなと思うがそれは私の仕事ではない。



                  *



 やはりこんな怪異まみれの学校に、兄を一人で通わせておく訳にはいかない。

 暮樫の人間はそこにいるだけで怪異を引き寄せてしまう。古来続く特異な血統が、あらゆる怪異を呼び寄せてしまう。

 しかし、兄はそれら怪異を見ることが出来ない。

 だから、私が戦うしかないのだ。


 ああでも、屋上で手を握られたときはちょっとどきっとしたな……。

 兄さんの手。

 冷えた私の手を包む、大きくてあたたかな手。


 あれはなかなかに悪くはなかった、うん、悪くなかった。

 たまにはああいうのも……。


 ――いやいや。束の間の煩悩に流されてはいけない。


 私が兄を守らなければ。

 妹の、私が。




                  *



「終わったか」


 トイレの入り口に立ち、私に声を掛ける人影があった。

 やけに屈強な体格のその人物はこの学校の教師であり兄のクラス担任、戸國とくにナオヒス先生そのひとであった。彼がこちらを向くと、琥珀色のカラーレンズメガネ(センスが悪い)が月の光に反射してぬらりと光った。


「終わったか――じゃないですよ、先生。誰の所為だと思っているのですか」


 私が毒づくと、


「そう言ってくれるな。だいたい根本的な怪異の発生自体は、こちらに責任はない」

「それにしたって、兄を巻き込む理由にはなりませんよ」

「おいおい。暮樫を引き込んだのは暮樫本家の意向を汲んでのことだ。我々は手を貸したに過ぎんよ。感謝されこそすれ、非難される謂われはない」

「本家の意向……また亡是ぼうぜの叔父様の言う〝修行の一環〟とやらですか」


 いかにもあの叔父の言いそうなことだ。

 私はそこでひとつ息を吐く。


「酷いマッチポンプです」

「私はシステム社の指示に従っているだけだ」

「それで生徒会まで動員してこの騒動ですか」

針見はりみのことを言っているのなら、そもそもあいつもこちらの社員だ――というより、私の部下だ」

「布津先輩はどうなんです。あの人は一般人でしょう」

「彼は我々のよき理解者で、協力者だよ」

「…………結局、全員グルなんじゃないですか」



                  *



 今回の〝学校の怪談〟騒動の発端――。

 それは、


 四月の初め。私たち暮樫兄妹が二人同じ学校、同じ地域に揃ったことに拠って怪異を引き寄せる磁力、のようなもの――が強まり、それまで鳴りを潜めていたこの土地の怪異が一気に噴出したのだ。


 その現象に目を付けたのが、戸國先生の属する霊能力組織『超心理領域開発システム』。地元行政や教育界に深く関係を持つ彼らは、現れた怪異に〝学校の怪談〟という枠組みを与えて広めたのだった。戸國先生は組織の派遣員であり、謂わば(肩書からして酷くセンスが悪い)だった。見た目通りだ。意外性も何もあったものではない。


 怪異の大量発生を彼らは事前に予測していた。

 それこそ、数か月前から。


 大がかりな新入生歓迎イベントの準備と称してなるべく多くの生徒を春休み期間から学校に居残らせ、怪異を目撃させる。彼らの息のかかった生徒が目撃譚を如何にも吹聴することで、噂は瞬く間に拡散した。



                  *



 元来、正体不明で不定形な〝怪異〟たち。


 それらは「なんとなく不思議な現象」としてこの土地にあったものだったが、今回〝学校の怪談〟のフレームを得ることで新たにかたちを形成した――そういう意味では、戸國先生たちはただ『話の型』を与えたに過ぎない。


 超心理領域開発システムの目的は、噂の拡散と怪異現象増加の相関性を測り、また怪異の発生が「人間の霊視能力発現」のトリガーとなり得るかどうかを観察することにあったらしい――。


 尤も、土地の怪異とは無関係の不審者が紛れ込んでいるのは、彼らも想定外であったようだけれど。



                  *



「それで、あの『屋上の幽霊』の正体はいったい何だったんですか? 兄にも見えていたということは、幽霊ではないのですよね?」

「ああ。あの女は我々と敵対関係にある〈地霊ゲニウス・ロキ派〉の呪術組織――怪異をなんでもかんでもその土地固有の霊の影響と解釈する勢力だが――その一員だった。幽霊に成りすまし、屋上に結界を張って我々システム社側の接近を防いでいた」


 外部の呪術師が怪談騒動に乗じ特殊な結界を張って身を紛らせ、学校に潜伏していたということらしい。まあ、その強固な結界も超常的な現象の一切を感知しない兄には効力を為さなかったようだが……。


「彼女の潜入の目的はこれから取り調べることになるだろうが……。おおかた、この高校に怪異が突発的に増殖したことを受けて、それを何かしらの儀式に利用しようとしたってところだろう」

「そうですか……。それでは、彼女が『屋上の幽霊』の話を知っていたのは?」

「それも単純な話だよ。彼女はこの高校の卒業生、OGだった」

「ああ……」

「たまたま在学中に好んで聞いて覚えていた話を元にして、今回の作戦を思いついたという経緯らしいな。それだけだよ」


 なるほど、確かに知ってしまえばなんてことはない話だ。

 学校という空間にいると、外部の可能性というものに自然と思い及ばなくなる。


「ああそれと――」

「なんです?」

「ちなみに彼女、在学当時は図書委員だったらしい。例の図書室の『呪われた本』を仕込んだのも、どうも学生時代の彼女のようだな」

「それは、何と言うか……」


 どういう巡り合わせだ。

 私は無自覚に怪異を寄りつかせてしまう我が兄のことを思い、軽く眩暈めまいを覚えた。



                  *



「では――もう未知の危険性はないのですね」

「そこは安心してくれ。これ以上怪異の増殖がないよう、我々のほうでも対処する」

「それも本来なら余計なお世話です。学校ひとつ分くらいの怪異、私一人でどうにでも解決できますので」

「相変わらず頑なだな。まあ、こちらはこちらで好きにやらせてもらうまでだ――」


 そう言い残して、戸國先生は立ち去――――るかに思われたが、


「そうだ。ひとつ言い忘れていた」

「……なんです。まだ何か」

「これから君もうちの高校で学校生活を送ることになるわけだが……兄妹仲がよいのは結構だが、ほどほどに頼むよ。下級生が上級生のクラスに入り浸ったり、付きまとったりするのも、度が過ぎればあまり好ましくは見られないだろう」

「…………それは教師としての忠告でしょうか」

「ああ、そう思ってくれて構わない。君はそう……少しブラコンが過ぎるからな」

「よ、よよ余計なお世話ですっ!」

「ハハッ。では、失礼する。入学おめでとう」


 そして今度こそ先生は闇夜の裏に消えた。

 まったく……。



 兄には怪異的な存在及び現象の一切が見えていない。

 それは生来の体質であり、今後も大きく変わることはないだろう。


 一方で、妹の私は幼い頃から〈視え過ぎる〉体質だった。

 

 自分が好むと好まざるにかかわらず、私の世界は怪異に満ち溢れている。

 そしてその体質は私の成長とともにより強力さを増してきた。

 さながらそれはゲームのレベルアップのように――。



                  *



 私の世界は怪異に満ちている。

 私が怪異に干渉すればするほど、私の〈視える〉世界は不可逆的に広がっていく。


 そのたびに、私と兄の世界は隔りを増す。

 私が頑張れば頑張るほど、兄と私の見る世界はずれていくのだ。


 兄が見ている世界と私が見ている世界のどちらが正しいか。

 その問いに答える言葉を私は持ち合わせていない。


 怪異と相対するとき、私は自分が世界のどこに立っているのか見失いそうになる。


 虚構と事実の境界は限りなく曖昧で――、

 幻想と現実の何が違うのかなんて分からなくて――、


 だってそうだ。


 虚構存在と干渉し合う私のほうが虚構でないと、どうして断言できるだろうか?



                  *



 私の兄は霊が見えない。

 怪異全般を感知することが出来ない。


 決して重なることのない世界を、私たち兄妹は生きている――――。




                  *



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