十二

 気がつくと旧校舎を飛び出していた。降りしきる雨のなかをひとり傘もささずに走る。駐輪場のわきでは泥やあくたが濁流となって行手を遮った。かまうもんか。スニーカーで泥水を跳ねあげ、一気に駆け抜ける。

 さっき用務員のおじさんに言われたことをもう一度考えてみる。

 ――本来自分があるべき場所へ帰りなさい。

 たしかにそう言った。あの幽霊の女へ投げかけたセリフとおなじ。じゃあ、わたしも幽霊だと言いたいわけ? そんなバカなことがあってたまるものか。

 走りながら自分の頬っぺたを叩く。ペチペチと肌を打つ音がする。感触もあった。だいじょうぶ。わたしはここに生きている。ちゃんと存在している。幽霊なわけないじゃん。そう自分に言い聞かせるのだけど、急激に膨れ上がる得体の知れない不安はいっこうに去らない。

 じゃあ、これはどう説明する?

 どしゃ降りのなかを走っているのに、からだがぜんぜん濡れていなかった。服にもスニーカーにもまったく水が滲みてこない。

 呼吸が荒くなる。うそだ、信じられない。

 荘厳な音を立て雨が大地を打っている。立ち止まり空をあおいだ。黒い雲のかたまりがすごい早さで押し流されていた。無数の矢のように雨が振りそそぐ。目を細め、その雨粒を顔で受け止めてみた。うん、冷たい。ちゃんと温度を感じる。まぶたや頬を打たれる感触もたしかにある。でも……濡れているはずの髪を指ですいてやると、なんの抵抗もなくサラサラと毛先へ抜けていった。

 こんなことって――。

 下校時刻はとっくに過ぎていた。雨で部活も休みらしく、あたりに生徒の姿はない。わたしは、おぼつかない足取りで学校の敷地からさまよい出た。雨は濁流となり道路を洗っていた。ワイパーをせわしなく動かすトラックや乗用車が何台も行き交う。ふと雨でかすんだ舗道のさきにひと影が見えた。水中に咲く造花のように鮮やかなカラーの傘が、ひとつ、ふたつ、みっつ。

 ――佐緒里

 大きな花束を抱える佐緒里を中心に、詩穂と美佳の三人がならんで歩いていた。みんな雨を避けてうつむいたまま、ゆっくりとこちらへ向かってくる。

「佐緒里っ」

 わたしは、つんのめるように駆け出していた。よたよたと足をもつれさせ、懇願するように声をしぼり出す。

「ねえ、佐緒里ってばっ――」

 無視しているのか、それとも気づかないだけなのか、三人とも自分のつま先へ視線を落としたまま顔を上げようとはしない。ほんの数メートル先。そこに彼女たちがいる。でも、わたしにはけっして手の届かない場所に存在しているような気がした。今まで押さえ込んでいた感情が一気に爆発した。わたしは両足をふんばって思いきり叫んだ。

「佐緒里っ、詩穂っ、美佳っ! お前らいつまでも無視してんじゃねえよっ、バカやろうっ!」

 その声が聞こえたのか、美佳が立ち止まって顔をあげた。ゆらゆらと視線をさまよわせる。つられて佐緒里と詩穂も足を止め、彼女のほうを振り返った。

「どうした、美佳?」

 花束を抱いた佐緒里が不思議そうに首をかしげた。白いチューリップと山吹色のガーベラが、彼女の水色のワンピースによく映えていた。美佳は悲しそうな顔で、まだキョロキョロと辺りを見回している。

「今、風香に呼ばれた気がしたの」

「美佳はいつもそんなこと言ってるな」

「だって本当なんだもん、風香の声がしたのよ」

 詩穂が、ふっと力ない笑みを浮かべた。

「あたしもときどきそんな気になることあるよ。風香がまだそばにいるって感じるときがある。やっぱみんな淋しんだよ。だからそんな錯覚を起こすんだ」

「錯覚じゃないって。今たしかにわたしたちの名まえを呼んだの。ちゃんと聞こえたもの。ホントだよ」

 美佳がめそめそ泣きはじめる。その肩を佐緒里がポンと叩いた。

「ほら、泣いてないで行こうよ」

「そうそう、立ち止まってちゃ通行の邪魔だよ」

 彼女たち三人はわたしなどまるで眼中にないように、ふたたび歩きだした。どんどんこっちへ近づいてくる。チューリップとガーベラが雨に濡れている。わたしはすがりつくような格好で佐緒里に歩み寄った。

「佐緒里っ」

 指先がワンピースのそでに触れる。と思った瞬間――わたしは濡れた舗道のうえで、たたらを踏んでいた。そのままストンとひざをつく。なにも掴むことが出来なかった自分の指先を、茫然と見つめる。

 触れることができない。からだを通り抜けた。

 雨が音を立てて降りしきる。路線バスが派手に水を跳ねあげる。その音にまぎれ、佐緒里たちの長ぐつの音がどんどん遠ざかってゆく。わたしは後ろを振り返ることが出来なかった。泣くことも叫ぶことも出来ず、ただ自失したままその場にうずくまっていた。

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