十一

 もう二度と来るまいと思っていた。でも確かめずにはいられない。

 アキラとあの用務員のおじさんのことを。

 旧校舎の床は一歩踏み出すごとにギィギィときしんだ音を立てた。湿気った木のにおいが廊下の奥まで充満している。どこかで雨漏りしているのかピッチャン、ピッチャン陰気な音がする。わたしとトムは、まるで地雷源でも歩くみたいに慎重な足どりで時計塔を目ざしていった。

 まだお昼を少し過ぎたばかり。でも雨が降っているせいで建物のなかはひどく暗かった。慎重に階段を上ってゆく。昨日あったことを思い出すと足の震えが止まらない。ようやく機械室のまえにたどり着いたときには、緊張で喉がカラカラになっていた。

 ドアノブに手を掛けたまま、トムがわたしのほうを振り返った。心なしか顔が引きつっている。だいじょうぶか? ヤバくねーか? 昨日みたいに幽霊がシクシク泣いてたりしねーか? 彼の目がそう語っている。わたしはポケットのなかでギュッとお守りをにぎりしめた。お婆ちゃんがくれた菅原道真のお守り。学問の神様だから魔除けの効果があるのかちょっと不安。だけど仮にも神様というくらいだから、まさか幽霊ごときに負けたりはしないでしょう。などと罰当たりなことを考えつつ。

「行けっ、トム!」

「お、おう」

 勢い良くドアが開かれた。慎重になかの様子をうかがう。だれもいない。幽霊もシクシク泣いてない。わたしは手にびっしりかいた汗をスカートでぬぐい、トムの背をグイグイ押してなかへ踏み込んだ。

「オジサンいるんでしょう?」

 部屋のなかを見回して、そう呼びかけてみる。返事はない。

 代わりに雨足が強まってきた。パチンコ玉でもばらまいたような豪快な雨が、時計塔の屋根に容赦なく打ちつけられる。遠くのほうで雷が鳴った。

「ねえ、オジサンってば」

 ぜったいにいると確信していながら、いっぽうでは自分の勘違いであれば良いと願っている。もう死んでしまった学校用務員のおじさん。植村哲生さん。

 ピカッと雷が光った。廊下の天窓からさし込んだ光は、開け放ったドアをすり抜けて機械室のなかをも一瞬明るく照らし出した。暗闇になれた目に、室内の様子が鮮明に浮かびあがる。

 おじさんが立っていた。

 もうずっとむかしに使われなくなった時計のムーブメント。その横に、昨日とおなじ格好でたたずんでいた。水色の作業服。手には掃除用具を提げている。わたしは思わずトムの肩へしがみついた。いつの間に入ってきたのだろう。いや、わたしたちが踏み込んだときにはたぶん、もうそこにいたのだ。

「今日は、ずいぶんと蒸しますねえ」

 稲光りが去ってふたたび闇となった室内から、おじさんの声だけが聞こえてくる。

「梅雨に入ると、どうも気がくさくさしていけません」

 優しそうな声だった。でも彼は生きている人間じゃないのだ。さっき図書室で亡くなったことを確認している。

 肉体が滅びてなお、この世にとどまろうとする精神とはどういうものだろう。憎悪だろうか? それとも怒り? いずれにしても良い感情ではないはずだ。おじさんの胸の内に秘められているであろう情念が怖かった。ドロドロとした負の感情を想像すると身のすくむ思いがする。

 わたしが、どうにかしゃべれたのは、しがみついた手のうえにトムがそっと自分の手を重ねてくれたから。

「あなたはアキラとどういう関係なの? 名まえも、亡くなった時期も違うから同一人物とは思えないけど……」

「どういう関係と訊かれても困りますね。そもそもアキラなんてものは最初から存在しないのですから」

「うそよ」

「嘘ではありません」

 また雷が光った。ひと呼吸おいて、心臓をわしづかみにするようなものすごい雷鳴が木造の校舎をビリビリと震わせる。

「今から三十年ほど前、私はこの中学校へ通う生徒でした。そう、この場所で首を吊って死のうとしたのは、私です」

「ああ、やっぱり……」

「でもそれは未遂に終わった。私は死ななかったのです。それに原因はイジメなどではありません。そう邪推したひとがいたのです。私が自殺に失敗した話が生徒のあいだで広まり、それに尾ひれがついて、やがて今あなたがたの知るような怪談になったのです」

 たしかに噂というものは、ひろまってゆく過程で、もっともセンセーショナルな形へと姿を変えてしまう。「未遂」という言葉がなくなり、代わりに「イジメ」というキーワードが加わったとしても不思議ではない。

 また稲光りがした。ドアから差し込んだ閃光で一瞬だけ室内が明るくなる。

「あっ」

 今まで声のしていた場所からおじさんの姿が消えていた。しっくいの壁だけがむなしく光を照り返す。彼の姿はいつの間にか部屋の反対側へと移動していた。わたしとトムは手をつなぎ合ったままジリジリと後退した。背中がドンと壁につき当たる。

「私は子どものころ小児喘息を患っていましてね。それはつらい思いをしました。この学校へ通っていたのは、ちょうどその病気が一番ひどくなった時期です。いつ発作が起きるのか、日々その恐怖と戦い続けました。体力はどんどん失われ、仲間と遊ぶこともできない。勉強にも身が入らなかった。日を追うごとに私の精神はボロボロになり、そしてあるときふと思いついて、この時計塔へやって来たのです。まだ死のうと明確に決めていたわけではありませんでした。ところが天井にある機械固定用のフックを眺めているうち、ほとんど無意識にそこへネクタイを結びつけていたのです」

「でも、その自殺は失敗に終わったのね」

「そうです。偶然ここへ居合わせたある生徒に助けられたのです。彼は、私がネクタイに首をかけ、つま先立ちしていたイスを蹴った瞬間、もの陰から飛び出してそのネクタイを切り離してしまいました」

 雷雲がこちらへ近づいているのか、稲光りの起こる間隔が徐々にせばまっていた。次の閃光でわたしが見たものは、壁に刻まれたアキラという文字だった。ナイフで鋭く抉ったような文字。おじさんはその傍らにぼんやりとたたずんで、文字を見つめたまま微笑んでいた。

「彼は学校でも有名な不良少年でした。おそらく隠れてタバコでも吸っていたのでしょう。床に尻もちをついたまま茫然とする私を睨みつけて、なにを思ったのか、やおら手にしたナイフで壁に文字を掘りはじめたのです」

 カッと雷が光った。壁の文字がふたたび浮かびあがる。

「諦めるな」

 雷鳴がズシンと腹に響いた。

 アキラメルナ。

 そうか、アキラの文字にはつづきがあったのだ。その半分が消えてしまい、わたしたちはそれを名まえだと勘違いしていた。あきらめるな。それがこの文字の本当の意味――。

「あやうく自殺するところを私はその生徒に救われました。ところが今度は彼のほうがオートバイの事故で亡くなってしまったのです。なんだか自分の身代わりに死なせてしまったようで、とてもすまない気持ちになりました。彼が私のことをどう思っていたのかは知りません。たまたま自殺の現場へ居合わせ、成り行きで助けただけかもしれません。壁の文字も、ただなんとなく格好つけてみたかっただけなのかも。でも私のほうでは彼に対して胸が熱くなるほどの友情を感じていました。病気がつらいとき、いつもここへやって来ては壁に刻まれた文字を眺めていました。そして心に誓ったのです。私は生きることをアキラメナイ、と」

 舞台装置の演出みたいに、閃光が幾度も室内を照らし、時間差で雷鳴が轟いた。そのたびにおじさんの姿がわたしたちのいるほうへと近づいてきていた。

「やがて中学を卒業し社会人となってからも、この時計塔は私にとって神聖な場所でした。だから同窓会の席で、アキラ様という怪談があることを耳にしたときは愕然となりました。友情の証であるはずのこの場所が、いつの間にかクラスメイトを呪うための儀式の場へと変貌していたのです。それはとても放置できることではありませんでした。だからこの学校で用務員を募集していると知り、私は迷わずそれまでの仕事を辞めたのです」

「アキラ様の噂を聞いた生徒がここへやって来るのを、ずっと防いでいたのね」

「そうです。しかもここへ来るのは生きた人間ばかりではありませんでした。それは私自身が死んでみてはじめて知ったことです。イジメにあうことで他人を憎んでいる生徒たちのなんと多いことか。とても悲しいことです。彼らの多くは自分が死んでいることにまだ気づいていませんでした。だから私はそっと教えてあげていたのです。あなたはもう死んでいる、だからここへ来てもしかたがないのだよ……と」

 気がつくと、おじさんの姿はもうすぐ目と鼻のさきにあった。トムがわたしをかばうように、そのまえへ立ちはだかる。

「私の役目はもうすぐ終わります。この旧校舎は近いうちに取り壊されるのです。だから……これが最後の務めになるかもしれませんが」

 稲光りと雷鳴が同時に起こった。まるで爆弾でも投下されたみたいに轟音と閃光があたりを包む。トムの姿がいつの間にか消えていた。そしておじさんは、わたしの肩へポンと手を置いて、こう言った。

「さあ、きみも帰りなさい。本来自分があるべき場所へ――」

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