〇八

 ――ふうちゃん。

 声がする。子どもの声だ。たぶん、まだほんの幼い男の子。なのにわたしは、それを聞き流してしまっている。べつに意地悪してるわけじゃない。その声をなんだか空気みたいに感じてしまっているのだ。お昼寝するときの布団みたいに、ふわふわぬくぬく、やすらぎを覚えてすごく安心している。

 今度はちょっとじれたような声が降ってきた。

 ――ねえ、ふうちゃんてば。

「え?」

 ようやく顔をあげた。その途端、視界いっぱいに夏の日ざしが飛び込んできた。目のまえには緑にかこまれた公園の景色がひろがっている。いつかどこかで見たような風景。ジャングルジムに群がる子どもたち、ベビーカーを押して歩く若いお母さん、キィコ、キィコ、ブランコをこぐ音。

 気がつくとわたしは公園の砂場にペタンと座り込んでいた。Tシャツやショートパンツから突き出た手足は、まだほんの子どものものだ。とにかく日ざしがまぶしかった。白くひからびた砂の表面にギラつく太陽が容赦なく照りつけている。頭がくらくらした。両手についた砂を払って、ひたいの汗をぬぐう。

「ふうちゃん、どうしたの?」

 声のぬしを見た。砂のうえに半ズボンの尻をのっけて、ひと抱えほどもある砂の山にプラスチックのシャベルで新たな砂をぺたぺたくっ付けている。ワッペンにしてカバンへ縫いつけてみたくなるような、丸っこい顔。目が合った瞬間、そのふくよかな顔がふにゃっと笑った。

「ねえ、みて。おしろ、つくったの」

 砂山は、できそこないのモスクみたいな形をしていた。

「それぜんぜん、おしろにみえないよ」

「おしろだもん。ちゃんと、おうさまだっているんだもん」

「わるいまほうつかいの、すみかみたいだ」

 そう言って笑うと、ワッペン坊やはひどく傷ついたような顔になった。わたしは、ふと思いついて目のまえの砂を両手でかきはじめた。お城の地下へと通じるトンネルを掘ろうと思ったのだ。底のほうの砂は黒くひんやりと湿っていて、すごく気持ちが良かった。

 男の子が不思議そうに見守るうちにトンネルはどんどん伸びてゆく。やがて腕をさし込むと肩まですっぽり埋まるくらいの長さになった。

「できたよ、だっしゅつトンネル!」

 わたしが叫ぶと、男の子は大きな目をきょとんとさせた。

「だっしゅつトンネル?」

「そうだよ、わるいやつらがきたら、ここからにげるの」

「にげるって……だれが?」

「おひめさま」

「おひめさまなんて、いるの?」

「いるよ、おしろだもん」

 わたしが大いばりで言うと、男の子は神妙な顔でこくんとうなずいた。

 遊歩道の並木に沿って雲がゆっくり流れている。遠くのほうでコキンッと金属バットがボールをとらえた。公園の遊具はみんな大きくそびえて見えた。どこの公園だろう? とてもよく知っている場所ような。あるいは絵本でしか見たことのない幻想世界のような。でもなんだかすごく懐かしかった。甘酸っぱい思いが胸にこみ上げてきて、鼻の奥がツンと疼いた。

「たいへんだ」

「え?」

「こえ、きこえる……」

 男の子が、せり上がったお城のてっぺんに耳を寄せて、さかんに瞬きをくり返していた。つられてわたしも、おでこを近づける。息を殺し耳をすませた。あっホントだ。たしかに声が聞こえる。お城のなかというより、砂場のずっと底のほうから、囁くような、呻くような、男とも女ともつかない、なんだか気味の悪い声が――。

「……アキラ様、アキラ様、どうかあいつらを呪い殺してください、地獄へ突き落としてください」

 あやうく悲鳴をあげそうになった。気がつくと砂のお城をめちゃめちゃに壊していた。両手で突きくずし、あとかたもなく引っかきまわす。それでも声は消えなかった。途方にくれてあたりを見回すと、そこにはもうだれもいなかった。あの男の子の姿もいつの間にか消えている。かわりに見渡すかぎりの砂地がどこまでもつづいていた。あんなにまぶしかった夏の日ざしも消え失せ、空は一面、セメントを流し込んだような灰色にくすんでいた。

 声はどんどん大きくなる。

「……アキラ様、アキラ様、どうかあいつらに地獄の苦しみを、終わることのない恐怖を」

 後ずさりしようとして砂に足をとられ、尻もちをついた。なんだか胸さわぎがする。はやく逃げたほうがいい。今すぐここを離れなきゃ。

 トンネルどこ?

 さっき掘った脱出トンネルはどこよ――。

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