〇七

 最初にやって来たのは、夜警のガードマンだった。きっちりと制服に身をつつんだ五十がらみのおじさん。懐中電灯で機械室の内部をひととおり照らして、すぐに階段を下りていった。

「わたしらに気づかず行っちゃったね」

「しっ」

 安堵して漏らした囁きをトムが遮った。今おじさんが出ていったばかりのドアが、ふたたびスーッと開く。

 あっ。

 かろうじて声を飲み込んだ。開け放ったドアの向こうに音もなくひとの影が浮かび上がったのだ。なんとなく髪の長い女性のように見えるその影は、ゆっくりと部屋のなかへ入り、小さく床板をきしませながら移動をはじめた。

 キシ、キシ、キシ

 ドアから射し込む薄明かりは部屋の内部まで届いていない。女らしき影はすぐに闇へ溶け込んで見えなくなった。気配だけがゆっくりと近づいてくる。

 キシ、キシ、キシ

 ほんのりと柑橘系のコロンが香った。忍びやかな足音が目のまえの闇を横切ってゆく。キシ、キシ、キシ。ためらいのない足取りは、やがて部屋のすみで止まった。思わずトムのシャツにしがみつき、ギュッと目を閉じた。

 ベリ、ベリベリッ。粘着テープを引きちぎる音が聞こえる。きっと壁から護符を剥がしているのだ。ほどなくして床がストンと鳴った。雰囲気でなんとなく跪いているのが分かった。

「アキラ様、アキラ様……」

 蚊の鳴くような声。やはり女性の声だった。

「どうか、あいつらを懲らしめてください。私のことを苦しめ絶望させたあいつらを罰してください、地獄へ突き落としてください」

 はじめはボソボソとした囁きだった。でも感情がたかぶってくるのか、しだいにそれはハラワタからしぼり出される怨嗟の声となり闇のなかへ充ちていった。わたしは体の震えを止めることができなかった。目の前にいる女は、まさに呪いの言葉を吐いているのだ。

「罰して欲しい者の名は、ワダマユミ、カミヤエリカ、ナカムラサヤ、ヨネダマイ、どうか彼女たちを永遠の地獄に突き落としてください、どうか、どうか……」

 壊れたテープレコーダーのように女の祈りは、なん度も、なん度もくり返された。怖くて、頭がどうかしてしまいそうだった。人間って、こんなにも他人のことを憎めるんだ。わたしにはその気持ちが理解できない。イジメにあう悲しみは身にしみて分かっている。だけど佐緒里たちのことを呪い殺してやりたいだなんて考えたことは、一度もない。

「やあ、こんばんは」

 突然そこにいるはずのない男の声がした。落ち着いた雰囲気のある優しげな声だった。女の祈りがピタリと止む。

「だあれ? あなたがアキラ様?」

「いいえ、違いますよ。それよりきみ、昨日もここへ来ていましたね。そのまえの夜にも」

「……来たわ」

「名まえ、訊いてもいいかな?」

「私の名まえ? ナマエ、ナマエ、ナマエ……」

 女の声がしだいに口ごもってゆく。それはやがて長いため息になった。

「そうか、忘れちゃったんだね。じゃあ私が教えてあげよう。きみの名まえは、柿本郁美っていうんだ」

「カキモト……イクミ。それがナマエ、私の名まえ……」

 つぶやきながら、女がゆっくりと立ち上がる気配を感じた。心なしか声が震えている。

「なぜ、きみの名まえを知ってるかというとだね、じつは四日まえの新聞に載っていたのさ。きみ、自宅で首を吊って死んでしまったんだよ」

「シンダ、死んだ、私がシンダ……ウソ、ウソ、ウソ」

「嘘じゃないんだ。ためしに自分の左胸を触ってごらん」

「左胸? ああっ……」

「心臓、動いてないでしょう」

「ああああっ……」

 女は、破れた心の裂け目から肺の空気が漏れ出すように、ああ、ああ、と激しく声をあえがせた。あまりにも悲痛な声だった。幽霊はアキラではなく彼女のほうだったのだ。そのことを知ったときの驚きと悲しみが、わたしの胸にもひしひしと伝わってくる。自分が死んでしまったことに気づかず、他人を呪うために夜な夜な古い校舎をさまよってるなんて、ちょっと哀れすぎる。

 男の落ち着いた声が、なだめるように言った。

「残念だけど、ここにはアキラ様なんていないよ。そんなものはじめから存在しない」

「うそよ、うそだわ、じゃあ私はどうやってあいつらに復讐すればいいの」

「復讐なんてもうヤメなさい。きみ自身もっとつらくなるだけだ」

「イヤよ、絶対にイヤ――」

 あちこちからパキン、パキンと、火にくべた薪の爆ぜるような音がした。部屋の温度が急激に下がってゆくのが分かる。寒気と同時にキーンという耳鳴りがした。わたしは頭を抱えてうずくまった。なにこの骨身にこたえるような寂寥感は。心が凍りついてしまいそうだ。

 毒薬を盛られて胸をかきむしるみたいな女の呻きは、そのうちに声を殺したすすり泣きへと変わっていった。

 ツラカッタンデス、マイニチガ、ツラクテ、カナシクテ、ドウシヨウモナカッタンデス……

「そのつらい日々がようやく終わるんだよ。だからもう悲しまなくて良いんだ。さあ帰りなさい。本来自分があるべき場所へ」

 魂からしぼり出されるような女の泣き声は、しだいに小さくしぼんでゆき、やがて電池の切れたラジオみたいにかすれていって、突然ふっと消えた――。

 わたしは知らないうちに泣いていた。

 トムのシャツに顔をうずめ、ポロポロポロポロ涙をこぼして泣きじゃくっていた。

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