〇二

 そこは旧校舎と呼ばれる建物だった。今にも朽ち果てそうな木造の二階建て。壁のペンキも剥げちょろけ、かつて校内放送をたれ流していたスピーカーはうなだれるみたいに傾いてる。それでも歴史的資料としての価値があるとかで、建て替えのときここだけは取り壊されなかった。今は立ち入り禁止のまま放置されている。わたしはひと目につかないよう素早くそのオンボロ校舎へ近づいた。オレンジ色の工事用フェンスで囲われてるけど、その気になれば侵入できないこともない。ていうか昨日一度なかへ入っている。夜警のガードマンや工事関係者の出入りする秘密の扉があるのだ。

 生徒玄関はベニヤ板で塞がれているので、わきにある通用口をくぐる。開口部のほとんどが目張りされていて、急に暗いところへ入ったせいでわたしの視力はモグラなみに低下した。それでも目が慣れてくると、塞ぎ切れていない板と板のすき間から日が漏れているのが分かる。それはちょうどスポットライトの役目を果たし、舞い上がる埃をキラキラと輝かせていた。

 ひっそりと静まった廊下へ足を踏み入れると、使い古した雑巾のような饐えたにおいがした。歩くたびに床板がギシッギシッときしみ、そのまま踏み破ったりしないかハラハラしながら、それでも進んでゆく。

 一階の突き当たりにある宿直室と書かれた小部屋。昨日はここで下校時刻までやり過ごした。しかたない、今日もこのシケタ部屋で時間をつぶすとするか。工事のひとが休憩用にしてるパイプイスをガチャガチャ引っぱり出してきて、日の当たる窓辺に腰かける。カバンから文庫本を取り出し、昨日のつづきへ目を落とした、そのときだった。

 なんの前ぶれもなく、

 ガラッ

 とびらが開いた。

 わたしは安直なコントのネタみたいに、あやうくイスからひっくり返るところだった。

「いきなり入ってきて、びっくりするじゃない」

「ちぃーっす」

 見たことのない男子生徒だった。茶髪で、目がきゅって吊りあがってる。スラックスは学校指定のグレーのやつ。でもシャツは派手なピンク色の花ガラだった。アロハー、みたいな。どういうセンスよ。

「おめー、ここでなにしてんの?」

 風邪ひいて昨日まで寝込んでました、みたいなヘン声。たぶん声変わりしたばっかなんだと思う。

「見りゃ分かんでしょ。授業サボって本読んでるのよ」

「ふうん」

 気のない返事をして、自分も部屋の奥からイスを引っぱり出してくる。げっ、こいつもここへ居つくつもり?

「読書の邪魔しないでよ。ってか、あっ、こら、中学生のくせに、たばこなんて吸うやつがあるかっ」

 わたしの抗議には耳も貸さず、チリッと使い捨てライターで火をつけた。気取ったポーズでけむりを吸い込み、美味そうに目を細める。窓のすき間から漏れる明かりに、白いけむりがモクモクと立体的に浮かびあがる。わたしは、あわてて彼から遠ざかった。たばこのけむりって大嫌い。髪の毛につくと、なんかウンコみたいなにおいがするから。

 このさいバカは無視して。

 レイモンド・チャンドラーの推理小説へ意識をもどした。ちょうど主人公の私立探偵があやしげな娼婦にホテルへ誘われる場面。

 でもそばに男の子がいると思うと、内容がぜんぜん頭に入ってこなかった。

「あんたがいると、本に集中できないんですけど」

「そう言うなよ、サボリどうし仲間じゃん」

「ひとを勝手に仲間呼ばわりしないでくれる」

「おめー、なんて名まえ?」

「あんたみたいな不良には教えない」

「あっそ」

 つまらなさそうにタバコをふかし、それから思い出したように言った。

「おれのことは、トムって呼んでくれ」

「トムだあ?」

 どうやらかなりイタいキャラのようなので、面白いからこっちも調子を合わせてみた。

「じゃあ、わたしのことは、ジュリアでいいよ」

 ほんとはジェリーって言うつもりだったけど、ジュリアのほうがなんか可愛い。

「ジュリアねえ……。オッケ、まあ、そう呼ばせてもらうわ」

「なにその、しようがねえから話合わせてやっか、みたいなリアクションは」

「そんなことより、おめー知ってる? この建物、出るっつー噂だぜ」

「なにが?」

「幽霊……。むかしここの時計塔で首吊ったやつがいるんだって」

「また冗談ばっかり」

 と否定してみたものの、じつはその話わたしも書道部の先輩から聞いたことがある。

 かつてこの旧校舎ではイジメを苦に自殺した男子生徒がいた。彼は時計塔の機械室で首を吊るとき、壁にナイフで自分の名まえを刻み込んだ。死んだあとも恨みを忘れないため。はたして呪いは成就され、彼の死後イジメをしていた連中がひとり、またひとりと不幸な死を遂げていった。あるものは車に轢かれ、あるものはプールで溺れ死に、またあるものは気が狂って自ら命を絶った。

 以来イジメに悩むものたちがこの時計塔へやって来ては、彼の霊に祈りを捧げるようになったのだ。

 ――どうか自分をイジメてるやつらにも復讐してください、と。

 細部は曖昧だけど、たしかこんな話だったと思う。

 トムと名乗るその男子が、イタズラを思いついた子どもの顔で言った。

「その時計塔、ちょっと見てみたくね?」

「イヤよ、あんたひとりで見ればいいじゃん」

「だいじょうぶだって、怖くねえから。昼間だし、おれも一緒だし」

「バカじゃないの。そんなの行くわけないでしょ」

「ぜったいに面白いって。ちょっと覗くだけだから。なっ、なっ」

 しつこく誘われるうち、だんだんその気になってくるから不思議。すでに読書する気分じゃなかったし、このトムとかいう男子もそんなに悪いやつには見えなかった。それに退院してからずっとだれとも遊んでいない。きっとわたしは寂しかったんだと思う。気がついたら妙にワクワクしている自分がいた。

「じゃあ……チラッと見るだけよ。見たらすぐここへ戻ってくるからね」

「オッケ」

 彼はうれしそうに目を細めてモクッとけむりを吐いた。こいつが、わたし好みの男子だったらもっと良かったのに。

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