崑崙仁帝

左安倍虎

麒麟

 匈奴の地にほど近い幕舎の中で、縄を打たれた三人の男が頭を垂れてうなだれていた。

扶蘇ふそ様、この者達の処遇、如何様になされますか」

 謹厳な様子で脇からそう問いかけたのは蒙恬もうてんである。秦の北辺にあって今匈奴を威圧している千軍万馬のこの将軍は、始皇帝の長男である扶蘇の補佐役を勤めていた。


「見たところ、どうやら長い間食事にもありつけなかった様子だな」

 扶蘇の声音は穏やかでありながら威厳に満ちている。雄大な体躯に恵まれた扶蘇は居るだけで周囲を圧する迫力を持っているが、二言三言言葉を交わせば、この男が人の心に染み透る仁愛の情を持っていることが明らかだった。

 扶蘇の前に引き出された三人の男達は皆痩せ衰えてその目には力がない。この三人は辺境の塞に忍び込んで食料を盗んだものの、すぐに戌卒に見咎められ捕縛されたと扶蘇は蒙恬に聞かされていた。

「どのような事情があれ、この者達は大事な兵糧を盗んだ罪人です。どうか法に照らして厳正なる処罰を」

 蒙恬はそう扶蘇に促した。厳格な法治国家である秦においては蒙恬の言い分が正論である。しかし扶蘇はゆっくりと頭を振ると、蒙恬の言葉を遮った。


「法のみがこの世を治める原理ではない。この者達が塞に盗みに入ったのも、元はといえば今日を生きる糧すら手に入らなかったからこそだ」

「しかし、殿下」

「政とは仁をこそその基礎に据えなければならない。飢えた者を処罰したところで苦しむ民がいなくなるわけではない。まつりごととはまず民が飢えなくてよい世を作るためのものだ。飢える者がいなくなれば窃盗もこの世から絶えて無くなろう」

 蒙恬は軽く溜息をついた。こうなってはこの皇子はもう誰の言うことも聞かない。儒学を愛し、仁愛の情に富むこの皇子は父である始皇帝ともしばしば衝突した。匈奴の地に近い国境で蒙恬の監督を任されているのも、元はといえば始皇帝が儒学者を弾圧したことを諫めて怒りを買ったためである。


「この者達は戌卒の任務に就かせる。罪ならば塞を守ることで償えば良い。今後は我が秦を支え、懸命に働くのだ」

 男達の顔に安堵の色が浮かんだ。縄を解かれた男達は深々と一礼すると、兵に伴われ扶蘇の軍営を出て行った。このあとこの男達は食事を振舞われることになるのだろう。

 秦の禄を食む身となれば、もう彼等は飢えることはない。蒙恬の苦々しげな視線など目にも入らぬ様子で、扶蘇が一人満足気な笑みを浮かべていると、伝令の兵が慌ただしく幕舎の中に駆け込んできた。


「ご報告申し上げます。匈奴の者が奇妙な獣を捕まえたため、殿下に献上したいと申しております」

「ほう、獣とな。それはどのような姿をしているのだ」

 扶蘇は身を乗り出した。蒙恬が30万の軍をもって匈奴を押さえつけているため、今は北辺には目立った争いもない。扶蘇が辺境の統治に少々退屈していたことは確かだった。

「何でも鹿の体に牛の尾と馬の蹄を持ち、頭には1本の角が生えているとの事にございます」

「それはもしや……いや、本当にそんなことがあるものか」

 扶蘇は日頃から親しんでいる『春秋』の一節を思い出していた。孔子の手になるこの著作に登場する伝説の霊獣が、実在しているとでも言うのか。

「その獣は今どこにいるのだ」

「幕舎の外に連れてきております。ご覧になりますか」

「うむ、すぐに見せてくれ」

 久々に、扶蘇の心は踊っていた。扶蘇は席を立つと、意気揚々と幕舎の外へ歩みを進めた。


(これは驚いた。まさか、本当に麒麟きりんをこの目で見ることになろうとは)

 扶蘇の目の前にいるのは、確かに孔子が語っていた姿そのままの獣だった。 

 姿だけ見れば大層奇妙な獣ではあるが、その全身から放たれる神々しい気に打たれると、自ずから居住まいを正さねばならないような心持ちになる。


「縄を外してやれ。仁獣を拘束してはならぬ」

「しかし殿下、それではいつ逃げてしまうやもわかりませぬ」

 伝令の兵がそう警告したが、扶蘇は首を縦には振らなかった。

「麒麟を捕まえたことを嘆いた孔子の言を知らぬのか。この仁獣が人に捕らわれるようではその時代は聖人の世とは呼べぬのだ。さあ、すぐに解放せよ」

 扶蘇の言葉を受け、匈奴の者は不承不承、麒麟にかけられた縄を解いた。

 麒麟は二、三度頭を振ると、おずおずと扶蘇の方へと歩み寄ってきた。仁獣である麒麟は虫を踏むことすら避けるというが、確かに目の前の獣はどんな命を奪うことも恐れているようにみえる。


 ようやく扶蘇の傍まで歩みを進めた麒麟は、扶蘇を見上げて何度か透き通った目を瞬くと、ゆっくりと膝を折って扶蘇の前に頭を垂れた。その姿はあたかも扶蘇の徳に打たれた者が生涯の忠誠を捧げているようにも見える。

 固唾を飲んで見守っていた兵達がどよめいた。彼等は日頃扶蘇から儒教の経典の内容を聞かされており、その中で麒麟の伝説にも親しんでいる。この伝説の仁獣が扶蘇の前に額づく姿は、扶蘇が次代の秦を担う聖天子となることを彼等に予感させていた。


「おめでとうございます、殿下。麒麟がこのように頭を垂れるとは、殿下こそが次期皇帝にふさわしい証拠でありましょう」

「滅多なことを申すな、蒙恬。私はまだ太子に立てられているわけではない。それどころか陛下に疎まれてこのような僻地に飛ばされてきたのだ」

「恐れながら、陛下が本当に殿下を疎んじておられるとは考えられません。この地は秦の北の守りの要。殿下の力量に期待しておられればこそ、陛下はこの地に殿下をお遣わしになったのです」

「そうであれば良いのだがな」

 扶蘇は少し寂しげに笑うと、遠くを見るような目つきになった。


「この秦を誰が継ぐかは分からぬが、いずれにせよまだまだ父上の御世は続くだろう。できることならば、この麒麟が咸陽かんようの城外にでも現れてくれれば、この時代が聖人の世であることの証明となるかもしれないのだが」

 扶蘇の顔にわずかに憂いの影が差した。仁獣である麒麟は聖天子の世にしか現れないと言われている。扶蘇も中華を統一し戦のない世を実現した父を聖天子であると信じたかった。本当ならば、この北辺の地よりも始皇帝の座す咸陽宮にでも麒麟が現れてくれた方がいいのだ。しかし、秦の平和は仁徳ではなく強大な武力と厳格な法とによって保たれているに過ぎない。


(あるいは、この獣に父上が感化され、考えを改めてはくれぬものか)

 無垢な瞳をこちらに向けている麒麟を真っ直ぐに見据えながら、扶蘇は考えた。

 虫一匹すら殺さぬように歩むこの獣の姿を見て、少しでも父が民を慈しむようになってはくれないだろうか。儒者が穴埋めにされるような世に生きることは扶蘇には耐え難い。しかし、この仁獣には咸陽の空気は相応しくないような気もする。数知れぬ政争が繰り返され、荊軻けいかなどという刺客の血に濡れた咸陽宮にこの仁獣の身の置き場などあるのだろうか。 


 扶蘇が思案にくれていると、麒麟はそろそろと扶蘇の愛馬のそばに歩み寄った。麒麟は扶蘇の愛馬と何度か首を摺り合わせると、二匹揃って南方に頭を向け、首を上げて高く嘶いた。

(咸陽の方を向いた、だと?)

 麒麟は扶蘇の方を振り向いた。その表情は扶蘇の次の言葉を待ち侘びているようにも見える。

「咸陽に赴いてくれるのか?」

 そう問いかける扶蘇に、麒麟は甲高い嘶きで答えた。扶蘇は思わず顔を綻ばせると、遠く咸陽へと続く空を見上げた。朔風に吹かれ細く幾筋もたなびく白雲が、秋の訪れを告げていた。

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