第16話 巣立ちの行方



 それは、突然に思えた。

 以前から今か今かとは予想しており、いつかは来ると思っていたが、いざそのときになると唐突に感じられたのだ。


 闘技場で、普段と同じく竜を診て、訓練のために飛ぶ竜を見上げていたところだった。

 いつものように飛んでいく他の竜を見つめていた白い竜が、その翼をはためかせた。そこまでは、大して珍しいことではなくなっていた。

 この竜は日に日に空への憧れが強まっているように、空を仰ぎ、翼を動かす。

 全員心得ており、翼が当たらないように少し離れることが常であった。


 違った瞬間が訪れたのは、一際大きな風が起こったそのとき。

 誰が初めに気がついたのか、誰かが「あ!」と声を上げた。

 何かと思って、アリアスがそちらを見ると、白い体が視界を通りすぎた。

 風が起こり、砂が舞う。

 それでも目を覆わずに、無意識に追わざるを得なかった姿は、どんどんと上へ、空へと向かっていく。

 青い空へ――白い鱗が、太陽の光を照り返した。


「……飛んだ」


 悠々と翼をはためかせた竜は、落ちてくる様子はない。

 宙に浮き、闘技場を越え、空に。

 ずっと地上にいた白い竜が、手の届かない空を飛んでいる。その光景は、見つめ続けてようやく頭で理解できた。


 ――ファーレルが飛んだ。ついに、飛んだ。


 他の竜を追うように、初めて空に至った竜は、自由自在に飛んでいた。歓びを表すような声が地上に落ちてきた。


 アリアスは、ぼんやりと空を見ていた。

 ファーレルが飛び立ったということは、もう一人前の竜として巣の方に一緒に飛んでいき生活できることになる。

 まだ炎は満足に出せないようだけれど、それも時間の問題だろう。他の竜が教えてくれる。

 これからの生き方も。狩りの仕方も何もかも、他の竜が教えてくれる。他の竜と一緒に暮らしていく。

 空を飛んだ――それは、かの竜が生まれてきてから育ててきた地上にいる魔法師の手から飛び立つということだ。


 いつの間にか、周りには歓喜の声、喜びが極まり泣き咽ぶ様子などが満ちていた。共通しているのは、皆空を見上げていること。

 夏の爽やかな青い空には、想像していたよりもずっと、竜の白さは映えていた。


「意外と早かった」

「そうですね」


 隣にいたディオンも上を見ているのだろう。

 もちろん過去の記録では、もっと早くに飛び立ったという竜もいたようだけれど。

 でも、早かった。

 その思いに含まれるのは、もっと先であっても良かったのにというどうしようもない考え。


「寂しくなります」


 最後の別れでは全くない。だけれど、寂しくなる。

 ついさっきまでそこにいた竜だ。そして今日も一緒に戻って、世話をして、眠りについたところを見て。また明日が来る、と思っていた。

 飛ぶ練習をするように翼を動かす様を見て、今にも飛びそうだと思いながらも、まだ先だと無意識の内に当たり前に思ってしまっていたから。

 空を飛ぶ竜の様子を見ているにつれ、喜びに寂しさが混ざらずにはいられなかった。


「そうだね。ただ過去の記録で、確か……」


 すべての竜が飛び立ち、風が止んでいた地上に、風が僅かに届けられた。


「……あれ?」


 風を生じさせた正体はもちろん竜で、それも、白い竜。ファーレルの姿が徐々に大きく、下に、近く――。


「……お、降りてきた……?」


 泣いていた先輩の一人も気がつき、呆然とした声を出した。

 下にいる全員が見守る中、強い風が生まれ、吹き付け、やがて白い竜が地に足をつける。

 翼を畳んで、一声鳴く。心なしか、誇らしそうに。


「過去の記録では、生まれたときから人の手で育てられるものだから、所謂『親離れ』のようなものができなくて、しばらく巣へ行かなかった竜もいるとか」


 途中だった話をし始めたディオンの言葉を聞いて、また前を見ると、ファーレルが歩いてくる。

 翼があり、今や空を飛べるようになったというのに。戻ってきて、その足で歩いてやって来て、やがて目の前に来た。


「……ごくわずかな記録に過ぎないから、そうなるとは思っていなかったんだけど」


 撫でてくれと言わんばかりに、頭を下げてくる竜は、褒めてくれと言っているようでもあった。


「こうなると、親離れさせるのは至難の技らしい」

「や、やり方とか……」


 飛べるのに、巣に行こうとしない場合があるとは。飛べるようになれば、当然巣に行くものだと思っていた。


「さあ。戻って改めて記録を漁るしかない。……ちょうどこれでアリアスも安心して休めるところだったのに、新しい仕事の始まりだ」


 ディオンの、仕方ないなというような言葉に、アリアスは微笑んだ。


「まだお休みさせていただくまでは日がありますから」


 竜を撫でていた手で腹に触れると、竜も真似したのか、そっと鼻で腹に触れた。





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