第15話 親子



 輝かんばかりの色味というよりは落ち着いた色合いの金色の髪に、灰色の瞳を持った女性。

 ゼロの瞳の色は、侯爵である父親から受け継いだものと思っていた。しかし違う色が混ざっているにしろ似た色で似た雰囲気の目をしているから勝手にそう判断しただけで、彼女の色を見るとこちらだったのかとしっくりくる。

 見知った色と同じ色。形は異なる目は真っ直ぐに前に向けられているが、体の前で重ねられている手が握り合わせられた様子を偶然アリアスは見た。

 表情に笑顔はない女性の唇が開かれ、息が小さく吸われた気配がしたような気がした。


「ゼロ、お帰り」


 声は小さくも、静けさのみが生まれた場には十分だった。見た目の儚げな雰囲気と合う静かな声が作ったのは、何の変鉄もない言葉。

 しかしアリアスでさえ違和感を抱えてしまった。その違和感の正体を詳しく探り当てる前に、アリアスの腰にある手に僅かに力が入った。女性の視線が向けられている人を見上げると、ゼロは、見たこともない表情をしていた。見開かれた目は、信じられないことでも聞いたかのようだ。

 名前を呼ばれた通り、言葉をかけられたのはゼロ。彼は女性が現れたときから動きが止まってしまい、答える声もなく、部屋には再びの沈黙が流れていた。

 アリアスが思わず心配になりかけた頃、彼はゆっくり瞬きをし、瞼を上げたときには生まれていた複雑に混ざり合う感情が凪がれていた。

 前を向き、女性から目は決して離さないまま、ゼロもまた口を開いた。


「お久しぶりです、『母上』」


 彼が発した言葉も、何の変鉄もない挨拶。ただし声には隠しきれない固さが表れていた。


 席を立ったばかりだったアリアス含め、テーブルについたのは四名。アリアス、ゼロ、ゼロの両親。

 向かい側に座る女性は美しい女性だった。もちろん、年齢による多少の皺はあろうがそんなものは気にさせないような容貌の持ち主だ。

 スレイ侯爵夫人。ゼロの母。

 ゼロの隣に座るアリアスは違和感の正体を探り当てていた。ゼロの母が口にした子どもの名前とその帰りを迎える言葉に違和感を覚えたのは、一重に、これまで聞いていた過去による『ゼロの母』の像とのずれがあったのだ。

 ゼロを避けていたはずの女性。アリアスの推測が正しければ、ランセがゼロとそれほど会わず親しい『兄弟』という関係にないことと同じように、それよりもっとかもしれない、『母親』との縁は薄い。顔を合わせず、言葉を交わすことはもっとなかったはず。

 彼女が「お帰り」と言ったことさえ、おそらく普通のことではないのだろう。ゼロの反応を見れば明らかだった。


「予定では報告に来るのはまだ先のことだったのですが、不測の事態が起こり今日ここにいます」

「不測の事態は私のことだがな」


 ゼロは父親の言葉を無視して、あくまでこの場に現れた母親に向かって声を向ける。


「彼女はアリアス=コーネル」


 紹介されたアリアスは自分からも名乗り、挨拶をした。


「俺の結婚相手です」


 新しく淹れられたお茶の湯気が立つ場は、見た目にはゆったりとしているだろう。会話も、本来ここに来る目的を思えば当然のもの。


「アリアス、――俺の『母』だ」


 こうやって滞りなく言葉が続けられているが……空気がひどくぎこちない。この空気は、ゼロと母親が会ったゆえに生じたものだ。ゼロが「母上」と呼んだ声の呼び慣れないような響き。同じく、母親の方の「ゼロ」と呼んだ声のぎこちなさ。

 横を見上げるとあるゼロの顔は、そう作られている表情。

 ゼロが気になりながらも再度紹介された女性を見ると、目が合う。その女性の名を、オリビア=スレイと言った。

 彼女には子どもの名前を呼ぶときに漂うぎこちなさ以外、目に見える不自然さはなかった。アリアスが彼女のことを知らないから分からないのかもしれない。にこりとも笑わないのは元からの可能性がある。

 しかしその目が逸らされることはない。静かな目はアリアスも見るが、息子を見ている。


「こうして結婚の報告が聞けるとは。少し早いがめでたいことに変わりはないな、オリビア」

「ええ」


 同意と共に頷くゼロの母に、何を思っているのだろうと考えるのは失礼か。けれどもアリアスもアリアスで聞いた話と合わせるとそう思ってしまう。

 クレイグの様子を見るが、ただ一人様子が変わらない人であるので、参考にはならなかった。


「二人共、結婚おめでとう」


 言ったのは、女性の声。


「――ありがとうございます」


 他に注意を向けていたアリアスと、少し間が空いたゼロは同時に述べた。

 そのあと、奇妙な沈黙が流れる。クレイグのみがやはり、この沈黙が流れることも分かっていたように平然としている。


「ゼロ」


 ぽつん、と落ちた声で沈黙は破られる。


「あなたが戸惑うことは無理もありません」


 ゼロの母は感情の機微が表れ難い表情と目をしているけれど、見えない位置で手を握り合わせる光景が思い浮かんだ。さっき、彼女が扉から現れたときのように。


「きっと今、あなたはこう思っていることでしょう。――なぜ、と」


 隣でゼロが僅かに、隣にいるアリアスにしか分からないくらいに反応した。


「私とあなたがこうしているのは初めてのことでしょう」

「……そうですね」

「そして、それは――私のせいです」

「……」

「私のかつての、あなたが家を出る前の頃のあなたへの態度は謗られるべきものです。母でありながら、母としてあなたに接していませんでした。それどころか……」

「それは」


 ゼロが口を開き、母親は声を途切れさせた。そうしてから、ゼロは口を開き直した。


「昔のことです。それに、そうあっても仕方のなかったことだと俺は思っています。誰であれそうなっていた可能性の方が高かった」

「私はそれを、後悔しています」

「――――後悔、は昔に関することでしょう。俺は、昔は、もういい」


 直接言葉にはされないが、話題にされているのはゼロの左目に関すること。

 母親に対するゼロの言葉は、拒絶のように見えて、家を出てからこれまで見せていた姿勢だろう。その過去は過去。掘り返さなくてもいい。今があり、それが全て。そうやって彼は堂々と生きてきた。

 だから、昔はもういい。


「……それよりも今、このような場にすることにした理由が知りたいと思います。予定より早かったとはいえ、俺にとってはちょうど良かったと言えます。アリアスを紹介出来た。ですが、なぜ急に。失礼ですが、俺には急に思え、そのため理解が及びません。『母上』が言った通り、俺と『母上』がこうして座っていること、言葉を交わすこと、――目を合わせることは初めてと言ってもいい」


 向き合って座る、会話する、目を合わせる……ゼロは淡々と言ったけれど、端から聞いているアリアスは改めて親子の縁が薄すぎると思った。そしてゼロの記憶の中の母親との関係がそれならば、この状況は思っているよりも異様なのだろう。

 ゼロが見たこともない驚き様をし、混ざる感情を抑えた表情をしているのも頷ける。ゼロの問いを受けた母親は少し黙し、表情には表れないが考えたのだろう、やがて微かな声がまず言った。


「……あなたが家を出て、長く帰って来なくなりました。騎士団に入ってからは、なおさらです。一年、もしくは数年に一度帰って来るかどうかですね。……ろくに会っていなかったのにも関わらず、私は何かを失った心地になりました」


 ゼロが魔法師になるため学園に入ると、そのときからあまり帰って来ない日々が始まったはずだ。魔法師となり騎士団に入った今では、なおさら。住む場は完全に別にある。

 学園入学から現在までと考えるに、その歳月は十数年余りか。


「武術大会を見に行きました。あなたの姿を見て、こんなにも大きくなっていたのかと思い……そう思うと同時に、それほどの時間を私は見てこなかったのだと、知りました。そして剣を振るう姿は立派なものでしたが、私があなたをこの家から追い出したのだとも思いました」


 それがゼロの母親が抱えていると思っている罪であった。そして彼女が失ったと漠然と感じていたのは、ゼロだ。避けていたのに、やはり息子は息子だった。

 アリアスははっとしてクレイグを見た。

 ――「近くからいなくなって身に染みる後悔はあるものだ」

 馬車でアリアスがゼロの母の現在について尋ねたとき、父であるクレイグが言ったこと。そのときは全く分からなかったけれど、今、この状態で分かったようになる。

 十数年、ゼロが家に帰らず、帰っても顔を合わせないようにして物理的に生じた距離で変化したものがあった。そうならなければ変化しなかったのだとしても、ゼロが全てを知り、決意して家を出た後とは実に皮肉だ。

 ゼロは途中からピクリとも動かなくなっていた。


「――あなたは私の息子です。私を許して欲しいとは言えません。しかし母であることは許して欲しいのです、ゼロ」

「……」

「今からあなたの幸せを願うことは、親として許して欲しいのです」


 そうして、ゼロの母は部屋を後にした。



 *



 状況が上手く理解出来なかった。

 「奥様がいらっしゃいました」という言葉は瞬時に理解した自分がおり、振り向くとその人はいた。ゼロが実際に目で見た姿と記憶とが擦り合わせられなかったのは、ろくに覚えていないからだ。ゆえにこんな人だっただろうかと感想を持つ部分もあり、しかし同時に自分の意識のどこかが勝手に、無意識に自分の生みの母だと認識した。

 歳は重ねたようだが、このような姿の人だった、と。


 だがなぜここに来たのか。自分がいることを知らずして来たにしては――どうして部屋から出ようともせず、こちらを見る。

 さらに追い討ちをかけてきたのは「お帰り」だ。こちらを見て、紛れもなく自分の名前を呼び、お帰りと言った。捉えた言葉が予想するはずもないもので、驚いたという次元ではない。信じられないことを聞き、言った「母親」を凝視していた。

 ――「お帰り」とは何だ。

 別に生きてきて言われたことがないはずがないが、昔からこの「母親」には一度も言われたことのない言葉だった。同時に、言われるはずもない言葉。

 だからこそ甚だ理解できずに、おそらく戸惑っていたのだろうと思う。

 そして、思った。何を考えているのか。

 そこまで考えたとき、ゼロは放り込まれたことのない混乱の渦から意識を現実に取り戻した。何を考えているのか、などと考えても分かるはずがない。

 生じた全ての感情を抑え込み、ゼロは平素の様子であろうと努めて、挨拶をした。お久しぶりです、と。

 普通に、平静に、話を進められればいい。


 それが何だ。「後悔」から始まり、「私の息子」「母であることを許して欲しい」「幸せを願う」無理矢理止めていた部分の思考が再び動き始めた。

 ――何を考えているのか、と。アリアスがいなければ、声に出していたかもしれない。

 意識の外で母親が部屋を出ていったことが分かり、向かい側にいるのは父親のみ。

 先程の母親が来たタイミングは一体何だ。


「――父上」

「私はゼロが結婚の挨拶に来ることを伝えただけだ」


 そもそも予定外の今日、『母』がここに来た原因は。父親でなければ、使用人が知らせたか。それならば仕方ないだろうか。


「オリビアの意思だ。それは汲み取ってやって欲しい」

「汲み取る?」


 一体何を。

 本人は出ていったというのに、こちらを見る目が甦る。昔とは違い、逸らされない目だ。

 かつては会いそうになれば言葉を交わすことなく避けられ、逃げるように背が向けられ、直前まで向けられていた目は確実に形容する方法を持たない目だった。それが自分が知らないうちに、何がどう変化したというのか。

 覚えているものと同じ態度であれば、どうとも思わなかっただろうに。それなのに今、間違いなくゼロは混乱していた。母、息子――何を勝手な。

 それを読み取ったように、父親が言う。


「ゼロ、どれほど勝手なことでも、オリビアが今どのように思っているかは覚えておいてくれないか」

「……」

「出来てしまった距離を後悔しており、お前と向き合いたいのだと」


 話は聞いていたが、思考の一部が極端に鈍ってしまったように、未だに理解出来ていなかった。





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