第16話 歩み寄り





 母親が部屋を後にし、父親の言葉を受けた後、ゼロは黙していた。


「……とりあえず、帰るか」


 表情が変わらないままの呟き。ゼロは自分で一度頷き、立ち上がる。


「そもそも帰る予定だったよな。アリアス、帰ろう」

「はい……」


 大丈夫だろうかと窺いつつも手を取られて立ち上がると、ゼロは父親にも「今度こそ帰る」と言って、アリアスを促して廊下に出た。

 しかし異変が起きたのは廊下を歩いてしばらくのとき。


「駄目だな」


 何ともないように見えていた表情、目が歪む。アリアスがどうしたのかと声をかけようと思ったら、それより僅かに早くゼロが廊下を曲がった。アリアスの記憶の限りでは玄関からの道を逸れたように思え、淀みない足取りで実家を行くゼロが行き着いたのは一つの扉の前。止まることなく手をかけ、開き、中に入る。

 入った部屋は空っぽではなく家具などがある一室だったが、長く使っている気配の無い空間だった。


「俺の部屋だ。一応な」


 簡潔に言ったゼロは、アリアスの手を離して扉にもたれかかった。


「ちょっと見ずにいてくれると、助かる」


 そう頼んだ彼は、顔を覆ってその手で髪を乱した。息を吐く。

 手のひらで顔を覆い下を向くゼロは、弱っていると感じる姿だった。


「……今日は色々悪い。話も、あそこでしなくてもいい話に巻き込んじまったし」

「謝らないで下さい、ゼロ様」


 何を謝るのか。

 アリアスはゼロが握り締めている方の手に触れた。彼は、動揺を収めようとしているかのようだった。たった今まで平静であった彼に起こった動揺の原因は予想するまでもなく――。

 手を両手で包み込んだアリアスに、ずらされた手のひらによりゼロの目があらわれる。あの部屋で淡々と母親を見ていた灰色の目は今、複雑な色を宿していた。

 それはそうだ。あの部屋では、ゼロは感情を抑えつけていたに過ぎなかったのだ。母親が現れた直後生まれ、複雑に混ざり合っていた感情は彼が一度瞬いたあとには凪がされていた。それが、部屋を後にして表に出て来ているようだった。


「……抱き締めてもいいか」


 尋ねられたアリアスは頷いて、むしろ自分から彼に腕を伸ばした。今、いつになく抱き締めてあげたくて仕方なかった。

 ゼロからも両腕が伸ばされ、あっという間にアリアスよりも遥かに大きな体に包み込まれる。包み込まれているはず、なのに、なぜかゼロがいつもより小さく感じた。

 だけれどやっぱり実際にはそんなことはなくて。自分に彼を包み込むことが出来たらいいのにと背中に回した腕で精一杯抱き締めながら、思った。


「本当は、『母親』には会わせないでおこうかと思ってた」


 陰がかかった声が落ちてきた。


「そう、なんですか?」

「会って良いことなんてないことは分かりきってたからな。自分の中にある記憶でそう判断して、変わっているはずねえと思ってた」


 思っていた。それは、現実は違っていたということだ。だからあの場での彼の反応、今の彼の状態になっている。


「……何で、ああして俺を見てくる。意味分かんねえ。何で勝手に、割り切ってくれてんだ」


 顔が見えず声だけが聞こえてきて、ゼロがこんなにも動揺していたことを知った。あの場でどのようにその動揺を抑えていたというのだろう。こんな動揺が起こるほどの出来事に、淡々とした様子とは裏腹に心の中はどのような状態だったのだろう。

 とっさに繕ったものの処理できる容量を越えていたものを吐き出したゼロは、けれど、自分の言葉に小さな呟きを重ねる。


「……いや、割り切ってんじゃねえか……」


 出来てしまった距離を後悔しており、向き合いたいと思っているとクレイグが言っていた。

 ゼロと距離を置き話すことも向き合うことも満足にしなかったと思われる母親が、今日、ゼロがいる部屋にやって来て向かい合い話し、目を合わせていた。当然のようで、ゼロにとっては異例のことだったのだ。そして話を聞くに、母親が後悔をし、作られた距離を見直したく思っていると言う。

 話を聞く限りの人間でも今になって、と思えそうなこと。

 だがきっと今になってなのではない。今だから、過去から現在に渡ってあり続ける溝を少しでも埋めようと距離を縮めようとしている。


「そんなこと、予想出来るはずねえだろ」


 混乱を吐き出し、ようやっと出来事を理解したゼロは最後に疲れたように言い、しばらく黙って深くアリアスを抱き締めた。





 五分くらいだろうか。

 見たことのない動揺を見せていたゼロが礼を述べ、抱擁は解かれた。五分という短い時間。とりあえずは全てを飲み込んで落ち着いた時間は、目に見える物質的な強さのみならず精神という彼の強さを物語る。

 部屋の中にあった椅子座り、部屋を改めて見てみた。

 生活感、人の気配の感じられない部屋だった。城のゼロの部屋も使わないものはないといった感じだが、言えば使うものが置かれ、ここでゼロが過ごしているのだという雰囲気がある。だが、この部屋は想像もつかない。


「何もねえだろ。学園に入って、何年生のときだったかは忘れたが、休暇中に家具以外はほぼ処分してやった」


 そうなのだ。家具以外ほとんど何もない。机の上に本が数冊、あとはペンが立ててあるのみ。ゼロの口振りでは引き出しの中には何もないのではなかろうか。部屋を飾る小物類は全くない。

 ゼロの部屋だと知らずに見れば、主のいない空き部屋だと思ったかもしれない。

 隣に座るゼロは微かに笑った。机から視線を彼に戻し、見上げるとアリアスは尋ねてみる。


「ゼロ様は、どんな子どもだったんですか?」


 この家にいたゼロは、どんな子どもだったのだろう。彼は何を思い、ここにおり、ここから出ていったのか。そして、母親との再会にどう関係しているのか。

 馬車の中でクレイグに聞いたが、それは外から見たものであって、ゼロ自身の視点ではない。今まで聞いたことのなかったことを、知りたかった。

 ゼロは考え込む様子もなく、「家にいた頃は……」と部屋を見て、教えてくれた。


「俺はこの家の長男として生まれた。長男として生まれたからには跡継ぎとして受けさせられる教育を受けて、そうなるべきだって信じてた。他にやることもなかったしな」


 昔、彼はあの机に向かっていたのだろう。

 貴族に生まれ、跡継ぎとなる予定の子どもが何歳からそういった教育を受けるのか、アリアスは知らない。その頃には左目は覆っていたのだろうか。


「だがずっと疑問だった」


 机を見ているゼロの眼差しが、遠くを見ているようになった。目に見えるはずのない、過去を見るような眼差し。


「こんな俺が本当に相応しいのかってな。親にあんな目を向けられる俺が家にいてもいいのか。弟が生まれてからはもっと疑問だった。弟は当たり前に親の色だけを受け継いで生まれてきた。その頃の俺は左目の理由を知らなかったこともあって……特にだったんだろうな。左目を隠しながらも、この左目を隠しているから周りの人間は俺に対して普通に接していられて、間違いなく俺の一部である左目を晒せばどうなるのか。そのとき俺はその位置にいることが相応しいという目を向けられるのか――どんな目を向けられるかは実証済みだったから、家にいることにも段々違和感が出てきた」


 そのときの彼が、どのような目付きをしていたのか分からない。心の内を隠して、周りに接していたのか。

 今アリアスが分からないのは、ゼロが子どものときに変わったからだ。


「竜の谷へ行ったのは、その後だ」


 竜が住むとされる谷で、ゼロは左目の色の理由を知ることになった。それ事態は以前に聞いたことがある。「そのとき家を出てた期間はシーヴァーが魔法で誤魔化してくれたんだよなあ」とどこか懐かしそうにゼロは言った。


「竜に会って初めて、俺は左目の色が竜の持つ色だって知った。それまでは自分は生まれつき持っていた色で、何でおかしいのかっていう判断基準は周りの反応だった。……知って改めて客観的に考えてみるとまあ母親もそんな反応になるよなって思ったぜ」


 竜のみが持つ色だから、人が持つには奇異な色。当人であるゼロはそう言うが、そんなに簡単に「だからだ」と整理して、区切りをつけて納得できる人は少ないと思う。


「家を出たのは、やっぱりそのままいるのは自分で納得出来なかったからだ。どれだけ仕方ねえなって考えても、居心地悪いのはごめんだって思ったのもある。それなら弟も生まれた、あいつの方が上手くやれる。俺は出て行く。その方が絶対全部上手く行く。――別に、俺はあの人自身を恨んでるとかいうことはねえんだ。そうなっても仕方なかった。ただな、」


 吐かれた息は、今まで彼が抱えてきた諦めを表しているようだった。


「溝と距離が出来たのは確かだ。それがあるのは確かで、埋まりそうなものでもない。一生、あの人から向けられる目は変わらねえと思ってたからな」

「変わり、ましたか」

「ああ」

「それは、ゼロ様にとって良いことですか」

「嫌なわけじゃない。予想外のことをされた気分なだけだ。けどな、いくらもう目を逸らされなかろうが、たぶん俺は昔見た向けられた目を一生忘れられねえと思うんだ」


 過去はなくならない。いくらゼロの母親が後悔していたとしても、そうあった過去があった事実は誰が無くそうとしても消えない。

 一番覚えているのはゼロで、もしかすると母親と目を合わせる度に思い出すのかもしれない。


「……私は、少しほっとしました」


 嫌なわけではないがそれ以上でもそれ以下でもないといったゼロの様子にアリアスが小さく胸の内をこぼすと、彼は首を傾げた。


「勝手ですけど、ゼロ様が仕方ないと思わなくてもよくなると思うと」


 本音は正確にはそこではなかったけど、そう答えた。

 距離を縮めることは、おそらく容易なことではない。もしもどちらもが歩み寄ろうとしても、ぎこちなさは残るだろう。

 でも、昔ゼロを拒絶していた彼女がゼロに歩み寄ろうとしていることは、本当に勝手かもしれないけれど、アリアスには嬉しく思えた。彼を拒絶してきたものが無くなるのだと。これがアリアスの本音だった。

 ゼロからも歩みよりをしようと、しなかろうと、もう彼の根底にあり続けていた母親の拒絶は無くなる。


「ゼロ様のお母様は、ゼロ様と同じ色の目をしていらっしゃいますね」


 アリアスは、ゼロの右目に向かって手を伸ばすようにした。


「……そうだったか?」

「はい」


 あなたの右目の色は、母親から受け継いだものだ。それによっても分かる、紛れもなく息子が、もう片方の目の色によって母親から避けられていた事実が余計に哀しくもある。


「……母親なんだよなあ」


 それはおそらく疑いようもないこととして存在する、一生変わらない事実。


「物心ついたときから、母親って認識してたようで、母親として見る機会なんてなかったからな」


 ゼロと母親にとって、距離、関係の『修復』ではない。修復は元々繋がっていての修復だ。二人はそれ以前の問題。元々の親子関係が無いに等しい。だからゼロはしっくり来ていないのだろう。

 それでも彼は、眼帯に覆われていない灰色の目を一度閉じ、ゆっくりと開いた。


「普通に、話せる日が来んのか」

「きっと」


 この先どれほど時間がかかろうと、その日はきっと来る。ゼロが今そう思っていなくとも、アリアスにはそう見えた。

 だってゼロは逃げなかった。あの場でも母親の突然の話に戸惑い、いくらすべてを覆い隠し繕おうとも、目を逸らさず、対応し続けていた。

 ゼロは強い人だ。相手が向き合う姿勢を少しでも見せた以上は、逃げないのだろう。さっきは動揺していたとしても急であったからで、少しずつ、少しずつ。今日ゼロの母親が短時間であの場を後にしたのは、正しかったと言うべきなのかもしれない。急に埋めようとしても埋まらない。

 ゼロの母親からだけでなく、ゼロからも歩いて近づいていく心積もりになったならば、いつかはきっと。


「アリアスに言われると、そうなる気がするな」


 ゼロは微かに笑って、それからアリアスの前髪を払ったかと思うと額に軽くキスをして、「ありがとう」と囁いた。

 何も、お礼に値することはしていないのに。


「やらなきゃ何も変わらねえか」


 ゼロは思案するような合間を置いて、部屋にある窓の方を見た。


「俺はランセと話さねえとな」







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