第19話 竜の企み
やっと『何か異常なことが起きた』と現実としてはじめて認識した周囲は、動きを取り戻していた。
ただし詳細は掴めず、さすがに誤魔化しにも限界があるので不安げな空気が漂っている。
アリアスも、空気から張り詰めた緊張と一瞬足りとも油断の許されぬ空気が急に無くなり、呆然としていたところ、動きを取り戻した。ルーウェンは気がかりそうにしていたが動かなければならないとあって、アリアスがもうここに心配はないし自分も医務室の方へ行くからと言うと、その場を去った。
けれど行く前に怪我はと訊ねる前だったので、こちらを先に言えば良かったと走っても追いつけなさそうな背中に後悔する。絶対怪我をしているのに、ゼロのことも混乱ばかりしていないで、何より先に治せば良かったのに……。
「ゼロ様……」
名前を呼ぶとなおさら後悔が濃くなる。
「行って、しまいましたです……」
ぽつりと呟きを耳にして横を見下ろすと、セウランは大きな瞳で向こうを見ていた。
「セウラン、大丈夫?」
「ぼくは、大丈夫、です」
そうは言われても橙の瞳が揺れている。一人にはしておけない。
アリアスもずっとこうして立ち尽くしていてもどうにもならないことから、しっかりしなければと少年を見て一度深く息を吐く。
壁を隔てた向こう側に見えるのは、大きな体を持った竜。飛べなくなっていたことや魔法を受けていたことを思い出す。
様子を診に行くべきではないか。
「セウラン、私と一緒に行こう。今から、医務室に少し寄って行ってからあの竜のところに行くの」
アリアスを見上げる少年は、こくりと小さく頷いた。その手と手を繋ぎ、アリアスもその場所を離れた。
医務室にはサイラスの魔法で地に伏した団員達が運びこまれ、ベッドは満員。今日一番忙しない。
意識を取り戻していない人もいるが、意識を取り戻したと見られる人もおり、身を起こして治療係に受け答えしている。
簡単に聞くと死人は無し。ゼロが向かい側の壁に叩きつけられたと同時にだったから、その魔法の余波でやられたのだろうか。
サイラスは人を殺しはしなかったのだ。
「何があったのか……」
「意識が戻った人に聞いても全員何があったか分からないと言うし……」
医務室に入っている情報はごくごく僅か。全く見えない場所にいたことが作用し、出入りする騎士団も騎士団で脱獄者が出たと知っている者がいてもこの状況で言うはずがない。
武術大会の再開はおそらく難しい。一番好ましい流れは全て誤魔化せるか、何も大したことはなかったように続けること。表面上はそう装いたい。
けれどこれでは……。
危機は去っても問題は残されていた。
数分余りで医務室を出ると、突如微かな地響きとそれから啼き声。竜の声だと察する。
急いで様子を確かめようと人の多い通路を通り抜けると、炎の鮮烈な橙に視界が染め上げられた。
観客のどよめきが上がる。
「行きますです」
「う、うん。行くには行くけど、セウランは」
「ぼくの存在は人の意識から外しますので、気にしないでくださいです」
出入りするための場所で竜を注視している団員の横をすり抜け、竜を遠巻きにする集団の後ろにつく。
「駄目だ。空間移動の魔法は炎で溶かされる」
「治療係で来ている魔法師の中に竜に関わる魔法師がいるはずだ。呼んでこい。こうなったらここで翼の傷を治してもらってヴァリアールに飛んでこの場から離れてもらうしかない」
どうやら竜をここから移動させようという計画が上手くいかなかったらしい。さっきの炎は移動させようとした魔法が溶かされたもののよう。そこでここで怪我を治して飛んで行ってもらおうという計画に推移した流れが見てとれた。
指示を受けた団員が一人中へ向かって走り出そうとしたところ、目がアリアスを見つけた。
「君は?」
「え、あ、あの……竜の傷を診に来ました」
事実であり、呼びに行かれようとしていた竜に関わる魔法師でもある。
伝えると、団員はその旨を前に伝えてあっという間にアリアスが前に通れる道が出来てしまう。元々様子を見られるなら見に来ようとはしていたけれど、こうも任される流れになるとは思っておらず若干たじろぐ。
しかし竜の怪我は治さなければと思い直し、申し訳ないが他の先輩もいるはずなので呼びに行ってくれるように頼んで足を前に出した。
「さっき少し興奮状態になったので、今から制御出来るように手綱をつけます。少々待っていただくことになります」
「大丈夫なのです。彼らは傷つけませんです」
団員の言葉に「はい」と言おうとしていたアリアスの隣から、大丈夫だと断言する言葉。見下ろすと、セウランが真っ直ぐアリアスを見上げていた。そういえばとても自然で気がつかなかったが誰もセウラン――小さな子どもに見える彼を不審そうに見る人がいない。
アリアスにはしっかり見えているのに、他の人には見えていないことにでもなっているのだろうか。
「近づけます。癒してあげて欲しいのです」
真剣に言われるもので、セウランが言うなら大丈夫だと思えたアリアスは待つように言った団員を見る。
「あの、大丈夫そうなので近づいてもいいですか?」
「え?」
「傷を治すために近づくのであれば、拘束具をつけるために近づくよりも無害そうに見えると思うので、竜も身構えないかと思います」
たぶん。アリアス的には、どちらにしても気が立っていれば竜だって何だって身構えるものは身構えるので何とも言えないと思う。
「では気をつけて近づき、少しでも片鱗があればすぐに距離を置いて下さい」
「はい」
許可が出て、アリアスは目だけでセウランに合図をして前にそびえ立つ竜にそっと近づいて行く。少しずつ、刺激しないように。
「ヴァリアール、傷を治したいだけだから。他には何も気に障ることはしないよ」
瞳孔が細い橙色の目が上からアリアスをじっと見下ろし、見つめ合い、周りを含めて動きを見守ってしばらく。
灰色の竜の体が沈んだ――地面に腰を下ろした。
「……ヴァリアール、ありがとう」
こちらの治療を受け入れてくれる姿勢を示したかのような行動に、アリアスは安堵の息をついた。
悠長にしている場合ではないので、刺激しないようにだけれどちょっとだけ早足で竜に近づいて、竜の体の周りをぐるりと歩いて怪我の具合を確める。
「翼が、やっぱり……」
滅多に怪我をしない竜の翼は酷く損傷し、血が流れていた。硬い鱗に覆われた体にも傷が見られ、信じられない思いだ。
「先にすべきなのは体か――」
思案の一端をを口にした途端に唸るような声が近くから響いてきた。
びっくりして顔を弾けあげると、ヴァリアールが首を曲げ、体の側面にいるアリアスを見ているではないか。睨んでいるように見えるのは、気のせいではなさそう。
「体を先に治そうかなと、思って」
害意でも感じたのかと、治そうとしているだけだという意思を伝えると、鋭い歯が並んだ隙間から微かな唸り声。
「体が先なのが、嫌だそうなのです」
「嫌?」
アリアスの後ろをついて来ていたセウランから思わぬ翻訳がやって来た。
「体を先に治すのが、嫌なの?」
制御のための手綱をつける団員がいたりするために小声で聞き返しを落とすと、「そのようです」と返ってくる。
それを踏まえて、灰色の竜を見返す。
「……じゃあ、翼から治すね?」
今度返ってきたのはゆっくりとした、それでいいと言うかのような瞬き。
どのみちどちらも治すのだ。翼の怪我から治そうではないか。
「……翼、もう少し下ろせる?」
これも話しかけてみると、翼がすんなり下りてくる。今日はとても素直である。
「翼の方が、薄い分怪我が酷くて痛いのかな」
何だか会話している気分になったアリアスは、呟きつつも患部に手を翳した。
「それにしても何だったんだ、あの男は」
「牢にいた奴が脱獄したそうだ」
「らしいな。ゼロ団長、魔法で一緒に飛んだんだろ。大丈夫か。あの人数で全然歯が立たなかったんだぞ」
「……大丈夫だろ、ゼロ団長だ。消える直前の魔法、あんな威力の見たことない。キレたんじゃないのか。相手がどれだけ酷いことになってるか考える方が正しい」
誰も、ゼロの左目を目撃した者はいないようだった。
「竜にこれだけ傷がつくの見たことあるかよ」
「ない。とんでもない奴もいたもんだな。野放しにしてしまえば、過去最悪の道を外れた魔法師だ」
途中、ようやく捕まった先輩が来て体の方の傷を治しはじめた。
アリアスが黙々と魔法力を注ぎ込み翼の傷を塞ぐと、竜は翼を持ち上げた。問題ないだろうか。
と、翼の動きを追っていたアリアスは視界にとんでもない光景を映してしまった。
「セウラン?」
いつ側から離れたのか、セウランが竜の背中によじ登っている。どうやってそこまで登ったのかも気になるが……。
「何してるの」
「この竜に、連れて行って、もらうです。人の元にいる竜と、人との契約とは、言葉を話せない代わりに、特別な繋がりがある……契約です。なのでこの竜は、ヴィーグレオさまの、ゼロさまの場所が、分かるはず、です。そしておそらく、行こうと思っている、です」
小声で訊くと一生懸命よじ登っているので、途切れ途切れの返答がされた。
「ゼロ様のところに行くの……?」
「はい。行かないわけにはいかないのです」
登り終えてアリアスを見たのは、決意に満ちた目。そうやって言える姿に、返す言葉がなくなった。
アリアスも行きたくないと、気にならないのかと言うと嘘になる。ゼロがサイラスとどこに行き、今頃どうなっているのか。あの様子で消えた彼。
見ているのも確かに怖い。でも、見えなくて待つだけしか出来ないのはもっと怖い。
大丈夫だろうか。心配で堪らない。
セウランに聞きたいことがたくさんある。封じと言った。とても止めたがっていたゼロは、セウランの心配していたことになったはず。あの状態はどうなのかと聞きたかった。
だけどアリアスは行っても何も出来ない。それが分かっているから何も言えなくなって、反対に手を強く握りしめる。
「あ、アリアスさまは駄目なのです!」
「……うん。私は行っても何も出来ないから。セウラン、ゼロ様のことお願いね」
「いえそんな意味で言ったのではないのです! 何も出来ないことなんて――」
腰をおろして大人しくしていた体が起き上がり、セウランが声を途切れさせ、治療のために近くにいたアリアスは一歩後退る。
ヴァリアールを見上げると両翼を上へ持ち上げて、まるで飛ぶ準備をしているみたいに見える。
「あれ、も、もしかして翼が治ったのでもう飛ぼうとしてますです?」
「え!?」
「翼を先に治してもらおうとしたのは、このためです!?」
「嘘、それは駄目。せめて怪我を治してから」
聞き分けの良かった態度はお仕舞いだとばかりに、制止の声も虚しく竜は羽ばたきをはじめ、強い風が吹きつける。
「飛ぶぞ!」
「翼の怪我はどうなりましたか」
「治しました……!」
腕で顔を庇うアリアスは、風に負けないように叫び返した。まさか翼が直ったらからといって、体にも怪我をしているのに飛ぶとは誰が思おうか。
「体の怪我は」
「まだ途中だ! ヴァリアール、途中で飛ぶなよ! じっと出来ないとか子どもか!」
向こう側から先輩のやけくそ気味な、切れ気味の叫びが聞こえた。
「ここから離れてくれるならそうさせよう! 手を離せ!」
ヴァリアールにつけられていた拘束が取られる。
アリアスも至近距離からの風に倒れないようじりじりと後ろへ下がり、足が地面から浮いた竜とその背のセウランを見上げる。それなのに、大きな鉤爪の生える竜の手が迫ってきて「え」と思ったときには捕まえられていた。
「!?」
捕まえられて、いる。器用にもアリアスを掴み、身動きが出来なくしているのは紛れもなく竜。鱗に覆われた手、触れられる位置にある鉤爪。
「……なに……」
今日一番の混乱に張りそうだ。
それくらいにあり得ないことに、今日何度目かの思考の混乱。ただ混乱の種類は異なる。
「ひっ、一人竜に捕まってます!」
「捕まってるだと?」
「おい、あれまずいぞ!」
前代未聞であろう出来事に、宙に浮き竜の身体が離れていく地上がまた一度の混乱に突き落とされている。
「ヴァリアール、それはさすがに洒落にならん!」
「後でゼロ団長に死ぬほど怒られるぞ! 悪いことは言わないから下ろせ! 降りてこい!」
説得の仕方が混乱を表していると思う。
かといって、確かに説得の仕方なんて見当がつかない。
「え、あっ、アリアスさまは駄目なのです。離すです!」
「せ、セウラン、これヴァリアールに止めるように言えない……!?」
「ええっと、言ってますが、どうも……あの、見ている人に衝撃与えるので、アリアスさまにも見えないように魔法かけますです!」
「そうじゃなくて――っ」
地上はぐんぐんと遠ざかり、多くの人の歓声ともとれる声を下から受けて、竜は空へと飛び立った。――アリアスを連れて。
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