第34話 軋む心
子どもの竜の調子が戻らない。
寝つきが悪いように見えていた、竜の優れない調子は続いており、さらに食欲不振も付け加わっていた。
エリーゼから、体調関係なく子竜を出さないようにとの指示があり、竜は魔法に囲まれた寝床で一日を過ごす日々が過ぎる。芝生の上を駆けていた様子を見た日が遠い昔のようだ。
「……魔法の中にいてもこれですものね」
「不安だなぁ」
「せめてこれ以上悪くならなければいいが、悪くなっているように見える」
「そんなこと言わないで」
「一体何が原因なんだろうか」
「このままで大丈夫なはずはないでしょうね……」
「過去に、竜が育成途中に死んだことって――」
「おい!」
潜められた話し声があった空間はしん、と静まり返った。
地下に保管されている、過去の竜が体調を崩したときのことがまとめられた記録はさらい終えた。その上での竜の変調の原因不明は魔法師たちを大いに困惑させ、不安に陥らせていた。
このままでは死んでしまうのではないか、と誰もの頭にその考えは浮かんでいるだろう。
竜を少し離れたところから見守っている魔法師の人数は、通常夜番に当たる数よりも多い。本来当番ではない者たちが混ざっているのでこうなっている。
「この様子、二年前に似ている気がする」
「ディオンも思ったか、おれも思ってた。それ、二年前のときの記録か?」
「うん。一度見た後だけど、見直しておきたくなった」
淡い光の中にいる竜から離れたところ、出入口近くにいるアリアスの横で、共に外から入ってきた先輩による会話がぽつりと始まった。
「……ただあのときも結局原因は不明だった」
「そうだったな」
およそ二年前、大人の竜が住みかとする『巣』で全ての竜が地に伏した。いずれも死ぬことはなく回復に成功したと聞いたが、そのときの竜のぐったりとした様子はアリアスも目の当たりにした。当時は一日に満たない間いただけで、詳しい情報も耳に入れられる状態ではなかったので、
記録は残されており、見ようと見られるそれは今ディオンの手にあるようだ。地下に寄って取ってきて読んでいたものは、それだったのか。
先輩たちの話を聞くだけでもこの状況は重なって見えるらしい。
「でもファーレルは子どもだから、まだ弱い。同じ状態に陥っているのなら……大丈夫だろうか」
「二年前は成体の竜でもだいぶ弱ってたからな。そのときは回復したことで安心の方が大きかったが、原因不明っていうのはなんだったんだろうな」
「……『
「ん? 何て言った?」
「……そのとき、『悪しきもの』が漂っているのかという話が出たんだ」
「出たか? そんな話」
「本格的に人員が投入される前、事が発覚した直後の話」
「おれも行く前のことか」
「うん」
「悪しきものって何だよ。……伝承とかのやつか?」
「分からない。ただ、レルルカ様がそう口にしたことが引っかかっていた。――この記録を担当してそれを記しておいたのは、僕だ」
「……指すところの意味はさっぱりだが、そのことがつまり?」
「あのとき最終的には原因不明で終わった。でも普通なら追及して然るべきだと、今こうなってみると思う」
「うん」
「本当は原因は分かっていたんじゃないかって今、思った。レルルカ様や、エリーゼ様たちの立場の人には」
小さな会話が一度途切れる。
「……そうだとして記録に残さない理由ってあるか?」
「それは分からない。……今回、エリーゼ様はしばらく竜を出さないようにと指示した。これはこの状況においての僕の思い込みかもしれないけど、エリーゼ様が記録をもう一度さらってみるようにと言わないのは、変だ。魔法で囲み、出さないようにだけ言い、単に時間をやり過ごそうとしているみたいに思える」
「……この状況での模索なしの食い止めるためだけの対策みたいだ、ってことはじいさんも言ってたなあ。二年前は結局どうしたんだった……?」
「ルーウェン団長が結界魔法を使って、好転した。完全な回復はそこから。続けていたら回復していた」
「結界魔法で好転……したっていうなら、今からファーレルにも結界魔法を使うべきか?」
「二年前、巣でルーウェン団長が使った結界魔法は、普通の結界魔法じゃない」
「あー、ルーウェン団長の結界魔法だからそうだな」
「…………だから、引っかかった」
「じゃあルーウェン団長に頼んでみるべきか?」
二年前、あの場を好転させたのは邪悪なものをこの地から追い払ったとされる結界魔法と同じもの。
――今、子どもの竜があのようなことになっているのは封じの綻びが生じている境目のせいではないか
漠然と思い、遅れて心が鈍く軋む。
アリアスは片方の手で、もう片方の腕を掴んで目の前の光景だけを意識しようとする。
現在猫のように身を丸めて目を閉じている竜は、橙の瞳が覗いたと思っても、瞼がぱっちり開くことはなく、すぐに瞼を下ろしてしまう。けれども眠れているようでもない。
「ルーウェン団長に……。それもエリーゼ様が二年前との類似性を見つけていたのなら、すでに頼んでいることだと思う」
「見つけてないかもしれないだろう。エリーゼ様も忙しい、ここにいる時間はおれたちの方が長い。見逃すこともある」
「……うん、まあそうかもしれない」
パタンと分厚い記録本が閉じられた。
「アリアス」
「――――はい」
急に呼ばれて横を見ると、今までそこで話していたディオンがこちらを見ていた。
「寒い?」
「……いいえ?」
中は温かくされているから、寒いとは感じていない。唐突な問いに答えを返すと、なぜかディオンは首を捻るような動作をする。
「体調が悪いなら、早めに言って」
「……?」
「震えているから」
指摘されて自らを見下ろすと、手が細かに震えを表していた。即座に腕を掴む手に力をいれると、止まる。
「あー、アリアスは奇病の病み上がりだからな」
「……いえ、特に体調が悪いことはないので、」
「あ、ちょっと待て。――アリアスってルーウェン団長の妹弟子だよな」
二年前のことで、竜の育成専門の魔法師にはアリアスがジオの弟子であり、つまりはルーウェンの妹弟子に当たることは浅く知られている。
声を潜めた上での言葉に、アリアスは「一応、はい」と応じる。
「言おうとしているところは、僕には分かった。けれど私的に頼むことではないから、アリアスに言っても仕方がないことじゃないかと、僕は思う」
「あーいやまあそうだけど、最近騎士団バタバタしているだろ? どうもこの前戻ってきたゼロ団長だけでなく、ここのところ竜のところにあまり来ていないルーウェン団長も忙しいっぽい。捕まり難いんだよ。そこで、」
「……ルーウェン団長には、私も最近会っていません」
「そうなのか?」
「まあ職場違うもんなあ。となると、書類作って騎士団に宛てて正規ルートで待つしかないか」と一方の先輩魔法師が言えば、「それが元々正しいやり方だから」ともう一方の先輩魔法師が正論を述べた。
「でも出来るだけ早急なのが望ましいよな。悠長にしていたら、どうなるか。一応おれたちの普通の結界魔法試すように提案してみるか」
もし、もしも『その結界魔法』を使っても、根本的な解決にはならないのではないだろうか。あれはおそらく結界範囲内の悪いものを弾き、外とを区切っているだけだ。
「……たぶん、原因はファーレル自身の中にはないので、一時しのぎをして待つしかないと思います」
「え?」
呟きを落としたアリアスは、先輩の聞き返しに気がつくことはなく、竜に視線を注ぐ。
おそらく、今ここでやれることはないのだと思う。境目が見つかり、封じを担っている結界が崩れはじめている頃の竜の変調。境目の向こう側にあるものが、『こちら』と正反対の魔法が満ちた世界であるというのなら、良くないものが洩れているのかもしれない。
竜の変調もそれゆえだとすれば、変調を停滞させることが関の山。
根源をどうにかしないことには。
「アリアス?」
――根源をどうにかする時、いなくなってしまう人がいる
急激に、アリアスはこの場に立っていることに違和感を覚えた。アリアスが竜の育成に関わっている以上、もう慣れるくらいには立ち入り、別におかしくはないはずの場所。
竜の世話をする、当たり前の行動。
その日常の裏で起こっている出来事を知っているから、ずれが生じる。
アリアスが仕事に行き、何も起こっていないかのような変わらない場所にいればいるほどに出てくる焦燥は消えていない。
いつも通りの行動をしている間に、時は進んで戻ってくれることはないのだ。それでもアリアスは日常を続けなければならなくて、否応なしに『その時』を待っている形になっていることに、気がついてしまう。
師にさえどうにも出来ない事態だと分かった時からアリアスの心は鈍っている。無意識が防衛を取っているのかもしれない。
――少しでも現実から受け続ける衝撃を少なくしようと、まともに受け続ければ限界が来てしまうと。
それでもなお、ルーウェンの名前を聞く、思う度に心が軋み、何も出来ないことを実感する。この『何でもない時間』を過ごしている自分は何をしているのだろう。
息を浅く吸う。
「アリアス、大丈夫?」
気がつけば、ディオンが視界にいた。
「はい、」
いいや、どうかしている。『何でもない時間』を何でもないように過ごせなくてどうするのか。
こんなことも出来ないのか。
言える、言う、大丈夫。何でもない。
「これだけ人手いるから、休んできてもいいよ」
「いえ、大丈夫です」
きゅう、と小さな啼き声。
小さな竜の声に、アリアスもディオンも周りの魔法師も子どもの竜を注視した。
「あ」
しかし近くでそんな声が聞こえて、アリアスが見ると、先輩の視線が、竜ではなくアリアスの後ろへ流れている。
そこで初めて捉えた微かな足音は、後ろから。同時に誰か背後に現れたと感じて、アリアスはゆっくりと振り返った。
「……?」
後ろに現れていたのは、軍服姿の背が高い人で、見上げると顔が合った。
「……ゼロ様……?」
灰色の髪、眼帯が左目を覆った顔がぼんやりと照らされて、ゼロがそこにいた。
アリアスはゼロが任務から戻ってきて地下で会って以来、久しぶりに会うことになることとは別にすぐにはそれ以上の反応が出来なかった。けれどもその顔を認識していくにつれ、鈍っている心と、緊張で張っている精神が緩んでいくように感じた。
「大丈夫か」
だからゼロがそう尋ねてきたとき、反射的に首を振りたくなった。
「だよな。聞いた俺が悪かった」
実際に首は振らなかったのに、ゼロは気がかりそうに目を細める。
「ディオン」
「ゼロ、一体――」
「アリアス連れて行くぜ」
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